二度目の冬の訪れ ②
カランコロン
開店前の扉が開いた。
「おはようございます」
機械音の向こうから聞こえた声に、リスさんと私は大急ぎで工場から顔を出した。
「おはようございます!」
稗田さんが、今年は雪虫よりも早く、ベッカライウグイスへやって来た。
リスさんと私は、そろそろだろうと分かっていたので、稗田さんの聳え立つような長身の姿が、早朝に現われても、驚くことはなかった。
「寒くなりましたね」
冬用の作業着に身を包んだ稗田さんは、ちっとも寒そうには見えない。私は、それが特注のお品なのか、まだ聞けずにいたが、稗田さんのために熱いコーヒーを準備し始めた。
「今、ストーブを点けますね」
リスさんは、急いでレジ横のカウンターを跳ね上げると、ガスストーブへ向かった。
まだ早朝から火を入れるほどの寒さではなかったが、それを止めない稗田さんは、案外寒がりなのかも知れなかった。
「稗田さん、焼きたて、何にされますか?」
リスさんに言われ、稗田さんは、両足の幅を開くと、高い位置にある頭をキリンのように傾げて、パン置き場を覗き込んだ。
「あぁ、いい匂いだ。……そうだなぁ……ラムレーズンのハードロールと、次焼き上がったら、デニッシュも食べたいな、いい?」
リスさんは、頷いた。
もうすぐ、朝一番のデニッシュが焼き上がる。稗田さんのために、まだあたたかいデニッシュに冷たいカスタードクリームを、リスさんはたっぷりと絞り、赤いカラントのジャムも零れるほどのせるだろう。
稗田さんは、お店の中をほんの三歩で縦断して、カウンター席の真ん中、特等席に腰掛けた。背の高い稗田さんにとっては普通の歩幅だが、一歩がスローモーションのようにひどくゆったりとして見える。
カウンターや椅子は、稗田さんにはとても小さい。
けれど、そんなことにとうに慣れていて、巧みに腰掛けた大きな背中は、大きな窓とお店の中にとても馴染んで見える。
私は、注文のパンとコーヒーを稗田さんの元に運んだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
淹れたてのコーヒーや焼けたパンの香りに混じって、稗田さんからは冬の針葉樹の匂いがした。
ベッカライウグイスは、少しずつ、色んな匂いが漂い、攪拌され、外へ逃げていく。その、一日の初めの匂いに思った。
「稗田さん、夏には、パーゴラを作りに来てくださって、ありがとうございました」
稗田さんは、私を見て目を細めた。
「とっても素敵な木蔭になって、秋には実もたくさんつきました。お客さんたちにも、評判だったんですよ」
「それは、よかった」
リスさんが、レッドカラントを鏤めたペストリーを運んで来た。
「どうぞ」
稗田さんが、少し目を見開いた。
「これは、綺麗だね」
赤い実は、半透明で甘酸っぱい。
「今年、初めて作ってみたんです」
「そう」
私たちは、稗田さんが静かに庭を眺めるために、工場へと戻って仕事を続けた。
稗田さんの中には、春の庭がある。
大きな嵌め殺しの窓の向こうは、冬へ向かう庭が、濃厚だった色を少しずつ褪色させていた。稗田さんは腰を上げ、庭へと向かった。
リスさんは、次々と焼き上がるパンを、パン置き場やショーケースへ移動させ、私はお店の床をきりりと磨き上げた。焦げ茶色の床板に、鈍い午前の陽が宿る頃、稗田さんは庭から戻ってきた。
リスさんと私は、カウンターの窓辺へ駆け寄った。
もう枯れていくばかりだった庭が、稗田さんの手によって、雪が降るまでのひとときを鮮やかに彩る風景に変わっていた。そして、その下には春の庭が眠っている。
リスさんと私が植えたケイトウは、手入れされて小さな炎を吹き返し、その隣には、まるで対照的な植物が植えられていた。
「稗田さん、あれ、珊瑚みたいに見えますけど……」
稗田さんは、私たちの横に立ち、ずっと高いところから言った。
「あれは、新しい葉ボタンなんだよ」
「そうなんですか」
「珊瑚にしか見えない……」
リスさんと私は、稗田さんを見上げて訴えた。
稗田さんは、一度戻った車から、大きな鉢を抱えて再び現れた。
「じゃあ、これ」
グリーンのリボンがついた、真っ赤なシクラメンの鉢である。
