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水霜 ①

 麗らかな秋晴れである。

 雲は白く、青い空は霧を溶かして、深く遥かだった。

 糊付けされた新しいシャツを開いた時のような、ぱりっとした空気が爽やかである。


 カランコロン

 「こんにちは」

 「いらっしゃいませ」


 だが、ここに、そんな新鮮な空に、快活さを吸い取られてしまったかの人がいた。

 餡子を届けに来た、水琴庵の智翠(ともあき)さんである。

 いつも屈託のない笑顔でやってくるのに、淀んだ、とまではいかないが、どこか湿気を含んだ雰囲気なので、一体どうしたのだろうか、と私は(いぶか)しんだ。

 リスさんは、カウンターのみっちゃんに、コーヒーのお代わりを注ぎに行き、一緒に庭を眺めている。

 そんな智翠さんの応対をするのは、私しかいない。

 

 「工場へ持って行きますね」

 と、その様子とは裏腹に、いつもと変わらない言葉で、智翠さんはすぐに外へ出てしまった。


 私は、一歩後じさり、工場への硝子戸を開いた。 

 

 工場へ入るなり、智翠さんは、どんな言葉もしっくりこない表情で、躊躇する様子ながらも言ったのだ。

 「来春さん、ずっと待ってたんですよ」


 智翠さんが手を洗うであろうと、餡子の番重を受け取ろうとした私は、手を止めた。

 「……何か、……」

 私が、何かしたのだろうか。

 

 私は、めまぐるしく記憶の底を(さら)った。

 「忘れられてたんだ……」

 「えっ…………あっ!」


 智翠さんが、目の中に諦念を隠すのを見て、私は思い出した。


 いつのことだったか、智翠さんが作った夏の上生をお店に出しているので、リスさんと一緒にぜひ水琴庵へ来て欲しいと言っていたことを……。


 「すみません、智翠さん。忙しくて、すっかり……」

 忘れていたとは言えなかった。そのことは、もうすでに知られていた。

 

 リスさんがやってきた。

 微妙な空気を感じたのだろう、私たちに尋ねた。

 「どうしたの、二人とも?」


 「リスさん、すみません。実は、前に、智翠さんが作った夏の上生をぜひって言われていて、リスさんに伝えるのをすっかり忘れてたんです。智翠さん、本当に申し訳ありません」


 智翠さんは、

 「もう、いいですよ」

 と言いながらも、やや異存ありげに首を傾けた。

 「それは、致し方ないわね。うちも夏中忙しかったのよ。パン屋さん体験に、パン教室とか、定休日も出掛けたりしてたから……ごめんなさいね、智翠」


 リスさんは、私の落ち度を詫びると、明るく話題を変えた。

 「あ、出掛けてたっていえば、智翠、梶くんのお店へ行ってきたのよ!」

 調理台へ番重を置き、まさに手を洗おうとしていた智翠さんは、声を裏返らせた。

 「梶?え、梶?この辺にいるの?」

 「そうなの!びっくりでしょ?どこで会ったと思う?」

 「さぁ……」

 「小学校のパン教室よ!」

 「えっ」

 智翠さんが言葉に詰まった。


 リスさんは、両腕を前で組み、深く頷いてみせた。

 「お父さんになってたわ~」

 「信じられない。一番危うい奴だったのに……。大丈夫か?」

 「ふふふ。大丈夫だったわよ!」

 それから、まるで当然のことのように、智翠さんは尋ねた。

 「お笑いステージ、あった?」

 そして、当然のことのように、リスさんは答える。

 「なかった」


 二人の、軽い溜息。


 「奥さんがね、イタリアンのお店をされていて、梶くん、そこでパンとドルチェを作ってたわ。ドルチェもね、梶くんらしいっていうか、けっしてイタリアンじゃないところが、奥さんよく許してるな、っていうか……」

 

 「はははっ!どんなドルチェだ?!よし、俺も行ってみる!驚くだろうな…………それより!」

 ようやくいつもの智翠さんに戻ったかと思ったが、それとこれは別だった。智翠さんは、すぐに話を元に戻して、こちらを見た。

 「うちの店に来てくれるっていう話!」

 私は、再び申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 「……すみません」

 智翠さんは、心底がっかりした声で呟いた。

 「夏の上生……持ってくればよかった……来てくれるものだとばっかり思ってたから……」

 「……すみません」

 「智翠、拗ねてるの?」

 リスさんが悪気なく言うのに、智翠さんは断固として抵抗した。

 「違うよ!!」

 リスさんは、笑った。

 「今、秋の上生、作ってるでしょ?」

 智翠さんは、尻つぼみになりながら答えた。

 「もちろん……俺は一種類だけど……」

 リスさんは、私を見て微笑みながら、智翠さんに告げた。

 「じゃ、次の定休日にお邪魔するわ。来春さんは、大丈夫?」

 智翠さんが上げた目元は、涼しげに輝いた。


 


