リスさんのパン教室Ⅱ ①
ベッカライウグイスは、静かな午後を迎えていた。
夏は、年々盛りを延ばし、徒歩でいらっしゃるお客さんたちとの合い言葉は、「暑いですね」「ここは涼しいですね」であった。
リスさんは、工場で業者さんとあれこれ、受注やお勧めの品について話している。リスさんは、もう栗の仕入れ動向を気にして、業者さんに尋ねる。
みっちゃんは、午前中いっぱいボランティア活動に勤しみ、遅いお昼にとベッカライウグイスを訪れていた。
みっちゃんの横の席では、スーツ姿のお客さんや、ご贔屓に来店くださる近くの会社勤めの女性たちが、入れ替わり立ち替わりパンとコーヒーを楽しまれてはまた夏空の下へ戻って行かれる。みっちゃんだけが、そのままのんびりコーヒーを飲んでいた。
「一日パン屋さん」や、「さくらさんの粘土探しツアー」で知り合った新しいお客さんも多く訪れてくださり、賑わった夏休みも、あと残すところ僅かである。
リスさんと私には、その仕上げともいえる大きな仕事が待っていた。
「リスさんのパン教室Ⅱ」である。
パン教室についての申し入れは早かった。
年度が変わったかと思うと、すぐさまベッカライウグイスへ電話がかかってきた。
お店の電話が鳴ることはとても稀だったので、私は強烈な既視感の原因を記憶に探しながら、受話器を取ったことを思い出す――――。
「はい、ベッカライウグイスです」
なぜか自然と、電話機の上に掛けられているカレンダーに目がいった。
「もしもし、こんにちは、わたくし、◯◯小学校の校長をしております、林と申します」
やはり、予想は的中した。
「校長先生、昨年は、パン教室でたいへんお世話になりました」
林校長先生は、リスさんが小学生の時に理科を教わった先生でもあった。
「こちらこそ、本当に色々ありがとうございました!
パン教室だけでなく町探検まで引き受けていただいて、ベッカライウグイスさんにはたいへんお世話になりました。
実はですね、図々しいのですが、今年も『リスさんのパン教室』の開催をなんとかお願いできないかと、お電話した次第なんです。
本来でしたら、お伺いして直接お願いするところなんですが、まずお電話で、と思いまして、申し訳ありません。
もうですね、PTAはじめ職員一同、再び盛り上がっておりまして……。
去年のカメパン、美味しかったですねぇ。焼きたての、ほかほかで、廊下や校舎じゅういい匂いで。
グラウンドにいた子どもたちからも、外までいい匂いがしてきた!って言われましたよ。
それでなんですが……ベッカライウグイスさんやリスさんのご予定など、お忙しいことは承知で伺うんですが、いかがなものでしょうか」
私は、受話器を耳に当てたまま、店舗と工場を隔てる硝子戸へ歩んだ。
リスさんが、すぐに気づき、作業の手を止めて顔を上げた。
「はい。ただいま、店主と代わりますので少しお待ちください」
私は、受話器の口元を押さえ、リスさんに告げた。
「リスさん、○○小学校からお電話です」
あ。
という表情をリスさんがした。
「はい。お電話代わりました。鶯谷です」
私の頭の中で記憶が紐解かれ、300匹に及ぶカメパンが、勇壮果敢に行進し始めた。
リスさんは、笑顔で答えた。
「はい…………はい。…………それは、ありがとうございます。……ええ、大丈夫です。今年もご依頼いただけるなんて、私も嬉しいです!」
リスさんが、快諾した。
それが四月のことだった――――。
去年は、気乗りしないところをみずほさんに後押しされての承諾だったが、今年は違うようだった。
リスさんは、そのとき私に聞いた。
「今年は、どうしましょうね……来春さん」
私は、カメパンの行進をストップして言った。
「カメパンを凌ぐものがあるとしたら……」
「あるとしたら……?」
「…………ウーパールーパー?」
リスさんが、ちょっとだけ渋い顔をした。
そのときに一番興味のあった生き物を口にしただけなのだが、ウーパールーパーじゃだめなのかな、と私は今でも思っている。
