リスさんのパン教室Ⅱ ②
雨の降り籠める音が、家庭科室の中まで忍んでくる。
糸のように流れる音だ。
教室には、皓々と灯りが点けられ、その分、外は薄暗く見えた。
校庭に植わった大きな樹木は濡れそぼり、抱えきれなくなった雨水が、木の葉から根から草叢を伝い、グラウンドへと注がれる。集まってくる雨水を蓄えた地面は、水溜まりとはいえない。もはやそれは湖面に見えた。雨の波紋が重なって、波打つようだ。
家庭科室の室温は、お願いして、特に低く下げてもらっていた。参加される方々にも、事前にそれをお知らせしている。パン作りはオーブンの熱もあり、薄着なイメージだが、今日は皆さん、長袖である。
外の気温も、ますます下がるだろう。
「本のパン」にはうってつけの環境だった。
リスさんは、説明を続けた。
「本は、文字が書いてあって、一枚一枚、頁が捲れます。今日のパンも、そういう形になります。
誰かが開いて、読みさしになってる形の本の、頁を捲っていくパンです」
「本のパン」とは、ミルフィーユのように層になったデニッシュ生地を本の形に成形したものだ。もちろん、捲ったページはもぐもぐいただく。
問題は、夏の家庭科室での成形だった。
デニッシュ生地は、特にだれやすい。暑い場所では、バターが溶け出して仕舞いかねない。
いつもリスさんがデニッシュ生地を作るときは、頻繁に冷蔵庫へ入れて発酵や生地の具合を調節しながら、生地を伸ばしては折り、伸ばしては折りを繰り返す。発酵時の湿度も管理する。
工場だと、それもたやすいのだが、大勢いる学校の家庭科室では、どうだろうかと私たちは考えた。
リスさんが学校に問い合わせると、家庭科室の大型冷蔵庫は、夏休み中、空っぽになっているので、なんなら冷凍庫まで使って、思う存分冷やせるということだった。
ベッカライウグイスのリスさんのデニッシュ生地は、格別である。卵や牛乳、生クリームまでリッチに配合し、なんといっても、一枚一枚、しっとりとした層がペラリと剥がれるところが、気持ちいい。その一枚には、バターとあいまったほのかに甘い配合がしみ出している。私は、特別な布地のように折りたたまれた生地が、冷蔵庫に積まれているのを見るのがとても好きである。
「リスさんのパン教室Ⅱ」では、その秘密を余すところなくお伝えしよう、となった。
そして、学校側の配慮で、そういうことならば、今回は夕方からの開催はいかがだろうと申し入れがあり、リスさんはありがたくそうさせてもらうことにした。
リスさんの説明に、お母さんたちの中から、「うわぁすごい」「捲れるの?」と興味を持ってくださった声が上がる。
リスさんは、続けた。
「使う生地は、折り込みパイを、パン生地とバターに変えたものです。クロワッサン生地と似ているんですが、少し配合が違います。
えっと、では、レジュメをご覧ください。
ちょっと、絵が……苦手で……お恥ずかしいんですが、分かりますでしょうか…………。構造が……」
そこには、リスさん手描きの「本のパン」と、その説明付き分解図があった。
「大丈夫ですよ!ね?」
PTA副会長のお母さんが声を上げた。集うお母さんお父さんたちが、頷いてみせる。リスさんは、心底安心して息を吐いた。。
「よかったです……ありがとうございます。えっと、絵では、分かりにくいと思いますので、その都度、お尋ねください。では、パン生地の配合から、確認して、計量をお願いします。私たちは、イーストを、各テーブルにお配りしますね。今日は、生イーストではなく、こちらのドライイーストを使います」
リスさんと私は、持参した計量済みイーストを、調理台を回って置くだけでなく、揺り起こし作業をお願いした。リスさんが大好きな、酵母の話が交えられる。
「では、まず、折り込み用のバターを作ります。分量のバターを、ラップに包んで麺棒でのばしていきます。大体、15センチ四方の板状にしていってください」
