水霜 ②
「さ、リスちゃんも、来春さんも、今日はお茶室へどうぞ」
千春さんは、持っていたカメラをショーケースの奥へ仕舞うと、リスさんと私を、暖簾の向こうではなく、お店の外へと促した。
何気ない千春さんの言葉だったが、私の胸は震えた。
お店のパンフレットにもあるが、小さなモノクロの写真から、私はその存在をずっと前から知っていた。
初めて水琴庵を訪れたときから、リスさんに尋ねはしなかったが、私は、実物のお茶室を、探していた。
水琴庵は建築全体が有形文化財になっていたが、特にその謂れは千春さんが「お茶室」と呼ぶところの建物に起因する。
それはけして秘匿されているわけではない。事実、「お茶室」の小さな写真は、開拓史に必ずと言っていいほど記載される、有名なものである。しかも、当時のまま、修復を重ねて現存しているのだが、水琴庵としては、積極的にこの「お茶室」の存在を広報してはいない。
ただひっそりと、パンフレットの隅に佇んでいる存在だった。
二月にお見かけした千春さんの茶の湯のお弟子さんたちや、千春さんのお師匠にあたる先生はもちろんご存じであろうが、私のような何の由縁もない人間がおいそれと招かれる場所ではないだろう。
そこへの、誘いである。
鼓膜に響く動悸を感じずには、いられなかった。
水琴庵の「お茶室」は、この地に入植した人々が、茶の湯を開闢する場として建築されたのが始まりであった。
当時は移築も難しかったため、江戸時代に作られた図面を借りての建築だったとパンフレットに細かな字で書かれていたことを私は覚えている。
厳しい自然の中で、建物は傷み、何度も修繕されてきたが、水琴庵はお茶室ともに、入植した人々の、お茶を尊び享受する精神を守ってきた。その象徴ともいえる建築物なのだった。そこに、開闢という言葉は相応しくなかったかもしれない。私は、悔いた。
私は、千春さんとリスさんの後を追って、水琴庵の右手にある、小さな雑木林のような見通しの悪い場所へと、飛び石を渡っていった。
さらに右手に分かれる飛び石の上に、古い黒縄が十字に巻かれた石が置かれている。
千春さんとリスさんは、それを意に介さず、ひょいと避けただけで奥へ進んだので、私もそれに倣った。石は、ひと礫、置き去りにされた。
雑木林は、間口こそ広く見えたが、まるで見せかけだけのようですぐに広く植栽の整えられた場所へ出た。
奥行きのない雑木は、「お茶室」を耳目から守っているのかもしれなかった。
静寂の中に、細い枝がはぜる音が響き、辺りは清らかだった。
飛び石はまた二手に分かれ、十字に黒縄が掛けられた石の方へ、千春さんたちは向かう。
「ふぅ」
私の小さな溜息に、二人は足を止めて振り返った。
「大丈夫?」
「いえ、すみません。紅葉が……初めて見ました……こんな風に、赤くなっていくんですね」
千春さんは、私の隣に立つと、左手を袂に添えて、右の手を頭上へ伸ばした。
「そうねぇ。あんなに瑞々しかった緑が、だんだんと抜けていった先から、黄色く炙り出されて、すぐに真っ赤に染まってしまうわね……」
葉は、斑に焚きつけられたように、色を染め、炎となって広がった端から赤く燃え始めていた。
淡い日差しの粒子に透けて、緑と黄赤の濃淡は、見飽きないほど美しく思える。葉擦れの音が、耳を撫でた。
「広いですね」
思ったことが口を突いた。
「そうね。維持していくのは、とってもたいへんなの。私も朝から掃除ばっかりよ」
千春さんが、眉を寄せて笑った。
「でも、それが大事なことだと思うし、私はしたくてやってるの。水琴庵を守っていくのが生きがい」
千春さんは、ふいっと紅葉の葉を一枚取ると、私に手渡した。
「綺麗でしょ?」
私は、頷いて受け取った。
「もうすぐよ。ああ、向こうにもどっかり関守さんがあるけど、気にしないでいいわよ」
行く手を塞ぐように、飛び石の真ん中に例の石が鎮座していた。
「関守さん、ですか?」
