夏休み、ブラーヴォ!!(古賀さんの一日パン屋さん修行) ③
食事は、人を打ち解けさせ、会話も、時間も滑らかに記憶へと収納される。
この日、古賀さんは、ベッカライウグイスで声を上げて笑うようになり、リスさんはあれこれと躊躇なく質問するようになっていた。
「古賀さん、その制服って、いつ用意されたんですか?」
「これは……少し前です」
古賀さんが口元を覆い、咀嚼を中断する。
「少し前って?」
古賀さんが、お気に入りのパンの、皮の部分を飲み込む。
「え、えっと、もちろん三月に『一日パン屋さん』が決まってからすぐです」
その答えに、リスさんは、申し訳なさそうに古賀さんを見た。
「やっぱりそうですよね。……すみません。もっと早くお伝えしておけば良かったんですが、制服は、予備のがあったんです。前にお勤めしてくださってた方ので、たいちゃんにも使ってもらったんですけど……」
古賀さんが、楽しそうである。
「準備も楽しみの一環なので、いいんですよ」
「じゃあ、その帽子は……?」
「もちろん、これも、三月に決まってからです」
「靴は?」
「もちろん、決まってからです」
「靴は、智翠のがあったんですけど……」
古賀さんが驚いて、今しも持ち上げようとしていたパンを持ち損ねた。
「智翠さんって、パンも作るんですか?!」
リスさんが笑った。
「ふふふ。智翠は、餡子を持ってくるときに工場をちょっとうろうろするだけです」
「はははっ。びっくりした。たまに工場でパンを作っていくのかと思った」
古賀さんの安堵した表情に、私たちも笑った。
食事を終えると、あとは開店準備だった。
焼けたパンを、つぎつぎお店に移していく。
古賀さんが焦げたミトンを嵌め、オーブンから、大きな天板を引き出しては、ラックに乗せる。古賀さんの額に汗が滲む。
それが終わると、既にラックで冷まされた天板をお店へ運び、古賀さんに天板を持ってもらったまま、パン置き場へとリスさんが手早く並べる。私は、食事の前に出来上がっていた粗熱の取れたパンを、ショーケースに入れていく。
「うわ!いい眺めですね。美味しそうだ!」
古賀さんは、いつも見ている方向とは逆からの光景に目を細めた。
リスさんが、レジカウンターの下から、ベッカライウグイスの吊り看板と踏み台を出すと、古賀さんがそれを受け取った。
二人で、外に出ると、ベッカライウグイスは開店の看板を上げた。
私は、工場に入り、急いで甘いデニッシュの仕上げを始めた。いつもリスさんから任されている仕事だった。
甘夏デニッシュが終わった後は、少し前からキーウィデニッシュを作っていて、カスタードクリームの上には、生のキーウィとナパージュ代わりのキーウィソースを塗っている。キーウィの酸味がこの季節にぴったりで、お客様にも評判である。
重たいカスタードクリームは、できるだけ滑らかに裏ごしし、切り口の多い口金で、キーウィの周りを華やかに飾る。
私の手と頭が、めまぐるしく回転する。
せっかくの機会なのだから、もっと二人が一緒の時間を作れないだろうか……。
朝食は、同席しないとリスさんが不審に思うので一緒に過ごしてしまったし、昼食は、いつも各々暇をみてとることになっているので、そんな時間はないだろう。
開店後は、お客さんが入れ替わり立ち替わり訪れ、工場もあるので私たちは忙しい。
さて、どうしたものだろう。
私は、いいことを思いついた。
「あ……」
そのとたん、絞ったカスタードクリームの先が伸びてしまい、考え事はいけないな、と反省した。
「来春さん」
リスさんが、硝子戸からひょこっと顔を出した。
「クリーム、古賀さんがやってみたいって言ってたので、お願いします」
「あ……あの、私、お店に出ますので、リスさんお願いできますか?」
リスさんは、すぐに言った。
「じゃ、今、みっちゃんしかいないので、三人でやってしまいましょう!」
あ……そんなつもりじゃ…………。
しかし、古賀さんは、にこにこしながらやってきた。
パン屋さん経験5時間にして、その佇まいは既にベテランの雰囲気を醸している。
古賀さん、恐るべし。
「僕、クリーム絞るの初めてで、やってみたかったんです」
古賀さんが、私の隣に立った。
「これが、口金ですね」
私は、別の物のことを思い出しながらも頷いた。
「そうです」
リスさんが、冷蔵庫から追加のカスタードクリームとチョコレートクリームを出してきた。
「すごい量!」
「これで、一日分です。午後からクリームも作るので、やってみますか?」
古賀さんは、勇んで言った。
「ぜひ!」
リスさんにクリームを絞り出し袋に詰めてもらい、古賀さんが楽しそうに受け取った。