バターを包んだラップに名前が書かれ、さらにそれを調理台ごとにまとめてビニール袋に入れたものが、冷蔵庫に保管された。
「バターが固まるまでの間で、パン生地を捏ねていきます。今日は、叩かないので、楽かと思います」
各調理台で、ミキシングが始まった。
「おおっ」
一際大きい歓声の上がる調理台があり、リスさんと私はそちらを見た。
背が高く、厚い背中のお父さんが、豪快にパン生地を掴んでは、大きなボウルの中でまとめているようである。
リスさんが、その後ろ姿をじっと見ていたかと思うと、つかつかと歩み寄った。
「梶……くん?」
お父さんがパン生地を離して、リスさんを振り返った。
「やーっと分かったか!遅い!」
リスさんが、目を丸くした。
「梶くん!え、どうしてここにいるの?」
「そりゃ、保護者だからに決まってるよ」
「えっ」
リスさんが思わずたじろいだ。
周りの人々も、それに気づき、ざわざわと呟きが広がった。
リスさんは、慌てて、後ろを振り返り、説明した。
「あの、学校で同級生だった人に会いまして、一緒の調理科で勉強していた、梶さんです!」
梶さんは、照れ笑いをしながら、高い位置から小刻みに何度も、短髪の頭を下げた。
「すみません。ウグイスさんとは、久しぶりに……卒業以来だよね?会ったんですが、こんな大それたところで講師をしているなんて……頑張ったんだな、と思って涙を堪えてたところです」
うそ。
リスさんの目が言っていた。
さらにリスさんは、梶さんを見上げてはっきりと言った。
「あの、私の名字なんですが、ウグイスではなく、鶯谷です」
隣で、梶さんが呟いた。
「ウグイとか、例の……よりいいと思うけど……」
リスさんが小さく咳払いをした。
「梶くんは、……風の便りで、……すみません、そんな便りはなくって、でもパティシエになったと思っていたんですが……。学生時代から、ご覧の通り、特にパンのミキシング作業が得意だったので、今日は、お疲れの方は、どんどん梶くんに任せて大丈夫です!」
どっと笑い声と手を叩く音が上がった。
私は、どこかシューさんを彷彿とさせる体格の、およそパティシエとは縁遠いように見える梶さんへ、拍手を送った。
ミキシングが終わると、低温にしたオーブンへ、ボウルの真ん中に鎮座した生地を送り出す。パン生地が一次発酵をしている間は、お母さんたちの楽しいおしゃべりタイムである。
そこでは、貴重な体験談が聞けるので、リスさんと私は耳を大きくして待ち構えた。
「うちの子、この間匍匐前進してて……ブランコに激突したの。流血よ~」
「あー分かるわ!大丈夫だったの?!」
「土曜日の救急よ~。ホッチキスでバチンバチンって止められたわー」
そんなに、怖いんだ……匍匐前進って……いや、ブランコって……?
「遊具の周りでは、危ないよね」
「うちも小さい頃激突したことあるけど、それ、誰かが乗ってて飛び降りたブランコでしょー」
「そう!」
「それ、吸い寄せられるわ~」
「うちの子も、いっつも催眠術に掛かってるんじゃないかって思うよー」
あははは、と楽しい笑い声が上がる。
隣の調理台では、また別の話である。
「吸い寄せられるっていえば、この前、うちの子、蛸のお刺身の吸盤を、口の中じゅうに……」
「ええーっ」
「うわー新鮮だったんだねー」
「おじいちゃん家に行って、はじめて生を食べさせてもらってねー」
「僕も、昨日やりましたよ!丁度!」
賑やかだったお母さんたちが、一瞬で水を打ったように静まりかえった。
発言したお父さんは、周りのお母さんたちの興味に輝く視線を一身に集めた。
お父さんの声が、徐々に小さくなっていった。
「蛸じゃなくて……イカの……あの……おっきい吸盤の方で……活きが良くて……」
お母さんたちは、やれやれ、という表情を巧みに隠し、笑顔になった。
「これは、子どもも真似しちゃうわよね!」
「子どもがやってることは、大人も楽しいものだもん」
お母さんたちは、イカ発言のお父さんを仲間に、和やかに別の話題へ移っっていった。
