たいちゃんが関わった三つの案件 ①
はーっ。
それにしても、なかなか決まらないな……と、時間ばかりが滝のように流れ落ちていくようで、私はベッカライウグイスのショーケースの奥で、小さな溜息を吐いた。
昨夜、作っていたツルウメモドキの飾りが、仕上がった。
けれど、出来てみると素人の手習い程度の物で、見栄えも悪く溜息が増してしまう。
あれから、休日には街へ出て色んなお店を覗いてみるが、素敵だな思うものにはまだ出会えない。
秋は、日増しに彩りを褪色させていく。
午前中からのんびりとコーヒーを飲んでいたみっちゃんが、席を立った。
「みっちゃん、時間ですか?」
「うん、そう」
みっちゃんは、律儀に会計を済ませた。
「日が落ちると、もう地面が凍りますから、気を付けて」
みっちゃんは、穏やかな表情で頷いた。
「ああ、気を付けるよ。行って来ます」
私は、夕方になるといつもみっちゃんを迎えに来ていたみずほさんを思いだしながら、入り口の外套掛けにあるコートを手渡し、みっちゃんを午後からのボランティアへと送り出した。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
秋風の中、お昼にはお客さんのラッシュが続く。
幾人かの常連さんは、みっちゃんのいないカウンターでコーヒーとパンを召し上がっていってくださる。
大きな嵌め殺しの窓の向こうに見える、庭の芝生は、しんなりと地面に貼りついて精気を失っていた。
リスさんは、エアコンを止めると、今年初めてガスストーブに火を点けた。
古く摩滅し、底光りを宿す床に、ほんのりと暖かさが染み渡り、耳には心地よい低音が伝わってきた。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
古賀さんが、またベッカライウグイスを足繁く訪れるようになっていた。海外での仕事が一段落すると、年末にかけてはこの街でのスケジュールが詰まっている。
先日、リスさんと出掛けたデパートで、エスカレーターの通りすがりに古賀さんの演奏会のポスターを見つけた。ポスターの中で壁に寄りかかった古賀さんは、相変わらず別人のような憂い顔をして、組んだ腕から指揮棒を覗かせていた。
去年とは違う写真だが、表情は同じだった。真っ直ぐに、見えないものを見つめていた。
けれど、ベッカライウグイスへやって来る古賀さんは、ポスターの中の人物とはかけ離れている。
屈託なく笑い、どこかうっかりしてもいて、楽譜の世界に没頭する姿も愉しげである。
「ここは、あったかいですね」
古賀さんは、首元を覆ったマフラーを解いた。四人で一緒に初詣に出掛けたときと、同じマフラーだった。
「さっき、リスさんがストーブに火を入れたんです」
古賀さんは、にっこりとして顔を上げ、工場の硝子戸を覗いた。
工場では、リスさんが明日の分のクリームを作っている。
古賀さんが、安堵した表情をするのが分かった。
それから、古賀さんはいつものように心の中をリスさんのパンでいっぱいにして、ショーケースを眺め始めた。
「来春さん、これ気になっているんですが……」
古賀さんは、冷たいデニッシュやサンドウィッチが置かれている方のショーケースを覗き込んだ。
「綺麗ですね」
それは、栗のペストリーが終わって、今年新しくリスさんが店頭に出したものだった。
「この赤い実、なんですか?」
私は、リスさんの代わりに答えた。
「レッドカラントです。リスさんが冷凍のものを仕入れて、ジャムにしたんですよ」
真っ赤なレッドカラントは、ショーケースの明かりにきらきらと輝いて見え、宝石のように透けて美しい。
リスさんは、デニッシュを丸抜き成形した窪みに、薄いアーモンドプードルのスポンジを入れて、上にはたっぷりと、ブランデーで香り付けしたカスタードクリームを絞った。そこに、零れるようにレッドカラントのジャムを飾ったのだった。
「レッドカラント……」
古賀さんは、思わず復唱して顔を上げた。
「じゃあ、こちらをお願いします!」
古賀さんは、すっかりなれたように、短い丈のコートを脱ぐと、入り口の外套掛けに掛けた。
それからカウンター席へ行く途中、ストーブの前で歩みを止めた。
「なんだか、懐かしいです」
私は、コーヒーを淹れる手を止めて古賀さんを見た。
「もう、ここへ来て二度目の冬なんだな、と思うと」
私は、古賀さんにつられて微笑んだ。
「そうですね。……二度目ですね」
しばし手のひらを温めた古賀さんは、カウンターの右端に座ると、いつもの紙袋の中から楽譜を手探りで掴み出した。いつも紙袋なのではあるが、微妙にリニューアルしているところが古賀さんらしくもあるようで、私はくすりと笑ってしまった。
私がコーヒーを淹れ終わる頃、クリームを作り終えたリスさんが、ちょうどお店に顔を出した。
「リスさん、お願いしてもいいですか?」
私は、工場へ行くそぶりを見せて、リスさんに古賀さんの注文の品を載せた木のトレイを任せた。その実、そっと二人を見守るのが何より嬉しいのは秘密である。