カランコロン
「ごめんください」
お店にお客さんがいらした。
私は、工場から飛び出した。
「いらっしゃいませ」
なんとなく不思議だな、と思いながら、私はそのお客さんを迎えた。「ごめんください」といらっしゃる方は、たいてい回覧板などを持って来てくださる町内の人なのだが、どうも違うようである。けれど、どこかで会った気がするのはなぜだろう。
そのお客さんは、パンではなく、私を見ると会釈をした。
「あの、私、石動と申します。先日お世話になりました、妙子の母です。娘がこちらで色々体験させていただきまして、ありがとうございました」
ああ!たいちゃんのお母さんだったのだ。
たいちゃんの面差しを思い出させるお母さんは、丁寧にもう一度頭を下げた。
私も、つられるように頭を下げた。
「いえ。たいちゃんには、私たちの方がお世話になりました。しっかりした娘さんで、とっても頼もしかったです。こちらこそ、ありがとうございます」
こちらの様子に気づいたリスさんが、工場からやって来た。
「いらっしゃいませ」
「リスさん、こちら、たいちゃんのお母様です」
「石動と申します。先日は、娘が色々ありがとうございました。パン作りやお菓子作りが大好きなものですから、もう、夢見心地で帰って参りまして、満足したのか、その夜は、何も作り出したりしませんでした。……ただ……あの、ご迷惑をおかけしたかと思うのですが、妙子は、朝が苦手で、いつも調子が良くないものですから……そんな子どもを、黙ってお預けしてしまって、申し訳ありませんでした」
私たちは、すっかり恐縮してしまった。
「いえ、そんなことないです。確かに、たいちゃん、朝5時は早くて具合悪そうにしていましたが、とっても素直なお嬢さんで、ちゃんとお話してくれましたし、9時頃にはすっかり元気になって、もう一人前の職人のように手伝ってくれて、私たちも色々任せてしまうくらい、何でも知ってました」
「一緒に色々できて、私たちも楽しかったです。また来てね、って言ってしまいました。受験生で忙しいのに、すみません」
「お母様の方が、心配だったと思います。何もご連絡せず、夕方まで……申し訳ありませんでした」
私たちが交互に言う様子に、石動さんはほっとしたようだった。
「いえ、そんな。朝、こちらの近くまで送ってきたんですが、妙子にお店までは来ないように言われて……子どもの言うとおりにしてしまって……ご挨拶が遅くなってしまいました」
「高校生は、もう子どもでもありませんから」
「かといって大人でも……」
「そうですね」
私たちはようやく一段落つき、立ったままでもと、石動さんにコーヒーを勧めた。
石動さんは、一つ席を空けて、みっちゃんの横に並んだ。
みっちゃんは、気づいているのかいないのか、コーヒーをゆっくり飲んでいる。
「妙子、下校時間が早いと、こちらのパンを買ってきてくれるんです。家では、イギリスパンとハードロールがとっても人気なんですよ」
石動さんは、コーヒーを飲みながら話した。
「妙子も高校三年生で、色々進路を考えてて、行き詰まっているところもあるんですけれど、一日こちらにお世話になって、すっかり気持ちが明るくなったっていうか………『一日パン屋さん』がなかったら、予備校漬けの夏休みだったと思います」
リスさんは、石動さんの隣に腰掛け、頷きながら話を聞いていた。
手持ち無沙汰になったのか、古賀さんが工場から出てきた。
「私たちは、妙子が選んだ進学先で、楽しく頑張ってくれたら……と思うんですけれど、多分、本人も自分の体調のことを心配してるんです」
リスさんが、頷く。
「この前、店長さんがお友達のことを教えてくれたって言ってました」
リスさんは、少し慌てた。
「すみません。友人に、たいちゃんに似た体調の子がいて、つい。たいちゃんとまったく同じっていうわけじゃないのに」
「いえ、妙子は恵まれてるな、って思ったんです。親や先生や友達だけじゃなくて、他に心配してくれる大人がいて。それで、今日はご挨拶とお礼のつもりで伺ったんですが、すっかりごちそうになってしまって……」
石動さんは、紙包みをリスさんに差し出した。
「こちら、みなさん仲良しって妙子から聞いているんです。みなさんでどうぞ」
リスさんは、少し困惑した表情だったが、ありがたく受け取った。
「恐れ入ります。頂戴します」
「妙子もお気に入りのゼリーなんです。ぜひ召し上がってみてください。あ、妙子には私が来たことは内緒にしてくださいね」
「はい!内緒にしておきます。ありがとうございます」
