たいちゃんが関わった三つの案件 ②
たいちゃんたちの話を、聞くまいと思っても、狭い店内のことである、自然と耳に入ってしまう。
いくら進路を自分で選択し、社会からは成年とみなされても、まだ世慣れてもいない理想でいっぱいの少女たちである。
口を挟むつもりは毛頭ないが、たいちゃんが心配で、リスさんと私は思わず顔を見合わせた。
たいちゃんは、影を含んだ眦を上げると、すっきりとした表情でわかさんとマリーナさんの方を見た。その口調は楽しげだった。
なんて推進力いっぱいの、小舟なのだろうか。
「ずっと、英語を習わせてくれて、他にも好きなことをさせてもらってきたから、親に言うのが一番、怖かったの。反対されるかな、と思って。私、朝苦手すぎるし、自分がもし私みたいな子の親だったら、どうしたって心配だから。
でも、反対されてやめるって、それはたいした覚悟じゃないし、そんなじゃ結局やっていけないんじゃないかと思って、思い切って言ってみたの。
いざ言ったら、『そうなんだ、分かってたよ~』って感じで、拍子抜けしたよ。
わかちゃんとマリーナの方が、深刻そうな顔してる!……でも、みんな、私の将来のことを本気で考えてくれてるからだって、今は分かる。賛成しても、反対しても、心配掛けてごめんねだし、ありがとうなんだよ」
わかさんとマリーナさんは、眉根を寄せたままだったが、ほっと息を吐いた。
「で、たいちゃん、どうするの?学校とか、決めた?」
「なんになりたいの?」
「ふっふっふー」
「なによぅ」
「なにさぁ」
リスさんと私は、少しだけ胸をなで下ろし、互いの微笑みを見た。戯れが、可愛い。
たいちゃんは、ひとしきりもったいぶった後、胸を反らせて声を開放した。
「パン屋さんよ!」
ベッカライウグイスに集った一同が、瞬時にして耳目を奪われた。
リスさんの表情が一変した。
全員の視線が、たいちゃんに注がれた。
だが、私たちの驚きを余所に、マリーナさんが愁眉を開き、当然といった表情になった。
「分かってた~!そうじゃないかって!」
「やっぱり?」
「そっかー」
わかさんも、妙に納得している。
「もちろん、今まで頑張ってきたから、勉強もちゃんと続けるよ」
「よかったー。たいちゃんにはこれまで通り、英語をみてもらわないと!」
「だよねー」
ついていけないのは、リスさんと私ばかりである。
いや、古賀さんも、呆然として、右端からたいちゃんの背中を見ている。同じ「一日パン屋さん」体験者としては、当然だろう。
だが、そこで私は鮮明に思い出した。古賀さんもあの時言ったではないか。たいちゃんと同じことを。
私たち大人三人は、心に渦巻く一連の出来事に、当てはまるべき少し先の、未来のピースを探して、頭の中で右往左往するしかなかった。
そしてたいちゃんは、首を伸ばしてこちらを振り返ると、元気いっぱい宣言した。
「リスさん!来春さん!よろしくお願いします!」
リスさんと私は、何をよろしくされたのか分からず、私たちがあたふたする様子に、女の子たちは予定調和のようにさざめき笑ったのだった。
それからというもの、たいちゃんは、ベッカライウグイスへ以前よりもよく訪れるようになった。
それでも「勉強はやめない」と宣言したとおり節度のある訪いだったが、晴れやかな表情をして、週に一度やってきた。そしてカフェオレを飲みながらパンを味わい、リスさんに、パン屋さんやお菓子屋さん界隈の情報をあれこれ尋ねるのだった。
時折、間違って私に尋ねたりするのが可愛いところだったが、私にはその手の情報は皆無である。だが、私は、別の件でたいちゃんに目をつけられていたのだった。
それが分かったのは、次にたいちゃんがベッカライウグイスへやってきたときだった。
カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
寒い外からやってきたたいちゃんの頬は、珍しく赤らんでいた。低血圧のたいちゃんが血色よいのは、寒さのためであるとはいえいいことなのだろうか。私は、とりあえず元気そうなたいちゃんの様子に安心した。