千春さんは、私を振り返ると、手のひらで差して見せた。
ああ。
あの石は、そういう名前だった。
私は、昔教わったことを思い出した。
そうだ。私は、置かれた石も含めて、建築が好きだったのだ。
果たして、私の目の前に現われたのは、小さな庵だった。
人が居住するのもままならないほど、古ぼけて、朽ちかけたお茶室だった。
「水琴庵はね、座敷の設えや水琴窟もだけれど、大元はここから来てるの。このお茶室が、私たちが守っている時代っていうか、時間なのよ」
四方は、何歩で巡れるだろう。
その歩数を想像するほど、すべてが小さい。
お茶室は、朽ち果てる時間と同じ色をした土壁で造られていた。
土は、翳も陽も時間も、すべて吸い込んで、不可思議な佇まいにしか見えない。ところどころ、それほど新しいとはいえない白い漆喰で穴が塞がれている。
連子窓と、竹の雨樋。
見上げると、風雨に摩耗し黒く変色した看板が、この茶室の名前を、人の目から隠している。
屋根はもう、色の剥げたトタンにすげ替えられていた。
風のいたずらで落ちた木漏れ日に、蜘蛛の巣が揺れて光る。
「ここが、水琴庵なんですね」
「そう。お店は、たまたまここから名前を借りてるだけ」
私は、古い土壁に手を伸ばそうとして踏みとどまった。
それは、触れてはいけないものだった。
千春さんは、リスさんと私の間で語った。
「私がここへ嫁ぐ前に、雪害でたいへんなことになりそうだったのを、なんとか食い止めてこの姿があるの。敷地に支柱が何本もあるでしょう?それが倒れたら元も子もないから、ずいぶん深く埋めてるらしいんだけど、その支柱を柱にして、毎年屋根を作って雪囲いをするのよ」
「毎年ですか……」
「ええ。冬は、屋根付きの簡易的な家の中に入れて、守ってるの。
ここは夏も涼しいし風通しもいいから、黴とかはほとんどないんだけど、でも一年中屋根の下にもう一つ屋根があるっていうのもね。だから、雪が溶けると、支柱だけ残して覆いは取ってしまうのよ。海外から見にくる人も多いし、たまに、お茶室として使うの。今日みたいにね。その方が、いいのよ」
「見学は、お断りされてるのかと思いました」
千春さんは、諦めたような表情を浮かべていた。
「そうねぇ。見学ツアーに割く人手もないから、かといってご自由にともいかないし。ごくごく紹介の申し込みがあったときだけ、付き添って、っていうことはあるの。外観だけ、ね」
そうして、息を継いできた建築物なのだ、と私は思った。
千春さんは、右手に回り、連子窓の下にある、躙口に向かって屈むと手を掛けた。
躙口の戸は、がたがたと逆らうように開かれた。
「リスちゃんから、どうぞ」
「はい」
リスさんは、慣れたように小柄な体をさらに屈め、するりと中へ入ってしまった。そこから向き直ると、手を伸ばし、脱いだ靴を脇へ揃えた。
一礼した中では、拳を畳に付きながら、体の向きを変えていく様子が窺えた。
リスさんが奥に見えなくなると、千春さんは私を呼んだ。
「来春さん、見よう見まねで構わないから、屈んで入ってごらんなさい」
「はい……」
リスさんのように上手くはいくはずもなく、あれこれ考えながら何とか中へ入った。
まるで、雨の夕刻のように薄暗い。
拭いきれない、不確かなものが塵積もった匂いがする。
向こうには、掛け軸の前に正座したリスさんが待っていた。
「来春さん」
「はい」
小さな掛け軸には、お茶を飲んで去れ、という意味の文字が物怖じのない筆で流れ、私はリスさんに倣って深く礼をした。
振り返ると、炉の上の釜からは湯気が上がっている。
すべて準備が整っている様子だった。
襖が開いて、正座をした千春さんが現われた。
「炉はね、もう今朝から張り切って、智翠が準備してくれてたのよ。お水屋にも入ってると思うけど」
「ぐっしゅん!!」
薄い壁の向こうから聞こえた音に、思わず、リスさんと私はそちらを見た。