古賀さんと出会うきっかけになった、あの、パン教室を私は思い出す。
あぁ……ろうそくみたいに、三角巾をつけてたな……。
それから一年足らずで、専用の調理制服を身につけて、ベッカライウグイスの工場へやってくるなんて、時の流れは予想出来ないものである。
それにしても、なぜウーパールーパーはだめなのだろう。
カランコロン
「こんにちは!」
「いらっしゃい、たいちゃん。暑いわね」
「はーっここは涼しい~」
低血圧のたいちゃんは、入り口でがっくりと頭を下げた。
「大丈夫?はやく、座って」
私が急いでたいちゃんの方へ行こうとすると、たいちゃんはすぐに顔を上げ、口角を上げた笑顔を見せた。
「あ、すみません、暑かっただけで、大丈夫です!」
日に焼けた様子がまるでない、白っぽい額に、汗で髪が貼りついている。
「はーっ。生き返るぅ」
たいちゃんは、ブラウスの襟元を摘まんで、パタパタと首から離した。
予備校での講習の帰りや空き時間に、たいちゃんは、時々ベッカライウグイスで休息をとった。いい息抜きになるだろう、という親御さんのお墨付きである。
「こんにちは」
たいちゃんは、カウンターの右端に座るみっちゃんに挨拶をしてから腰掛けた。
「やぁ、こんにちは」
ほんの少し遅れて、みっちゃんはたいちゃんを振り返った。
二人の、やや距離を置いた優しい空間がそこには出来つつあった。
「どうぞ。お待ちかねのキーウィデニッシュです」
「ありがとうございます!」
まだ氷の残る、小さめのマイボトルを開け、たいちゃんはデニッシュを口に運んだ。
この頃では、たいちゃんがやってくる日には、朝から、リスさんか私のスマートフォンに、パンを一つだけ取り置いておいて欲しいというメールが届く。せっかくベッカライウグイスに行くのだから、お気に入りのパンを一つだけ食べたい、という可愛い希望で、もちろん私たちはそれを受けていた。
「このキーウィソース、最高ですね!色も綺麗だし、甘酸っぱさがものすっごくいい!」
「ふふふ」
「……私、この前、真似してキーウィジャムを作ったんです。でも、キーウィってペクチン少ないと思う。それに、水分飛ばそうとしてちょっと煮ただけですぐに色が悪くなるし、難しかったです」
「リスさんのは特別、ほんの少しお塩が入ってます」
「えっ、そうなんですか?」
「あと、さっとしか煮ませんね、お砂糖に付けておく時間の方が長いくらい。漬けすぎると水分出ますけどね」
「そうなんだ……勉強になります!」
「ふふふ」
さらに、「一日パン屋さん」体験以降、たいちゃんの最近の関心事は、私たちの私生活についてまでに及んでいた。
「リスさんと来春さんって、お休みの日には何してるんですか?」
「うーん、そうねー」
本当のことを言うと、女子高生の希望を打ち砕くようで実に申し訳なく、言葉を濁すしかない。
私は、みっちゃんにお代わりのコーヒーを注ぎながら言った。
「あ、次の定休日はね、○○小学校で『リスさんのパン教室』があるわね」
「えーっ!」
リスさんが、工場での仕込みを終えて、お店へやってきた。
「あら、たいちゃん、こんにちは!」
「リスさんー!私も、パン教室に行きたいです!」
リスさんは、一瞬目を見開いたが、すぐに笑った。
「うーん」
首を傾けて小さく唸りながら、リスさんは自分のコーヒーをカップに注いだ。
たいちゃんは猛烈に行きたいようである。
「お手伝いしますから!山ほどパンが焼けるところが見たい!楽しそう!」
「なかなか、楽しいですよ」
りすさんは、たいちゃんの行きたい気持ちを助長させているとは気づかず、続けた。
「去年は、親子カメパンが総勢300匹、家庭科室を占拠して、面白かったです」
たいちゃんは、猜疑心を表情に貼り付けた。
「カメパン作ったんですか?!お店には出てませんよね?」
「土日には、子どもさん連れで来てくださるお客さんのために作ることもあるんですよ」
たいちゃんは、愕然とした。