「たいちゃん、今日は学校ずいぶん早く終わったのね?」
たいちゃんは、うずうずとこみ上げてくるものを飲み下してから言った。
「そうなんです来春さん!模試が終わったんですよー」
なるほど。
「それは、お疲れ様。少しゆっくりできるわね」
たいちゃんは、やはり最後まで手を抜かずに勉強を頑張っているのだった。
それから、たいちゃんは、何か気になっているようにカウンターへ目をやった。
カウンターの右端には、いつもの如く自分の中の音楽に揺れている古賀さんがいる。その背中を見てから、こちらへ視線を戻した。
「来春さん、気のせいかも知れないんですが、私、このところ体調がいいんです」
私は、その言葉に嬉しくなった。
「そうなの?!」
たいちゃんは、にこにこと頷いた。
「以前のだるさとか、どうにもならない頭の重さや頭痛が少し軽くなった気がするんです。朝は……やっぱり苦手ですけど、前ほどたいへんじゃないの」
「よかった、たいちゃん」
たいちゃんは、ショーケースに残っていたハードロールとカフェオレを注文すると、ガスストーブの前に立った。
立ちながら、若草色のマフラーを緩め、コートの釦を外した。
「前に、リスさんが話してくれたじゃないですか、友達のこと」
リスさんは、たいちゃんが「一日パン屋さん体験」で体調を崩し泣いていたところを、自分の友人にも同じような体質の人がいる、と話して元気づけたことがあった。
私は、頷きながらたいちゃんの注文の準備をした。
「私、そのときは、私も大人になるにつれて少しずつよくなってきたらいいな、って淡い希望みたいな感じだったんですけど、パン屋さんになる、って決めてから、勉強以外に色々やってみたんです。病院でも、鉄剤をもらったり、食べ物とか睡眠とかものすごく気をつけて。私、朝いちの梅干し湯を飲んでるんですよ!それから……カフェオレかな」
「梅干し湯、カフェオレ……」
たいちゃんのお腹は、朝からたいへんである。
たいちゃんは、指先をストーブに翳しながら続けた。
「私、コーヒー苦手じゃないですか。実は紅茶も苦手で、カフェイン自体がだめだったの。飲むと、妙に心臓がバクバクしちゃうの。でも、カフェオレって、ここで飲ませてもらってからものすごく体に合うみたいで、たぶん、カフェインとタンパク質がいいんじゃないかと思う……梅干し湯飲んで、お風呂に入って、プラスカフェオレで、バス登校までこぎ着けたの!」
たいちゃんは、こちらを見ているから気づかないが、古賀さんがたいちゃんを振り返って微笑んでいるのが見えた。
私も、嬉しい限りだ。
「よかった、たいちゃん」
「ふふふ」
たいちゃんは、幼い女の子のように頬を横に引き延ばして微笑んだ。
リスさんは、少し前から材料の調達に出掛けていたのだが、まだ帰らないとみた古賀さんが、席を立った。
「ごちそうさまでした」
暮れの演奏会に向けて、古賀さんが指揮をするオーケストラは、夕方から毎日練習が入っている。古賀さんは、いつもぎりぎりまでベッカライウグイスで時間を過ごしたが、出るときは慌ただしく去って行く。
マフラーをぐるぐると巻き、厚いオーバーコートを着込むと、意を決した表情で、古賀さんは重たい扉を開けた。
びゆっと冷たい木枯らしが吹き込んだが、古賀さんは私に一礼すると、急いで扉を閉めた。
私は、たいちゃんへ温かいカフェオレとハードロールを運んだ。
「お待たせしました」
たいちゃんは、カウンターの横側の窓から、小さくなる古賀さんの後ろ姿を見ていた。それから徐に、私を仰ぎ見た。
「来春さん、今の人って、誰ですか?」
「え?」
「私、ずっと思ってたんですよね。このカウンターに、いっつも右端と左端に同じ人が座ってるじゃないですか。たまに来る私でさえ、ものすごく遭遇率が高い」
私は、笑った。
「あぁ。そうね、遭遇率高めよね。左端に座ってるのは、みっちゃん、っていう、ここの裏に住んでる常連さんよ。お隣同士だから、小さい頃からリスさんを可愛がってるの」
「うん、みっちゃん。知ってた」