石動さんは、ショーケース奥の私と古賀さんにも「ありがとうございました」と腰を折り、帰っていった。
古賀さんは、ぽつりと呟くように言った。
「高校生の進路も、お母さんも、たいへんですね色々」
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
それから、お客さんが入れ替わり立ち替わり訪れ、古賀さんは経験があるのかないのか分からないまま、接客の渦に巻き込まれていった。
しかし、それもそつなくこなす様子に一安心し、リスさんと私は作業を進めようと、工場の硝子戸を開けたときだった。
「!」
私たちは、調理台を前に絶句した。
古賀さん……。
そこには、古賀さんの渾身の作であろう、カスタードを絞られたデニッシュが並んでいた。
リスさんが、お店に立つ古賀さんを呼んだ。
「古賀さーん」
リスさんに呼ばれ、いそいそと古賀さんがやってくる。入れ替わりに、私はお店に出たが、工場の様子からは目が離せなかった。
古賀さんは、リスさんからまず、絞り出し袋の持ち方を指導された。
「すみません……どう絞っても、上手くいかなくて……」
「力の入れすぎですよ」
「あぁっ……」
「……分かりました。えっと、じゃあ古賀さんは、コロネに詰めるだけにしてください」
「え……やってみたかったんです。この、星形の口金で、綺麗に……」
「練習が必要です」
断言するリスさんの手元には、古賀さんがクリームを絞り出したデニッシュが並んでいる。
それらはすべて、古賀さんの記念すべきお土産になった。
やはり、初めてのことは苦手そうな古賀さんであったが、新米従業員のようにリスさんの説明をよく聞き、よく動いた。
私は、自分の手を休めることなく、時々、二人が一緒に立ち働く様子を目に留めた。
お昼のお客さんの波が退き午後の時間を迎える頃、古賀さんは工場でも、リスさんと他愛のない話をするようになっていた。
工場の熱気を逃すために、半分ほど開けられた硝子戸から、二人の会話が聞こえてくる。
「古賀さん、ずっと立ちっぱなしで大丈夫ですか?」
「立ちっぱなし、得意なんです。結構、普段から立ちっぱなしです」
「そうなんですか。私、座りっぱなしなところしか見たことがなかったので……」
「ははっ。そうですよね。指揮って、練習時間がものすごく長いんですけど、ずっと立ってますね。夏場は、熱気でここよりもすごいです」
「そうなんですか?ここよりも……」
「ぼく、今朝ここに来る時に、歩いてきたんですけれど、夏休みのラジオ体操を思い出しました」
「それは、どういう……?」
「ええっと、気持ちの面じゃなくて、気候の面で」
うんうん、とリスさんは、手を休めずに頷く。
「ちょっと霧がかってて、肌寒くて、濡れた草の匂いがするっていうか……夏休みの早朝っていいな、と思いました」
「私は、ラジオ体操、苦手だったんですよね。母に送り出されて、仕方なくっていう感じで行ってました」
「ははっ」
和やかな様子で、何よりだった。
しかし、古賀さんは次に、予期せぬ、ずばりと核心を突いた質問をしたのだった。
「リスさんって、好みのタイプとかあるんですか?」
私は、びっくりして、思わず古賀さんを振り返った。
古賀さんは手元を見たまま、こねこねと生地を丸めている。実に、何気ない風を装ったものである。
しかし、ここがリスさんらしさなのだが、まるでだいちゃんから質問されたことのように、ふんわりと聞き返した。暖簾に腕押し技である。
「好みのタイプって?」
古賀さんは、頑張って捏ねている。
「えっと、……人です」
リスさんは、もう一つ、ミキシングの終わった生地を調理台の上に出し始める。
「あぁ、人ですか……うーんそうですねぇ…………お地蔵さんみたいな人ですかね?」
古賀さんは、こねこね姿勢のまま固まった。
「え?」
リスさんが、それ以上何も言わない古賀さんを、不思議に思ったのかその手元を見た。
「え、えっと……」
古賀さんの手が再び動き出し、言葉を探している。そしてやっと、気がついたように顔を上げた。
「リスさん、それは人じゃないような……?」
リスさんは、いたって真面目に答えた。空になった大きなミキシングボールの中へ、リスさんはシンクで水を溜め始めた。
「そうですね、お地蔵さんは人じゃないですね。うーん。なかなか具体的な人に例えられないんですけれど…………私、じっと動かない人が好きなんです」
リスさんが、水を止める。
そういうことなのか……。私には、リスさんの言わんとしていることがよく分かる。
しかし、古賀さんには無理だろう。
古賀さんが黙っているので、リスさんは説明した。