 そうして、水曜日はすぐにやってきた。ベッカライウグイスの定休日である。

 私たちは、みっちゃんも誘ったが、ボランティアで忙しいとのことで、二人だけで地下鉄に乗った。

 水琴庵へ赴くのは、あの二月の神事以来である。

 あの時以来、私は、水琴庵の敷居が益々高く感じられるようになった。もともと、水琴庵は紹介がなければ入れないような老舗である。

 智翠さんにしても、リスさんの幼なじみで、たまたまベッカライウグイスへ餡子を卸に来る関係で気安くさせてもらっているが、そのことがなければ、全く私とは接点のない人物である。

 水琴庵へ向かう時は、いつもどこか気が引けた。

 


 湿気のある地下鉄の駅から地上へ出ると、乾いた風の通る路地は、もう秋に彩られ始めていた。

 同じ街でも、季節の進みは微妙に違うものだ。

 水琴庵の建つ辺りは、ベッカライウグイスのある地域よりも、時間の進みが少し速いようだ。

 

 空気の明度に含まれた、銀のような陽光は、街路樹の潤いを失った木の葉の間から、地上に降り注いでいた。

 そよいだ木の葉は、軽い音をたてた。そんな明らかな変化の数を数えるようにしていると、水琴庵の、高い屋根の上がった外門が見えてくる。

 リスさんが、その木戸を引き、私たちは褪色した小さな暖簾をくぐって、敷地へ入った。



 夏、早春、秋の初め。

 水琴庵を訪れるのは、これで三度目だった。


 低い塀に囲まれたこの別世界の中にも、ザッと風が押し寄せ、いとまない秋の侵蝕に肌が冷えるのを覚えた。

 

 リスさんの後を付いて、飛び石を渡っていく。

 したたるほどに見事だった夏紅葉や躑躅(つつじ)が、葉の色を変え始め、土地の端に植えられた唐松は、茶色い松葉を落としていた。

 ほどなくして、水琴庵の店構えが現われ、歪んだ硝子の木戸を開け、リスさんが中へ声を掛けた。

 

 「ごめんください」

 乾いた空気が、一瞬にして雨に降り籠められた湿気によって沈んだ。

 陰に支配された足下の石は、濡れている。

 


 「いらっしゃいませ」

 見覚えのある、絣姿の従業員の方に迎え入れられ、彼女は、奥の戸口いっぱいを覆っている大きな暖簾の向こうへ、女将さんを呼んだ。



 「リスちゃん、来春さん、いらっしゃい」

 千春さんが、その暖簾をくぐり、懐かしい顔を見たかに私たちを迎えてくれた。

 「千春さん、ご無沙汰しております。三月には、開店記念のお祝いをありがとうございました」

 リスさんが、深々と頭を下げ、私もそれに倣う。

 千春さんは、ショーケースをすり抜け、駆け寄ってくると朗らかに笑った。

 「いいのよ、そんな。それより、待ってたのよ!ふふふ。そろそろ来てくれるかな、とは思っていたんだけど、気が気でないのが一人いてね。智翠ー。リスちゃんと来春さんが来てくれたわよー。お待ちかねのー」


 廊下を渡ってくる足音が聞こえたかと思うと、智翠さんが暖簾から顔を出した。

 「いらっしゃい」

 いつもベッカライウグイスに来るときには身につけていない、小判帽を頭に、前髪をきっちりと入れ込んでいる。それが、凜々しく見えた。


 来春さんが、待っていましたとばかり、用意していたカメラを手に交通整理を始めた。

 「さ、並んで、並んで」

 実に楽しそうで、その様子を見ていると来た甲斐があると私も嬉しくなってくる。


 〈水琴庵〉

 と揮毫された大きな看板の下に、リスさんと智翠さんが並んで立つ。

 リスさんがなんとも言えない表情を隠すのが分かる。

 

 と、千春さんがカメラを構えようとした姿勢で、こちらを振り返った。

 「あら?来春さんもよ」


 「えっ?」

 私は、千春さんの言うことがすぐに理解できなかった。

 なぜ、私を呼ぶのだろう。

 これは、リスさんと智翠さんの、幼少のみぎりからの成長を記録するための撮影である。

 

 「あの、私は関係ないと……」

 千春さんが、自信満々な様子で答えた。

 「何言ってるの?関係あるわよ!」

 千春さんは、片手にカメラ、もう片方の手で私の腕をゆるく掴むと、リスさんと智翠さんの横へ連れて行った。

 「ほら、早く!」

 どういうことなのか分からないが、仕方がない、一枚だけ、記念にご一緒させていただこうと、私は笑顔を作った。


 カメラのフラッシュが二度光り、そこで私が退こうとすると、

 「まだでーす」

 千春さんはそう言うだけでなく、三人もっと寄るように手のひらで合図をするので、結局、撮り終わるまで、その場に居残ってしまった。

 

 満足げな千春さんが、カメラを片付けようとしたのを、私は引き留めた。

 「リスさんと智翠さんの、二人の撮影は……」


 千春さんが、事もなげに言った。

 「大丈夫よ、ちゃんと撮れてるわ!今年から、三人になったの!」

 なぜ、そんな…………。


 私が、困った目をリスさんと智翠さんに向けると、二人は笑いだした。

 「ふふふ」

 「はははっ」

 笑えないのは、私一人である。

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