そう言いながらも、たいちゃんは、なぁるほどというような顔をして、みっちゃん不在の席を見つめた。
それから、その表情が、一瞬、心に引っかかる何かを呼び覚されたように変わった。
「この前………………ううん、…………じゃ、さっきの人は?」
「古賀さん」
「知ってた。三月に、私の隣に名前が書かれてたでしょ?とても『一日パン屋さん』をやったとは思えないけど、ま、頑張ったのよね?」
「ふふふ。そうね」
「でも、あのユニコーンTシャツは、ちょっとね。私が店員さんをしていたときに、あの姿でにっこにこしながらやってきたのよ?」
私は、たいちゃんの言葉を否定も肯定もできず、曖昧に微笑んだ。去年の夏の出来事が、反省と共に生々しく蘇る。そんな私への追及の手を、たいちゃんは緩めなかった。
「あとは?」
「あぁ、古賀さんね、お仕事は指揮者なの。たいちゃんも、街でポスターを見かけたらびっくりするわよ」
「あとは?」
「あと?そうね……古賀さん、ピアノも教えてるみたいね」
「あとは?」
私は、思わずたいちゃんに尋ね返した。
「あと……とは?」
「来春さん、言ってないことあるでしょ」
「え?」
私は、思い当たることを考えながら、訳ありの微妙な笑みを作って首を傾けた。
「お客さんのことをあんまり言うのは……ね」
しかし、たいちゃんはきっぱりと断言した。
「古賀さん、お客さんじゃないでしょ」
「え?」
「古賀さん、リスさんのこと、好きでしょ」
「えっ?!」
「狙ってる?」
「ええっ」
そんな、獲物みたいな……。
たいちゃんは、こくりとカフェオレを一口飲んだ。
リスさん、早く帰ってこないかな。
私が、カウンター横の窓から路地を覗こうとするのを、たいちゃんが引き戻した。
「来春さん」
「え?」
「来春さん、及び腰すぎ」
「え……」
及び腰……。
「いいですか?ああいう人たちには、ばーんと言わないといつまでも、あのままですよ?」
ばーんと……。
「でも……私には、リスさんにそんなこと言えないし、本人同士に任せておいた方が……」
「来春さん、言う相手、間違ってます」
「え……」
「リスさんにじゃなくって、古賀さんに言うんですよ!」
私は、木製のトレイを抱えたまま考えた。
「…………それは、古賀さんを焚きつけるってこと……?」
たいちゃんは、正解とばかりに深く頷いてみせた。
「古賀さん、分かってませんよ、リスさんのこと、絶対。このままのんびり作戦で、いつまでかかるやらですよ」
たいちゃん……すごい……。
私は、たいちゃんの勢いに押されて、こくこく頷いた。
「たいちゃんって、人生経験、すごいのね」
「あるわけないじゃないですか!」
仰るとおり。
「リスさんと来春さんと古賀さんが、なしなしでのんびりしすぎなんですよ!」
私まで……。
「私が、古賀さんに言います」
たいちゃんが、胸を張って宣言した。ここのところで、そんな姿を見たのは二度目だった。
「え」
「ばーんっと」
「…………ばーんっと……」
「私、将来まで見通してますから!」
たいちゃん、すごい。
でも、待って欲しい。たいちゃんは、智翠さんのことを知らない。たいちゃんにそのことをどううまく伝えようか考えていたところだった。
カランコロン
「ただいま戻りました」
リスさんが外出から戻ってきた。
業者さんに頼むまでもなかった足りない材料を買いに出掛けたのだが、今週はリスさんの食事当番でもあったので、肩に掛けたバッグが大きく膨らんでいた。
「あら、たいちゃん、いらっしゃいませ」
「こんにちは、リスさん!」
リスさんは、暖かそうにしているたいちゃんを見ると、安心したように微笑んだ。
冷たい風の吹く外から帰ったはずなのに、リスさんの大きな尻尾のような巻き毛は、その背中で、春風を含んでいるかのように温かく膨らんで見えた。
たいちゃんと私が、少しだけ、古賀さんの帰宅に言及しないリスさんに失望の心を抱えたとも知らず、リスさんは右端のカウンターを目にも留めずに、レジ横から工場へと向かったのだった。