「私、両親を事故で亡くしているので、できるなら家でじっとしていてくれる人がタイプなんです。もう悲しい思いはしたくなくって」
古賀さんは腰を伸ばし、パン生地から両手を離した。
調理台に戻ると、また、次々にパンをベンチタイムへ送っていくリスさんの手をじっと見下ろした。
古賀さんは移動が仕事の一環であり、しかもそれは長距離だ。リスさんは、多分、在宅で仕事をするような人が好みなのだ。だが、それは古賀さんの尋ねた、タイプというのとはまたちがうのかも知れなかった。
リスさんの記憶に潜む悲しみは、どうやっても頭を擡げ、時々、幸福の隣に座り込む。拭えないそれは、幸せに笑うことを妨げたりはしない。悲しみは、大きな支配の手を広げても、いつの間にか幸せと肩を並べ、人生を一緒に渡っていく。そして、自分の場所を明け渡すことはけっしてない。
私たちはそのことに、気づいたり、気づかないふりをしたり、だましだまし、平穏な時間を重ねているのかも知れない。
古賀さんは、意を決したように顔を上げた。
そして、言ったのである。
「僕、パン屋さんになりたいです!!」
リスさんは、驚いて古賀さんを見上げた。
だいちゃんかな。
リスさんと私は、工場とお店で、思わず声を上げて笑った。
希望を口にする古賀さんは、優しい人だ。
みっちゃんが、こちらを振り返った。
午後4時過ぎ、ベッカライウグイスはだんだん訪れる人が少なくなる。売られているパンも、少なくなる。
私は、リスさんに声を掛けた。
「リスさん、私、ちょっとお買い物に出掛けてもいいでしょうか?」
リスさんは、にこにこして
「もちろん、構いませんよ」
と私を送り出した。
夕食当番の時には、ごくたまにあることだったから、私は調理制服と帽子をロッカーにしまい、買い物用の大きなバッグを肩に提げて、お店の外へ出た。
スーパーに着いても、私はどこか気もそぞろで、売り場のあちこちで逡巡した。
普段は買わないものを手に取って、裏のラベルを読んだりする。
はっと気がついて、家の冷蔵庫の中にあるものを思い出す。
うーん、と頭を捻り、特別なレシピを考え出そうとするが、そんなことはできない。
気がつくと、珍しいフルーツを買い物籠に入れていた。
ここでいくら悩んでも、私は帰らなければいけない。閉店の仕事や、明日の仕込みもしなければ。
リスさんと古賀さんは、クリームを作っている頃だろうか……。
スーパーの外へ出ると、もう、気の早い虫たちが、夜の帳を招き始め、暑さの落ち着いた辺りは、帰宅途中の人々が行き交っていた。
夏の、夕刻へ向かう時間に、伸びた草が風に揺れる。
ほんのりと、眩しかった空に夕焼けの色が混じりだす。
一日は、早いものだ。そうやって、まとまった月日は過去になっていく。
私も、帰ろう。ベッカライウグイスへ。
カランコロン
「ただいま戻りましたー」
私が、買い物袋を下げていない方の肩で、重たい扉を押し開けると
「あ、来春さん」
「お帰りなさい」
カウンターの席に並んで座った二人が、私を迎えてくれた。
帰ってきたのが申し訳ないような、でもこうして迎えられたことが何より嬉しい。
「ただいまもどりました」
座ったまま私を振り返る二人に、私は応えた。
「あぁ……時間って、こんなに速いんですね……」
古賀さんは、お客さんのいなくなった店内で立ったまま、大きな嵌め殺しの窓から外を見た。
私は、同じことを言っていた、たいちゃんを思い出した。
古賀さんの人生の中で、パン屋さんを体験するのは、これが最初で最後かもしれない。古賀さんには、古賀さんの仕事がある。
リスさんの後ろに立って、手を洗う順番を楽しそうに待ったり、一緒にオーブンの焦げ付いた窓から中を覗いたり、カウンターに並んでコーヒーを飲んだり、次はいつそんな時が来るのだろう。
古賀さんのいつもの紙袋には、畳まれた制服や帽子の他に、詰め切れないほどのお土産が入っていた。
「よいしょっと」
古賀さんは、それを大事そうに両手で抱えた。
「今日は、ありがとうございました。とっても楽しかったです」
リスさんは、私を振り返りながら言った。
「私たちも、楽しかったです」
古賀さんは、胸を張って言った。
「仕事のないときはいつでもお手伝いできますから」
リスさんは返答に詰まる。
「ん……っと……ありがとうございます?」
「今日が、修行一日目です!じゃあ、また来ます」
「はい」
そう言って、また訪れる約束を、古賀さんが重ねてくれる未来を私は希求した。
私は、リスさんと並んで、閉店したベッカライウグイスから、古賀さんを送り出した。




