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だいちゃんとたいちゃんの夏休み ①

 カランコロン

 「おはようございますー」

 「おはようございます!」


 ベッカライウグイスの扉が「おはようございます」と開けられるのは、そう珍しいことではない。

 開店は10時だが、ご挨拶に「おはようございます」といらっしゃるお客さんは、結構多い。

 パン屋さんはたまたま早寝早起きなため「おはようございます」という感覚が繰り上げられているものだが、ご挨拶が聞けただけで嬉しくなってしまうタイプのリスさんと私は、笑顔で「おはようございます」とお迎えする。



 ところが、今日は、事情がちょっと違った。


 時刻は、まだ朝の5時30分。

 真夏の太陽は、とうに顔を出していたが、空気はひんやりしている時間帯である。

 リスさんと私は、嬉しくなってしまう以上に、今日を楽しみにしていたのであった。



 いらした2名の方は、お客さんであっても本日はお客さんではない。

 

 「今日はよろしくお願いします」


 大きな荷物を肩に掛け、丁寧にお辞儀をするお母さんの脚に、小さな男の子がしっかりと掴まっていた。


 「こちらこそ、よろしくお願いします!楽しみにしていたんです」


 私たちはお母さんを迎えながら、えくぼの付いた男の子の手に注目した。

 すると、そこからさらさらの髪の頭をにゅっと出して、男の子は恥ずかしそうに顔を出した。

 「おーはーよーございまっしゅ」

 つばめ幼稚園、年少さんのだいちゃんである。


 リスさんと私は、出だしから悶絶してしまった。

 一生懸命で舌足らずな発音と、にっこりすると糸のように細くなった目、その下でムクムクと膨らむ赤いほっぺた。

 だいちゃんの挨拶は、想像を上回る可愛らしさである。


 だいちゃんは、3月に行われた開店記念日のたまご探しで、リス画伯がサインペンで描いた、青虫のたまごを選び、見事、特賞・大当たりを引き当てたお客さんであった。


 今振り返っても、「一日パン屋さん」になれると分かったときのだいちゃんの喜ぶ様子は、驚異的に可愛かった。だいちゃんは、キラキラした目で踊りだした。

 

 そのときから、リスさんと私は、だいちゃんの大ファンなのである。

 だいちゃんが「一日パン屋さん」体験に来てくれるのを、二人してあれこれ準備しながら心待ちにしていた。

 3月からである。

 幼稚園も行事が盛りだくさんなため、夏休みを待って満を持しての本日、となったのだが、待った甲斐があるとはこのことだった。


 特に、リスさんがこの日を楽しみにしている様子は、端から見ていても格別であった。

 正直に言うと、その気持ちがほんの少しでも古賀さんに向けられたなら……とも思ったが、私があれこれ言っても仕方のないことである。ここは、だいちゃんの訪れを楽しみに待つしかない。


 夕べ、リスさんは、「実は、パン屋さんになっていなかったら、幼稚園の先生になりたかった」と私に打ち明けた。

 「お母さんの残したお店を再開することを選んだ人生に後悔はないけれど、やっぱり小さな子どもを相手にするのは、本当に楽しい」そうだ。

 「でもね、来春こはるさん。私の画力で、幼稚園の先生になれたとは思えないのよね」と言うのには、「リスさん、私もです」と答えるしかなかった。


 

 リスさんは、駆け寄ると、だいちゃんの前で膝を抱えて屈み込んだ。そして、だいちゃんに許可を求めた。

 「大翔(だいと)くん、だいちゃんって呼んでもいいですか?」

 本名は髙橋大翔くんである。

 だいちゃんは、もじもじしながら

 「いいよ?」

 と、言葉尻に疑問を残しながらも頷いた。そして、お母さんのスカートにしっかりと掴まっていた指を離すと、その人差し指をぱくっと口の中に入れた。その指が、なぜだろう、棒キャンディーのように素敵に美味しそうに見えた。

 