それは、稗田さんにしか持ち上げられないほど、大きい。
「うわぁ。綺麗」
「ありがとうございます!」
「夏越しの仕方は、また春に。ポインセチアは上手くいった?」
「はい。稗田さんが教えてくださったとおりにしました。今年は、家の方に置きます」
稗田さんは、頷くと、リスさんに尋ねずに、昨年ポインセチアを置いた場所へシクラメンを運んだ。
「ありがとうございます」
リスさんはお礼の封筒と、シュトーレンやパンを詰めた袋を稗田さんに手渡した。
「今年は、球根を少し間引いたのと、新しくクロッカスをたくさん植えておいたよ。来年の春には宿根を増やそうと思うけれど、植えたいものはある?」
リスさんは稗田さんに聞いた。
「ルピナスを色々試してみたいんですけど、増えすぎますか?」
稗田さんは、窓の向こうの庭を見た。
「いや、大丈夫。ベンチの左奥に、植えよう。塀の下には、また石竹が咲くよ」
それは、私が稗田さんにお願いして植えてもらったものである。私は庭から目を離し、稗田さんに言った。
「とっても楽しみです」
稗田さんは、毎年、温かい冬を置いていってくれる気がした。
稗田さんがプレゼントに置いていってくれた真っ赤なシクラメンの鉢は、ベッカライウグイスにやってくる季節の階を、ほんのりと染めた。
お客さんたちは、それに気づいてくださり、季節は巡っていく。
午後からは、古賀さんが、オーケストラの練習前のひとときを、カウンターの右端で愉しんだ。
リスさんが工場で、業者さんからの搬入品を確かめていたので、私は、古賀さんにコーヒーを注ぎに行った。
古賀さんが、ふと手にしていた楽譜から顔を上げてお礼を言った。
「ありがとうございます」
「いいえ。どうぞ」
古賀さんのカップから、いい匂いの湯気が上がった。
「……来春さん、何か心配事ですか?」
「え?」
思いがけない言葉に、私は驚いた。
古賀さんは、リスさんとリスさんの作るパンにしか興味がない、といっては語弊があるだろうが、ベッカライウグイスにおいてはほとんどそうではないかと思っていた。
古賀さんは、案外鋭いのだ。いや、案外とは失礼な話で、私が心配事のある顔をしていたのだろう。
「ちょっと、お品物を喜んでいただけたかと考えていて……」
「リスさんにですか?」
「いえ、リスさんにではないんですけれど……お礼に、なかなかいいなと思うものが見つからなかったんです。相応しいものをと思っても、ありきたりだったな、って考えていたんです。古賀さんは、今まで嬉しかったプレゼントとか、ありますか?」
古賀さんが、カップを持ち上げてコーヒーを一口飲んだ。
「僕ですか?……一番嬉しかったのは……手紙かな、あとユニコーンの人形」
「そうなんですか?」
古賀さんの、あのユニコーンの発祥は、きっとそのプレゼントなのだ。
古賀さんは、過ぎた時を懐かしむような微笑みを浮かべた。
「恩師の、お嬢さんからのプレゼントだったんですよね」
はた、と私たちの会話が途切れた。
リスさんが、レジカウンターの中からこちらを見ていたことに、気がついたのだ。
リスさんは、何の気なしににこにこしている。
私は、古賀さんを見た。
古賀さんは、リスさんを見て何度か瞬きすると、誰も追い詰めたりしていないのに深みにはまったような表情で軽く口を結んだ。
それから、再び私を見ると慌てて言ったのだった。
「お嬢さん、五歳、ね」
リスさんの様子に変化はひと匙もなかった。
古賀さんは、心臓に悪い。
私は、パン置き場のパンを移動させに、ショーケースの奥へと引っ込んだ。
しかし、その夕刻、小さな変化が訪れた。
「あ」
練習のために帰り支度を始めていた古賀さんが、呟くように声を上げ、こちらを振り返った。
「リスさん、雪虫」
リスさんは、静かにレジ横のカウンターを跳ね上げると、お店の扉を開けた古賀さんと一緒に、外を覗いた。
二人の白い息とともに、冷たい空気が、店内に流れ込む。
その変化は、二度目の冬の、雪虫が運んだものだったのかも知れなかった。
重たい扉を、リスさんの頭の上で支えていた古賀さんが、そのままリスさんを見下ろして言ったのだ。
「リスさん、僕の演奏会に来てください」