「あら、埃っぽかったのね~」
千春さんが笑うので、私たちもつられて笑った。
すぐに襖を引いて、膝を付いた智翠さんが現われた。
両手に小さな箱を持っている。
ああ、あれはリスさんセットだ。
私は去年初めて水琴庵を訪れた日を思い出した。千春さんが従業員の人に、そう言って持ってきてもらった箱である。
智翠さんは、どこか恭しくそれをリスさんの前に据え、蓋を開けた。
「ありがとうございます」
いつもとは違う様子で、リスさんは真面目に頭を下げた。
そして智翠さんから、幼稚園の時から使っているという赤い緞子の帛紗入れを受け取った。
と、次に智翠さんは膝をずらし、私の方へ向き直った。上手に畳の上をずれながらやってくると、私の目の前に正座して、箱の中からもう一つ、帛紗入れを取り出したのだ。
「これは、来春さんに」
そう言って、私の膝の上へ差し出したので、慌てて両手で受け取った。
落ち着いた、象牙色の緞子には、いっぱいの色で咲く桜の枝が描かれていた。小さな花びらが、糸の艶を閉じ込めて舞っている。
「これは……?」
私は、智翠さんと千春さんを交互に見た。千春さんは、優しげに笑っている。智翠さんも涼やかに笑む。
「それは、来春さんセットよ」
私は、どきりとして言葉を失った。
「ここに来てくれるのに来春さんセットは必要だもの。ね、リスちゃん」
リスさんは、頬を微笑みで緩く膨らませながら頷いた。
「えらん」
リスさんが何か言おうとしたのを遮って、智翠さんが声を上げた。
「母さん!釜、音してるよ」
千春さんは、すぐに炉へ目を向けた。
「あら、たいへん。熱すぎるとね、さ、じゃあ、ゆっくりお茶を点てましょうか」
千春さんが、炉へ向かい、柄杓を構えた。
その流れは、千春さんの人柄そのものに見え、私はすべての動きに見飽きることがなかった。
千春さんの柔らかな指先までを、長く、目で追った。
いつの間にかお茶室の外へ出ていた智翠さんが、再び襖を開けて入ってきた。
両手に小さなお菓子器を戴いている。
まず、リスさんの前に置く。
私も横から、その器の中を静かに覗いた。
綺麗なお菓子が行儀よく三つ、置かれていた。
「水霜です。晩秋の紅葉に、まだ霜になる前の冷たい水がかかる、秋と冬の境を見立てました。どうぞ」
膝に拳を置いていた智翠さんが、手のひらを添えて促した。
リスさんは、帛紗入れの中から懐紙を出すと、削られた箸を持ち上げ、その上にお菓子を載せた。
お菓子器は、次に私へと渡ってきた。
美しい桜の枝が描かれた帛紗入れを開けてみる。中には他にもいろいろ入っていたが、とりあえず懐紙を出し、リスさんに倣って見よう見まねでお菓子をいただいた。
紅葉色にぼかされた寒天の帯が、薄紫の餡に巻かれ、手前に流されている。
それだけの色合いが、なぜ、この空間の中でこんなに美しいのだろう。
見蕩れていると、リスさんが小さく私を呼んだ。
そして、懐紙の間から菓子切りを出して見せる。
私もやや首を傾げておそるおそる懐紙の間を探ると、菓子切りが納った小さな入れ物が出てきた。
リスさんのように上手に入れ物の中から菓子切りを出すのは難しそうだったので、私は一度懐紙を畳に置いた。
きっちりと入れられていた菓子切りを出して、私は目を奪われた。
白い中に濃淡のある緑が揺らめいている。
「綺麗ね」
隣でリスさんが小さく囁き、私の手元を覗き込んだ。
千春さんも、今しも棗を持とうとしていた手を止め、こちらを見た。
「まぁ。ほんと」
そうして、二人はほのかに笑ったのだった。
温かな雰囲気に包まれ、智翠さんのお菓子にそっと菓子切りを入れた。
紅葉色に透き通った寒天と薄い味の餡は、口の中で儚く消えた。
終始、おおらかなお茶席であった。
千春さんとリスさんが何くれとなく気を配ってくれたので、私はその時間を心ゆくまで楽しんだ。
千春さんの点てたお茶は、夏に来る約束を忘れた私を許す、深緑の香りがした。