リスさんは、トレイを受け取ると、さっとレジ横のカウンターを跳ね上げ古賀さんへ届けに行く。
「いらっしゃいませ」
リスさんの声に、古賀さんは驚いて楽譜から顔を上げた。
「リスさん、こんにちは」
それから、リスさんがカウンターに置いたレッドカラントのペストリーに目を落とす。
「レッドカラントのペストリーです。今年、初めて作ってみたんですよ」
「すごく綺麗ですね」
「ふふふ。レッドカラントは、ものすごく酸っぱいんです」
「えっ」
「大丈夫です。砂糖煮にしたので、美味しいです」
まるで大きな梅干しを見てしまったかのような古賀さんの表情に、リスさんは笑った。
「それにしても、ものすごく綺麗ですね」
半透明につやつやと輝く赤い実に、古賀さんは見蕩れながら、口へ運んだ。
「ん。美味しいです。こういう味なんですね……あと……カスタードクリームが、なんか違う」
「そうなんです。いつもはバニラビーンズなんですけれど、これはブランデーにしました」
「そうか、ブランデーだ。いいなぁ」
古賀さんは、美味しそうにまたひと口頬張り、リスさんは微笑みを浮かべながらそれを見ていた。
午後三時には、もう日が傾き始め、ベッカライウグイスには早い夕べが訪れた。
リスさんは、古賀さんの手元が暗くないようにと、カウンター上の明かりを灯した。
太陽の気配が薄くなっていく大きな窓に、三つの明かりが映ると、私はお店が海へ出た舟のような幻想にしばし囚われる。
木の床板は、まるで船底のようで、その下には静かな海がたゆたっている。外が暗くなると、まるで夜の船窓に、明かりが灯っているように見える。
とはいっても、私はそんな舟に乗ったことなどないのだが。
カランコロン カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
「あったか~い」
「すっごい寒かったです」
元気なたいちゃんたちである。
沈んでいくような私の幻想が、急に賑やかな現実に変わった。
たいちゃんと、わかさん、マリーナさんは、剥きたてのゆで卵のようにつるりとした鼻の頭を赤くして、揃いの紺色のコートには思い思いの色のマフラーを巻いていた。
お店に入ると、外の冷たい匂いを払うように、たいちゃんは頭を振った。
三人は、高校三年生である。年が明ければ入試があるだろうし、あっという間に卒業を迎える。制服姿の彼女たちがベッカライウグイスへ揃ってやって来るのも、あと何度かなのだろうと、私は少し寂しく思った。
しかし彼女たちは、まるでそんな人生の通過点を知らないように無邪気だった。
「来春さん、今朝、霜柱が立ってた!」
「ぶるぶるだねー」
「雪降るかなぁ……」
女の子たちが、色とりどりのマフラーの中で首を縮こませる姿が可愛らしい。
「本当ね。温かいカフェオレはいかがですか?」
「お願いします!」
「ミルクって、あったまるよね~」
リスさんと相談して、この秋から、高校生までのお飲み物は無料にした。表向き、ジュースは置いていないので、それはたいちゃんたちのカフェオレのためだった。
三人にはそれぞれお気に入りのパンがあって、それを注文すると、寒さで縮んだ床板をぎしぎしさせながらカウンターへ向かったが、途中で脚を止めた。
「あ、ストーブ点いてる!」
「うわぁ、ガスストーブ。子どもの頃行った旅館にあったよ」
「なんか、音が違うね」
「あったかいー」
三人は仲良く、ストーブの前で悴んだ指を温めた。
大きな嵌め殺しの窓の外は、駆け足で暗くなろうとしている。
カウンター席では、女の子たちのさざめきに、ぽつんと置き去りにされたかに古賀さんが一人、コーヒーを飲んでいる。たいちゃんは、そんな古賀さんの姿を気に留めたようだった。
リスさんは、明日の仕込みを一段落させて、工場からお店へと出てきた。
私は、たいちゃんたちのカフェオレを準備すると、リスさんにもコーヒーを淹れ、手渡した。
「ありがとう」
リスさんは、それを受け取ると、ショーケース奥のスツールに腰掛けた。
この時間帯から、やって来るお客さんは少なくなる。
「お待たせしました」
私は、女子高生たちが暗がりの大きな窓に向かって並ぶカウンターへ、パンとカフェオレを運んだ。
その横にカップを置くと、まるでそれが契機だったかのように、突然、たいちゃんが呟いた。
「私、予備校辞めたんだ」
たいちゃんは、顔を傾けて二人の友人を見ていた。
わかさんとマリーナさんは、思わず顔を見合わせると溜息交じりに言った。
「……やっぱり」
「うん。だと思ってたよ」
「志望校、どうするの?もう推薦、終わってるよ……」
「私……たえちゃんは、ずっと留学するかもって思ってたんだけど、そうなの?」
「ううん。私、語学関係の道は、やめたの」
わかさんとマリーナさんは驚いたのだろう、やや身構えた。
「やめたって……」
三人は、他愛のない時間を終えたかのような、どこか大人びた眼差しに陰影を浮かべた。少女たちは、それぞれの小舟の梶を切り、流れに乗り出そうとしていたのだ。




