突然の贈り物
リスさんが、ペストリー生地の作業を終えたようで、ひょこりと工場から顔を出した。
少し開けられた硝子戸から、生地のミキシングされる音が低く響いている。
たいちゃんたちの帰った店内には、明日のために仕込みをされているその機械音の他に音はなかった。
「リスさん、コーヒー入りましたよ」
「はい」
リスさんは、こちらを見て、微笑んだ。
もう誰もお客さんのいない店内で、リスさんが調理帽をとると、一つに結ばれた大きな尻尾のような巻き毛がふわりと出てきた。
「ありがとう、来春さん」
「たいちゃん、カフェオレ、喜んでくれてました」
それを聞いてリスさんが、嬉しそうな顔をした。
「そう!」
「たいちゃん、カフェオレなら大丈夫だったみたいです」
「ならよかった」
リスさんは、両手で温かいコーヒーカップを受け取ると、ショーケース奥のスツールにちょこんと腰掛けた。
私も、自分のカップにコーヒーを注ぎ入れると、リスさんの隣に腰を掛けた。
ショーケースには、もう数えるほどしかパンは残されていなかった。
私たちは、火の消えたオーブンから、小麦粉とバターが焼けた消えない残り香が、うっすらと冷えていく空気に溶け込むのを感じながら、コーヒーを啜った。
ショーケースの奥から見上げる、小さな空は繋留させていた夏を手放そうとしている。輝いて、どんどん遠くへと離れていく。私は、手を伸ばしたい衝動に駆られ、小さな溜息をコーヒーのほとりに吹いた。
リスさんと二人きりの、静かなお店に、幾人かのお客さんが訪れると、もうショーケースは空っぽだった。
いつもより少し早いが、店じまいの時間である。
リスさんが、レジの下から踏み台を取り出すと、私たちは重たい木製の扉を引き、外へ出た。
いつの間にか秋を連れてきた一陣の風が、ベッカライウグイスの周りを吹き過ぎた。リスさんの結ばれた髪が、掠われそうに靡く。
夕暮れが、風に押されて早くなる気がして、私たちは、駐車場から、高い空を見上げた。
「ずいぶん、涼しくなりましたね」
「ほんとね」
リスさんが、首元を縮ませた。
吊り看板が、小さく風に揺れている。
飴色がかった小窓を、鍛鉄が囲う、まるで古城のような扉の上で、それはお店の開店を長い間告げてきた。
風雨を経た、板金された看板だが、「ベッカライウグイス」と濃い緑色で描かれた文字は、大きく褪色してはいない。
小柄なリスさんは、踏み台に乗ると、精一杯手を伸ばして看板を下ろした。
そんな姿を見ると、私は代わりに看板を下ろしてあげたくなるが、これは店主の大切な仕事なのだろう、とリスさんを見守る。
リスさんは、振り返って私を見下ろし、私は両手を上げてそれを受け取った。
風は、どこか烟るような匂いを孕んで、私は、古風な看板を手に、懐かしい気持ちがこみ上げる。もう戻れない、浅い郷愁は、寂寥へと変わっていき、風に連れ去られた。
それから私たちは、簡単に店内を清掃し、発酵機の具合を確かめると家路についた。家路といっても、ほんの数十メートルしかない距離である。
「もうすぐ、栗が届くわね」
やや覚悟を含んだ声でそう言うと、リスさんは、端から茜色を帯びだした雲を見上げた。
「栗……。頑張ります」
意気込む私の視界の中で、茜色の端は、スミレに染まる空に呑まれた。
夕食の話をしながら、決まり事のように、私は玄関の鍵を開け、リスさんはポーチに設置された宅配ボックスの中を覗いた。
「あら?来春さんかな?」
リスさんが、中から細長い荷物を見つけて取り出した。
私は、リスさんを振り返った。
「ん?いいえ、私は何も頼んでないと思いますけど……」
二人で、手元の送り状を見下ろした。
「みずほさん!!」
私たちは、驚いて顔を見合わせると、靴を脱ぐのももどかしくリビングへと駆け込んだ。