「えっ。土日は、そんな特別パンが出るんですか?!」
土日に、たいちゃんがベッカライウグイスへ来たことは今まで一度もなかった。
リスさんは、事もなげに頷いた。
「えーっ……」
たいちゃんは、何かをめまぐるしく考えていた。
「それで、パン教室って、次の水曜ですか?木曜ですか?」
リスさんは、ショーケース奥のスツールに腰掛け、のどかにコーヒーを飲んだ。小柄な体が、レジやカウンターに隠れてしまい、顔だけたいちゃんの方へひょこっと覗かせている。
「木曜よ」
「何時から?」
「4時かな」
たいちゃんは、心底残念そうに言った。
「予備校だ……」
予備校がなくても、たいちゃんは休んだ方がいい。
「今年は、何パンを作るんですか?」
「それが…………来春さんがね、ウーパールーパーパンを作りたいって言うのよ?」
「えっ、それは……」
突然、そんな過去の話になり、私は驚いて、コーヒーサーバーを持ったまま二人を見るしかなかった。
みっちゃんまで、私を見上げている。
「もう、来春さん、最近の小学生はウーパーに興味ありませんよ」
「じゃあ、何……?」
そこは、大いに興味のあるところである。なぜなら、年度当初、私たちは何パンにするかで頭を悩ませたのだから。
リスさんと私は、互いに離れた場所から固唾を飲んだ。
ごくり。喉の渇いたたいちゃんは、氷の音とともにマイボトルのお茶を一口喉へ流す。
「大谷翔平」
たいちゃん……それ……。
私が飲み込んだ言葉を、あろうことかリスさんが口にした。
「たいちゃん、それ人ですよ?」
リスさんに、人かどうかは言えないはずである。私は、先日の古賀さんとの一件を思い出していた。
たいちゃんは、自信たっぷりに胸を反らせた。
「うちの弟が大好きで、友達もみんな好きっていってましたよ?」
リスさんと私は、肩を落とした。
「でも、大谷パンはちょっと……ね」
「うーん」
たいちゃんは、眉間の皺を人差し指でとんとん叩いた。
「あ!分かった!あれですよ、黄色いあのキャラ」
リスさんが、ピンと来たようだ。
「あぁ!あのぽってりした」
「……ぽってりですか?」
たいちゃんが、斜め上に視線を動かした。
「まぁ、ぽってりとも言えますね!」
「あの、ベレー帽被った!」
たいちゃんが、リスさんを凝視した。
どうやら、齟齬があったようである。
私は、呟いた。
「ウーパーは、どうしてダメなんでしょう……?」
カウンターの端で、みっちゃんが、真面目に答えた。
「エリマキトカゲと間違うからでしょ」
私たちは、しばし沈黙した。
さて、そんな平和な時間とともに、パン教室の日がやってきた。
お天気は、雨。
土の匂いが濃く立ち籠めたかと思うと、次第に雨脚が強くなり、リスさんと私は心の中で「やった!」と快哉した。
今日は、肌寒いほど涼しい日になる。
私たちは、午前中のうちに、傘を差して、ベッカライウグイスと学校を何度か往復し、材料を運ぶつもりでいたが、それを察した家庭科の先生が自家用車を出してくれたため、運搬はスムーズに進んだ。
職員玄関に車が横付けされると、若い先生たちがやってきて、重たい小麦粉やバターを家庭科室まで上げてくれた。すでに出来上がった、予備の生地も持ち込んだ。家庭科の先生は、それらを冷蔵庫につぎつぎと積み上げていった。
午後4時。
リスさんと私は、家庭科室に招かれ、例によって例の如く、PTA会長さんから丁重な紹介にあずかった。
リスさんが、教壇に上がり、挨拶をする。
少し離れたところから私はそれを見守る。
この、期待と親しみを包む厳粛さが、懐かしい。
リスさんの挨拶が終わると、辺りは温かい拍手に包まれた。
リスさんは、教壇の上で、本日のパンを説明した。
「パンは、美味しくて安全なものが一番です。次に、食欲をそそるとか、栄養があるとか、綺麗、可愛いというものが要求されるところですが、小学生の児童が、楽しめるパンということを使命に、考えてみました。
今日、制作するのは、『本のパン』です」




