園長先生と伝説のお弁当 ①
秋も盛りを過ぎ、落ち葉に真っ赤な紅葉が混じった。
リスさんと私は、11月にお店に出すシュトーレンの、仕込を終わらせた。美味しく配合された洋酒の海に、ひたひたと浸かったドライフルーツやナッツは、大きな容器の中で眠っている。昏い冷蔵庫の中で、時々、小さな気泡を吐きながら、洋酒の匂いとアルコールに、その中心まで酔う。
「あの……リスさん」
「ん?」
ベッカライウグイスのカウンターで、私たちは、リスさんの作ったスープと今朝の焼きたてパンで朝食を摂っていた。
一日のうちで、私が最も好きな時間である。
栗かぼちゃのポタージュスープは、ほんのりコンソメの味がして甘く、喉まで幸せにして落ちていく。
「あの、ツルウメモドキなんですけど……」
リスさんは、カウンターに面した大きな嵌め殺しの窓から、庭の右隅へ置かれているベンチへ目をやった。ベンチの上のパーゴラには、ツルウメモドキが匍匐して、蔓垂れていた。ツルウメモドキは、今が秋の盛りである。黄色い殻を割って、中から小さな赤い実がのぞく。リスさんは、蔓に任せその視線を流動させ、そして私を見る。
「少し、いただくことはできないでしょうか?」
リスさんは、驚くことなく笑った。
「もちろんいいに決まってます。たっくさん持って行ってください!」
去年の秋、弘子さんと樹森さんのお見合いをここで行ったときには、ベッカライウグイスの庭には、まだツルウメモドキは植えられていなかった。
それでも、どうしてもキャンドルの飾りに使いたくて、リスさんと私は、近所の茂みに入り、野生のツルウメモドキを刈り取ってきたものだ。
リスさんは、私が何に使いたいのかお見通しなのかも知れない……。
「ありがとうございます」
私は、ほかほかのハードロールを二つに割り、鱗立つ皮と、糸を引くように柔らかい中身を、別々に味わった。
すべての配合が溶けている、と私は思った。
開店間もなく、ベッカライウグイスの重たい扉が押された。
カランコロン
「こんにちは」
みっちゃんである。みっちゃんは、ベッカライウグイスの工場のすぐ裏手に住んでいるので、カレーパンがお店に出る日には、匂いに誘われるようにしてやって来る。けれど、みっちゃんが一番好きなパンは、クリームパンである。
「みっちゃん、いらっしゃいませ」
みっちゃんは、リスさんと私に軽く微笑んだあと、すぐに焼きたてが置かれているパン置き場へ目を移した。
「カレーパンの匂いがしたから、あと、クリームパンもね」
「はい」
リスさんは木のトレーにお皿を準備し、注文のパンをのせていった。私は、みっちゃんのコーヒーの準備を始めた。
みっちゃんは、カウンターの一番右端に陣取って、のんびりと午前の庭を眺め始める。
みっちゃんが、何を考えているのか私たちに分りはしない。けれど、みずほさんのことを、時々思い出したり考えたりしているのだろうと思う。
私は、みずほさんから届いた、着物の帯締めを思い出した。
美しい絹糸のぼかされた色合いは、みずほさんが選んで織ってくれたものだった。
みっちゃんは、少しずつ、一人暮らしに慣れていく。みずほさんの知らない、自分の居場所を見つけ、みずほさんなしに生きていくことが当たり前になる。
みずほさんが出て行ってからもう半年以上が過ぎた。さくらさんも弘子さんも、そして私たちも、誰もみずほさんの居場所を、みっちゃんに知らせてはいない。みずほさんのSNSには、みずほさんが織り上げる美しい組紐が、一つ、また一つと増えている。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
リスさんがスツールから立ち上がり、明るい声でお客さんを迎えた。
私は、みっちゃんのコーヒーカップが空きそうになるのが目に留まったので、サーバーを持ってカウンターを出た。
「こんにちは。えーっと……」
私とみっちゃんは、思わずそのお客さんを振り返った。
とても深みのある声のお客さんだったからだ。
アナウンサーをされていた方かしら、と私は思った。リスさんも私もあまりテレビを見ないので、その辺りには疎く、全く分からないのだが。
けれど、不思議とまろやかで、包まれるような発声は、誰もが振り返るほどだろう。それだけでなく、その声は、辺りにくっきりととてもよく通った。
お客さんは、心ならずも声を響かせて、境遇を語った。