ソファに並んで座ると、その小さな荷物の送り主をもう一度確かめた。
確かに、三山みずほ、と書いてある。
住所は、……北陸の古都である。
「みずほさん……」
リスさんは、私の顔を一度見てから、丁寧に包まれている紙を剥がした。
さらにその下の袋の中からは、封筒と、ずいぶんと細長い桐の箱が二つ、現われた。
リスさんが封筒を開くと、二人で体を寄せて、小さな便せんの文字を貪るように読んだ。
「リスちゃん、来春さん、お変わりありませんか。
春には、すっかり二人を驚かせてしまい、ごめんなさいね。
二人が、私のSNSをいつも見てくれていることを知っていました。
二人の優しい言葉を、大切に、毎日頑張っています。
虎男さんのことも、さくらさんや弘子さんから聞いて知っていました。
リスちゃんと来春さんがいなければ、虎男さんはもっともっとたいへんな
思いをしていたと思います。虎男さんを助けてくれて、本当にありがとう。
季節がこんなに早く巡るとは、驚くほど毎日が飛ぶように過ぎていきま
す。朝が来たかと思ったら、もう夕方かと思うくらいです。
私は、染め物の仕事をしたくてこの街に来ましたが、今思うと、何を
甘いことを考えていたのかと恥ずかしいです。
親切な職人さんに雇ってはもらいましたが、毎日毎日、ひたすら水仕事ばかり。染めの刷毛に触らせてもらうことも、関わる仕事を積み重ねることも難しくて、それでもそんな日々にしがみついて暮らしてきました。
もっと若ければ、と悔やみました。
私は、染めの美しい色を、絹地に佩いてみたかった。一度でいいから。そんな見込みすら、なかったのに。
けれど、世の中、捨てる神あれば拾う神ありで、地染めの師匠の口利きで、組紐の先生をお手伝いすることになったのです。
それが、私にはとても向いていました。染め物の、刷毛をとることはできませんでしたが、組紐は、教えてくださる先生が、こんな年寄りのおばさんを相手に、まるで自分の子どものようにご自分の持っていらっしゃるすべてを伝授してくださいます。はじめから最後まで、その一本を、自分の作品として仕上げることができる、美しい色の組紐に、私は夢中になりました。
今は、先生の元へ移り、朝から晩まで組紐を織って生活しています。
りすちゃんと来春さんに、私が作った組紐を贈りたくて、とうとう連絡してしまいました。
二人が、いつか、着物を着るときに締めてもらえると、嬉しいです。
リスちゃん、来春さん、どうか元気でいてくださいね。
同じ空の下で、二人を思いながら、生きている時間を噛みしめています。
もう、そちらは秋を迎える頃でしょう。二人とも、風邪をひかないように、温かくしてお過ごしください 三山みずほ」
リスさんは、読み終わった手紙を、テーブルの上に置いた。
「みずほさん、元気みたいでよかった」
その膝には、まだ蓋を閉じられたままの桐箱が二つ、並んでいる。
手に取ってみると、それぞれ箱の横に、みずほさんの字で私たちの名前が書いてあった。
「開けてみましょう?」
私は、名前の書いてある方の箱を受け取った。
「わぁ……綺麗……」
美しいぼかしの帯締めである。
「……ほんとう……」
リスさんのは、薄紫から赤みがかった濃い葡萄色へ、そして白から深緑へのグラデーションが織り込まれ、私のは、薄いみかん色から濃い茜へ、そして白から紺碧へと連なっているものだった。
「これが、みずほさんの……」
私たちは、心を奪われ、息を飲むしかなかった。
みずほさんが飛び出した世界を、手のひらの上に、私は思う。
みずほさんの選んだ道が、のちに幸せだったと振り返ることができるますように。
これからやってくる季節の中で、みっちゃんが、いつかみずほさんと一緒に、もう一度笑い合う時が来ますようにと、願う。