 りすさんは、とびきりの笑顔でお礼を伝えた。

 「ありがとう。私は、リスさん、って呼んでね」

 「リスさんー?」

 だいちゃんが、指をくわえたままお母さんを見上げた。

 「おっきいリスさんだねー」

 「ふふふ」

 リスさんは、誰が見ても小柄である。それが、大きいなんて、こんなに可愛いだいちゃんから言われたので、もう蕩けそうな笑顔をしていた。

 お母さんは、だいちゃんとリスさんを見下ろしながら微笑んだ。

 「店長さんにぴったりな呼び名ですね!」

 リスさんは、笑った。

 「ありがとうございます。本名なんですよ」

 「えっ」

 大きなリスの尻尾のように結んだ髪を揺らして立ち上がるリスさんに、信憑性が薄く感じられたのか、お母さんは驚いた様子だった。

 「ふふふ。漢字は、(さと)(みどり)って書くんです」

 「まぁぁ。すごく綺麗」

 お母さんは、目を見開いて言った。

 「お店の名前にぴったり」

 リスさんは、珍しいサービスを続けた。

 「名字は、鶯谷(うぐいすだに)って言うんです」

 「ええっ?!……すごい。だから、ベッカライウグイスなんですね!…………それにしても、珍しい名字ですね。はじめてです、鶯谷っていう人」

 「親戚は、どこかにいるらしいんですが、私も会ったことがないんです」

 リスさんの発言には、私も驚いた。

 「え?!」

 「え?だって、髙橋さんも来春(こはる)さんも、会ったことないでしょ?鶯谷っていう名字の人」

 それは、そうである。リスさんが初めて会った鶯谷さんである。

 私は、ふと、リスさんのお母さんの旧姓はなんというのか気になった。鶯谷さんでないことだけは、確かである。そのうち、リスさんに聞いてみよう。



 「リスさん!」

 だいちゃんは、おぼつかない発音でリスさんを呼んだ。

 「はい!」

 リスさんがすかさず返事をしたので、だいちゃんはふたたび恥ずかしそうにもじもじしたのだった。

 ところが、次にだいちゃんはなんと、私の名前を呼んだのである。

 「……こはるさん?」

 私は、驚いて、ばっとだいちゃんの目の前に屈み込んだ。

 「すごい!よくお話を聞いてたのね!」

 だいちゃんが、いつの間にか両手の人差し指を入れた口で、にこにこしている。

 「私も、だいちゃんって呼んでいいですか?」

 「うん!」

 ああ。今日のベッカライウグイスはどうなってしまうのだろう、と思った。



 「だいちゃん、すごいわね、こんなに早く起きられるなんて」

 リスさんはそう言いながら、だいちゃんとお母さんをカウンター席へと案内した。

 だいちゃんは、焦げ茶色の床を小さくぎしぎしと鳴らしながら、リスさんに着いて行った。


 カウンターには、水色の箱が一つ置かれていた。


 「ねむくないよー」

 だいちゃんは、そう言い切ると、自分の目の高さにあるその箱が気になるようで、頭と体をゆらゆらしだした。

 カウンター席の大きな嵌め殺しの窓は、朝の陽光が直接差し込んでくる。

 だいちゃんが目をしばしばと眩しそうなので、リスさんは、箱を持つと屈み込み、だいちゃんに手渡した。


 「はいっ、どうぞ」

 ところが、だいちゃんは手を出して受け取らない。

 知らない人から物を貰ってはいけないと徹底されているのか、それともくわえた指を離しがたいのか、リスさんはお母さんを見上げた。


 お母さんが、首を傾げながら尋ねる。

 「こちらは……」

 

 「これはですね、だいちゃんが今日、パン屋さんになるのに必要な、変身道具なんです」

 そう言うと、りすさんはだいちゃんの目の前で、箱をぱかっと開けて見せた。

 そこには、真新しい、パン屋さんの制服と帽子が入っていた。

 もちろん、だいちゃんサイズである。


 「うわぁぁ」

 だいちゃんの顔が、ぱっと明るさを増した。

 ぷちっと音がして、指が口の中から飛び出すと、だいちゃんは両手を箱に伸ばした。

 「これ、だいちゃんの?」

 「そうよ!」


 リスさんは、今日のために、だいちゃんの仕事着を特別注文していた。リスさんの学生時代の友人にである。

 リスさんは、家政短大の調理科を卒業しているのであるが、被服科に仲の良い友人がいたそうなのだ。今は、結婚して別の街で暮らしているため、めったに会うことはないというが、彼女は、ネットでハンドメイドのお店を運営しているという。

 出来上がってきた小さな仕事着と帽子は、あまりにも可愛かった。

 リスさんは、それを大事に畳んで、水色の箱に入れた。


 私は、お母さんに言った。

 「だいちゃん、可愛すぎますね!」

 お母さんは、ほのぼのとにこやかに答えた。

 「ほんとに可愛いです!……でも……」

 私は、聞き返した。

 「でも?」

 「うちは男の子三人兄弟で、だいちゃんにはお兄ちゃんが二人いるんですけど……」

 それは、可愛さ三倍というものである。リスさんと私は、わくわくしながらお母さんを見つめた。

 可愛いエピソードが満載に違いない。

 「子どもが10人くらいいるかと思いますね、毎日」

 えっ。

 思わず私は声に出していた。

 「そんなにですか?!」

 それは……たいへんである。

 リスさんも目を丸くしてこちらを見上げている。

 私は、一瞬息を飲んで現場を想像してしまった。

 

 「ご、ご主人は……」

 「ご主人?」

 ほんの僅かに、お母さんの片方の眉が上がった。

 「『主人』と書いて、『生んだ覚えのない子』と読む!10人のうち5人は夫ですね」

 お母さんは私の目を見てそう断言すると、はっ、と我に返ったように再びほのぼのとした空気を(まと)った。

 私は、とても大事な、深い哲学を学んだ気がしたのだった。

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