「いつもは妻が来てるんですけど、仕事をとうとう引退してから、買い物当番を任されましてね……えーっと」
お客さんは、灰色のスラックスのポケットから小さく折りたたんだメモ用紙を出すと、指で広げ、ショーケースの中のパンと見比べだした。
「イギリス食パンはありますかね?」
「はい」
リスさんは、パン置き場に置かれている、まだカットされていない長いイギリスパンのところへ行った。
「こちらに」
「よかった!よかった!」
みっちゃんが、じっとそのお客さんを見ているのに、私は気がついた。
普段、お客さんのことを気にすることなどないので、珍しいな、と私は思った。
「あとですね、コーンパンは……」
「はい、こちらに」
リスさんは、木のトレイにトングを置くと、ショーケースの奥からコーンパンの位置を手のひらで差した。
「あぁ、よかった!二つ、お願いしますね」
「あと……」
お客さんは、ショーケースから顔を上げて言った。
「栗のペストリーっていうのは……」
リスさんは、申し訳なさそうに告げた。
「すみません。今年はもう、終わってしまって」
「あぁ、いや、そうじゃないかって妻が言ってたんだけど、一応、聞いてみるよって言ってきたものだから、聞いてみたんです。また来年、なんですよね?」
「はい。栗が入荷しましたら、作ります」
「よかった!よかった!それから……ええと、どうもないみたいで……」
「それは、すみません……」
「いや、サンドイッチなんですけど」
「でしたら、左側の、冷やしてあるショーーケースの方にあります」
「あ、それは!よかった!」
お客さんは、左側のショーケースへ歩んだ。
「私たちの昼食なんですよ。これは大事でした。よかったよかった」
冷たいショーケースは、カウンター席に近い場所にある。
それまで、お客さんのことを見ていたみっちゃんが、突然背を向けると、ばっと窓へ向き直った。
「卵サンドと、紫キャベツとチキンのを、お願いします」
「はい」
それから、お客さんは、カウンターへ目をやった。
みっちゃんの背中が固い。
「ここで、コーヒーもいただけるのかな?」
「はい。パンも召し上がれますので、奥様とぜひ」
「うん、いいですね!今までずっと仕事だったから……ゆっくりしに来ますよ」
「お待ちしています」
お客さんは、大きな嵌め殺しの窓から見える庭を、見ながら言った。
リスさんが、イギリス食パンのカットをするので、私はお客さんの会計をするために、レジへ入った。
レジを打ちながら、みっちゃんの様子がおかしいな、と思った。
おかしいというのか、入ってきたお客さんに気をとられすぎているというのか、いつもならば、私がコーヒーを注ぎに行くと必ずお礼を言うのに、黙っていた。まるで自分の気配を消そうとしているかのように黙りこくり、不自然に首をゆっくり動かして、お客さんを見ていた視線をそっと窓辺に戻すと、私へ黙礼したのだった。
何かあったのだろうか。
カランコロン
「こんにちはー!」
私が疑問に思っていると、快活に呼び鈴を鳴らし、さくらさんがやってきた。
「いらっしゃいませ」
リスさんが、カットを終えたイギリスパンを袋に詰め、レジへ持ってきてくれた。
「あと、イギリスパンだけ?」
「はい」
リスさんは、私から作業を引き継ぎ、私は、さくらさんの注文を受けるべく、素早くカウンターの中へ戻った。
「いらっしゃいませ、さくらさん」
そして、あれ?と思ったのだ。
さくらさんまでもが、明らかに先ほどのお客さんの横顔を伺っていたのだ。リスさんも、それに気づいているものの、何も知らないふりをして、いつも通りに接客を続けている。
ベッカライウグイスの全員が、本人には気づかれないように、そのお客さんを窺っていた。
お客さんは、七十代、いや、若々しい、生き生きとした表情だが、さらに年齢を重ねて見えたので、八十代だろうか。紺色のニットベストに、ごく薄いラベンダー色のシャツのボタンを襟元まできちんと留めているという出で立ちで、丸い目に皺を寄せながら、とてもにこやかな表情をしていた。背はそれほど高くなく中肉中背。だが立ち姿が少しつま先を外に広げお腹をそり出しているので、なんとなく愛らしい雰囲気を醸している。
お客さんは、申し訳なさそうに言った。
「すみません。追加の注文をお願いできますか」
リスさんが笑顔で応じる。