オーブンから、発酵の終わったパン生地を取り出して、フィンガーチェックをする。
チェックの済んだパン生地は、粉を振られた調理台に出され、人数分に分割される。そしていよいよ、折り込み作業が開始された。
リスさんと私と、もはや助手となった梶くんは、冷蔵庫から成形されたバターを取り出し、各調理台へ配った。
「折り込みの前に、パキッと折れるくらいにバターが固まっている場合は、麺棒で叩いて、コシをとります」
リスさんの言葉に、梶さんが見本のように、バターを麺棒でバンバン叩いて柔らかくさせてみせた。
リスさんと懐かしい会話があるだろうに、梶くんはせっせとパン教室を補佐するために動いた。
困っていそうな調理台を見つけると、率先して駆けつける。
力があるので、特に、バターを包んだパン生地を伸ばすところでは、頼られ、あちこちでお礼を言われていた。
力のないリスさんと私は、いつも機械に頼っていたので、梶くんはまさに救世主だった。
バターが包まれたパン生地は、三つ折りにされては冷蔵庫へ、三つ折りにされては冷蔵庫へを繰り返す。
そうして、パン生地は出来上がり、成形へと進んだ。
リスさんと私で、何度か試作してみた結果、一番開かれた本らしく見える成形の仕方をレジュメでは図解していた。もちろん、リス画伯の絵で。
「本の大きさや、形ですが、ぜひお好きなものにしてください。縦長でも、横長でも、大丈夫です!」
私たちは各テーブルを巡回したが、参加者の皆さんの創造力は、素晴らしかった。円形の本や見開きに素敵な葉っぱを付けた方、ロマンのあるお父さんは、帆を張ったヨットの形の本を作られていた。
それぞれの希望を形に託し、「本のパン」は、再び低温に保たれたオーブンへ入っていった。
「二次発酵を待っている間に、アイシングを作ります。
出来上がった『パンの本』には、お子さんへメッセージなど、皆さんに思い思いの文字を入れていただこうと思って、準備しました。
アイシングは、粉砂糖と卵白で作るのですが、夏なので、衛生を考えて、本日は乾燥卵白を用意しました。お手元にある泡立て器で、文字が書ける固さを調節しながら、水を加えていきます。水の量なんですが、とにかく少しずつ混ぜるのが成功への近道です。
固いかな?水を2滴加えて混ぜる。
まだ固いかな?水を1滴加えて混ぜる、というくらい、慎重に、1滴1滴、水分を足していきます。
一度しゃばしゃばになってしまうと、後から粉砂糖や乾燥卵白を加えても、乾いたときに、せっかく書いた文字が割れてしまったり、陥没がおきたりしますので、そうならないために水は、少しずつでお願いします。
えっと、そして、調理台の上には、粉末の天然色素が載っているかと思います。
これは、艶が出るまで、よく練ったアイシング生地に、少しずつ入れて、お好きな色味を作ってみてください。
コルネ袋が、お一人3枚ずつ配られているので、3色お一人で作られても大丈夫ですし、調理台の方々で相談されて分け合っても、と思います。
できあがったアイシングはコルネ袋に詰めて、テープで留めておいてください」
リスさんは、さらに、文字を書くのに適したアイシングの固さを説明し、各調理台を回り始めた。梶さんも巡回する。
コルネ袋。
私は、これが苦手である。
リスさんは、いとも簡単に、四角いセロハンの束から一枚を取り出すと、半分の三角形に切り、さささっと丸めてアイシングやチョコレートを入れる袋を作ってしまう。
私は、何度かリスさんに、その袋の作り方を教わった。しかし、セロハンはすぐに形が緩むし、きつく巻くと小さな袋にしかならない。従って、私が作るコルネ袋はセロハンテープだらけとなる。
私は、「本のパン」に文字を書けるようにしたい、というリスさんに進言した。
「コルネ袋は、難しいんです」
私の訴えを汲んだリスさんは、ただのセロハンよりもお値段の高い、「コルネ袋」という商品を注文してくれた。