「はい。何にいたしますか?」
「いや……頼まれたお使い通りに、って思っていたんだけど、来るときに外から見えて美味しそうでね……あのお客さんが食べているクリームパンも、二つもらえるかな?」
その注文に、ぎくりとしたみっちゃんが、残っていた一かけのクリームパンを喉の真ん中に詰まらせたのを私は見た。と、同時に、さくらさんが叫んだ。
「あっっっ!」
私とリスさんはびっくりしてさくらさんを見た。
「園長先生?!」
そう呼ばれたお客さんは、おや、という風な優しい表情で、横に立つさくらさんを返り見た。
「あら、卒園生かな?」
「やっぱり~。みっちゃん、みっちゃん!園長先生よ!懐かしい~」
さくらさんとみっちゃんは、幼稚園の時からの幼なじみである。この人が、二人が幼稚園児の時の園長先生か……。私が、お客さんに対してこれほど深い感慨を覚えたのは後にも先にもこのときが一番であった。
リスさんも、目を見開いて三人を順番に見つめていた。
園長先生は、こういうシチュエーションにとても慣れているようだった。それはそうだろう。育ててきた園児は数知れず、いったいどのくらいの人口になるのだろうかと私は考えた。
さくらさんはすっかり感動していた。
「園長せんせぃー……」
ところが、次の瞬間
「え?そんなわけないですよね?」
急に現実に引き戻された人のように、早口で言ったのだ。
瞬時に覚醒したさくらさんの言葉に、私たちは、二度驚いた。
園長先生と呼ばれたお客さんは、そんなさくらさんの言葉がまったく気にならない様子で、にこにこしたまま、さくらさんの変貌を見つめている。
さくらさんは、横目で虚空を仰いだり、首を傾げたり、腕を組んだり、はてはぶつぶつと呟いたり、忙しく百面相を繰り広げていた。見るからに混乱している様子である。懐かしい邂逅から一転、疑念の渦に突き落とされた勢いだった。
「え、私……すみません、そんなはずないのに、懐かしくて勘違いしてしまいました……」
さくらさんは、お客さんに頭を下げた。
さくらさんの勘違いにしては、お客さんは園長先生然とされていたような……。リスさんと私は、お客さんをじっと見た。
するとお客さんは、かえってさくらさんを気遣うように言った。
「そんなことないですよ、よく言われるんです。つばめ幼稚園の園長先生に似ているって」
さくらさんは、目を丸くして、しばらくの間、穴が開くほどお客さんを見つめた。それから、何度も首を横に振った。
「ええ、ほんとによく似ていらして……他人のそら似ってすごいですね」
「いえいえ」
お客さんは、首を振った。
「他人じゃないもので、ね」
さくらさんは、口を四角く開けたが、出てきた声はこれだけだった。
「え」
「私は、あなたのおっしゃるとおり、つばめ幼稚園の園長をしておったんですが、ただ、あなたが園長だと思っているのは、私の父親のことだと思いますよ。あなたは、何期生なのかな?」
何秒か待って、我々はやっと腑に落ちた。
その場の全員が、「あぁあ」と心の中で納得の声を上げた。
「……そうなんですか……そうなんですね……あまりにも園長先生によく似ていて……でも、私たちが幼稚園児だったのって、もうかれこれ六十年以上前で……」
さくらさんは、お客さんをまじまじと見つめていった。
「……それにしても、そっくりですね!」
ははは、と園長先生は小さくせり出したお腹を揺すって笑った。
「私たち、花の四十七期生なんです!ね、みっちゃん!」
園長先生は、おや、という顔をしてみっちゃんを見た。園長先生とみっちゃんは目が合ったようだが、みっちゃんはすぐに、そーっと視線を外した。常に落ち着いていて、誰にでも穏やかで友好的なみっちゃんにしては、極めて珍しいことである。
そんなみっちゃんを、園長先生は、見逃さなかった。
「みっちゃん……はてね、みっちゃん……男の子のみっちゃんね……」
園長先生の視線が、空中を斜めに彷徨った。
「あっ!」
声を上げると、園長先生はみっちゃんに歩み寄った。
「君だ!みっちゃん!」
みっちゃんは、なぜか嫌そうな表情を浮かべ、かろうじて眉間に皺を寄せてはいなかったものの、怪訝そうな目蓋は半分閉じられていた。
園長先生は、空いていたみっちゃんの横に腰掛けた。
そして、その身を、みっちゃんの方へ傾けて言った。
「みっちゃん、好き嫌いはもうなくなったかな?」