実費徴収という恩恵もあったので、私は、リスさんが業者さんにそれを注文するパソコンの傍らに立ち、うんうん、と何度も頷いた。
「綺麗ね!」
「可愛い色だわ~」
「前からやってみたかったの!」
アイシングは、お母さんたちから好評だった。
ただ、これは本当に、適度な状態に作るのには年季がいるので、リスさんと助っ人梶さんは、参加者の間をくまなく回って状態を確かめた。
出来上がったお母さんたちは、すでに洗い物や調理器具の片付けをはじめている。隙間時間を逃さず、手際が良い。
成形の終わったパンを、オーブンから出してみる。
と、そこには思いも寄らぬ膨らみ方になった本も若干あるが、それはご愛敬である。概ね、中央の窪みがちゃんと残り、外側へ行くに従って高さが出ている。
「では、余熱も入ったので、焼いていきます」
15分ほどでパンは焼き上がる。
リスさんは、最後の説明をした。
「焼きたての状態では、上手く層が剥がれません。お家に着く頃には丁度良く冷めてきていると思いますので、お子さんとアイシングで文字を書かれたり、頁を捲ったりされて、召し上がってください」
参加者たちは、ぐんぐんと持ち上がるパン生地を、入れ替わり立ち替わり眺めては歓声を上げ、帰り支度を始めた。
時刻は、もう7時を回っていた。
校長先生が、家庭科室にやってきた。
「こんばんは……うわっ、去年とはまた違う匂いだ!去年は、もっと甘い匂いがしたんですけどね!今年は……またこれは……」
教室の空気に鼻を蠢かす校長先生へ、実際に作ったPTA会長が、得意そうに説明した。
「バターの配合が多いんです。いや、お腹がすいてきましたよ」
校長先生は、
「ほんとうに!お腹が鳴るな~」
と頷きながらオーブンへ向かい、中を覗き込んだ。
「これが!なんて言うか、ほんとに本!いやぁ、今の分かってもらえました?」
お母さんたちが笑い声を上げた。
「本のパン」が焼き上がり、次々と調理台に用意された網の上にのせられていった。
バターが多いので、よく焼かなければいけなく、濃い焼き色になっている。
表面は、かさかさと剥がれ落ちそうだが、折り重なった部分が、古い飴色の頁に見えた。
ちょうど真ん中から開かれた形の、様々な大きさと形の本が並んだ。
本は、まだ熱い。
少しずつ冷めながら、子どもたちの小さな手で捲られるのを待っている。
「捲りたいですね!」
校長先生がうずうずした気持ちを抑えきれず、指を動かした。
参加者たちも、一様に満足そうに頷いた。
「すごいいい匂い」
「美味しそう~」
お一人、2冊お持ち帰りになれる。
「リスさんのパン教室Ⅱ」は、校長先生の挨拶で締めくくられ、お開きとなった。
外は、まだ雨が降り止まず、暗い。
去年は校庭で遊んで、お父さんお母さんの「パン教室」が終わるのを待っていた子どもたちも、今日は体育館で帰りを待っている。
「リス先生、ありがとうございました!」
「楽しかったです!」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
「またお店に行きますね!」
「美味しそうで、待ちきれません!」
パンが焼ける匂いの中、体育館で遊んでいる子どもたちを迎えに行く人、真っ直ぐに帰る人が散り散りとなっていった。
リスさんと私は、校長先生や他の教職員の先生たちに丁寧に見送られ、職員玄関を出た。
玄関の周りでは、参加者や子どもたちが色とりどりの傘を差し、楽しげに群れている。
「ありがとうございました!」
再びお礼の渦に巻き込まれ、皆さんと挨拶を交わす。
その中から、湧き立つ声が上がった。
「ウグイス谷のリス!」
なんと!リスさんより私の方がびっくりしてしまった。
リスさんは、何やら不審な目で声のする方を見た。下唇の下が凹んでいる。
呟いている子どもたちもいる。
「ウグイス谷のリスだって!」
呼び声の主、梶さんがお子さんを連れてやってきた。
保護者だと聞かされていたが、リスさんが、改めて驚く。
「梶くん……私と同じ歳なのに……すごいわね。でも、結婚したって噂も聞かなかったわよ?」
梶さんは悪びれた様子もなく、小さな青い傘を差し、大きな瞳でこちらを見上げる男の子の手をしっかりと握っている。
「うん。三年前に、父親になったばかりでさ。可愛いよ~。いや、やんちゃ坊主なんだけど」
「うわぁ。一番やんちゃだったのが梶くんなのにね。さすが、息子さんね!」
リスさんは、少し屈み込むと、笑顔を男の子へ向けた。
「お父さんの同級生で、鶯谷っていいます。よろしくね」
男の子は、大きな瞳いっぱいに笑みを浮かべた。
「あ、これ店の名刺」
差し出された名刺を見るなり、リスさんは梶さんを見上げた。
「お菓子屋さんじゃないの?」
「奥さんがイタリアンの料理人で、オレはパンとドルチェを作ってるの」
「そうなの?!それはいいわね!」
「でも、店もたいへんでさ、定休日には料理教室やパン教室の講師もしてるわけ」
私たちは校門を出て、途中まで一緒に歩いた。
「梶くん、智翠のところへは行く?」
「うーん。あそこは敷居が高すぎるからな~」
「私たち、卒業以来バラバラで、あんまり会ったりしなかったわよね」
「留学するやつもいたし、ウグイスだって、単位とったらすぐドイツに行ってたじゃん」
「うん…………みんなどうしてるかな」
「卒業式にも帰国しないなんて、信じられなかったねオレら」
「見習いなんて、そんな何度も帰国できないわよ。それに、私たちの学校、単位さえ取れば『はい、修行しておいで~』っていうところだったじゃない。欠席の子たちと後で一緒に卒業証書を受け取りにいったわ」
「ま、そんなウグイス谷のリスさんのために、そのうち暇をみて集まるか。その前に、オレの店に来いよ。サービスするから」
「ふふふ。ありがとう。来春さんと行ってみるわね。うちにも、来てちょうだいよ」
「ベッカライウグイスね」
「そう。ベッカライウグイス」
「店が忙しくて、土日もないからさ、なかなか行けなかったんだけどこの辺だってことは知ってたよ。じゃあ、そのうち、店の仕込み前に寄ってみる」
「待ってるわね」
梶さんと男の子は、握った手を離さず、二人で、傘を持ったほうの手をこちらへ向かって振りながら並んで帰っていった。
帰る途中、リスさんが話した。
「梶くんってば、本当はお笑い芸人になりたかったのよ。私、職員室で、土下座しているところを見たことがあるの」
ウグイス谷のリスさん……。と思わず呟きかけたが、私はすぐに思いとどまった。
「何かやったんですか?」
なぜ、今まで誰もそう呼ばなかったのだろう。
「ううん。バイトで貯めたお金で、どうしても卒業前に『お笑い行脚』の旅に出たいから、親には、学校の研修ってことにして欲しいって頼み込んでたの」
「それで……」
「先生が見せてくれたわよ。梶くんの書いた念書。『いかなる事態になっても、すべて自己責任です。学校には何の責任もありません』って書いてあったわね……」
雨は、傘に当たる音も小さい。じきに止むのかも知れなかった。
リスさんは、懐かしい時間を懐古しながら、現在を思う。
離れた街灯に、雨は白い軌跡を光らせる。
「ああ見えて、製菓がとっても上手なの。飴細工なんかも得意で、パティシエになったとばかり思ってたわ」
「でも、ドルチェを作ってるって。ずっと手を繋いで、幸せそうでしたね」
「うん、そうね」
人の人生は、歩んだ道の一筋しかない。その道にたくさん準備されている出来事や出会いを、私たちは精一杯慈しもう。道の行方を決めるのは、自分自身である。私たちのこれからは、私たちが選んだ道が続いている。今までがそうであったように。
リスさんが斜めに傘を上げて言った。
「ね、来春さん、今度の定休日、みっちゃんも一緒に梶くんのお店に行ってみませんか?」
「イタリアン、食べたい!」
「私も食べたい!」
私たちは、降りしきる雨の中、傘を並べ、ベッカライウグイスを目指した。




