願わくは、夏の夜の夢 ⑤
『おいっ』
『大丈夫か』
微かに声が聞こえるが、ぼくを呼んでいるのか分からない。
誰も、ぼくを呼ばない。
ぼくは、安井だ、と言おうとして、腐った水を大量に戻した。
蛇口になったかに、黴や、名前のない粘着質のものや、生き物の腐臭をぐちゃぐちゃにしたものを、ひたすら吐き戻した。鼻孔からも吐瀉物があふれ出して、痛みに眼がチカチカと点滅を覚えた。
くぐもった声が、耳元で聞こえた。
『ミノだ。君の名前は言えない。分かるな?』
ぼくは、頷こうと、何度も首を動かした。だが、ちゃんと頷いたのか自信が持てない。頭が、激しく痛い。
意味もなく、体が震えて、歯の根が合わない。
それを誰かが抱き留めてくれた。
闇の中に、うっすらと灰色の砂みたいな光景が浮かび上がってきた。
狭い視界の中に、ぼくを覗き込む仲間の顔が荒く迫った。
ミノがずぶ濡れで、取巻く悪臭がミノから出ているのか自分から出ていいるのか、ぐらぐらする頭で考えた。
『立てるか?ここを、早く出ないと』
サクが、ぼくを抱えて立ち上がらせた。
『重い……』
『しゃべるな』
『灯りだけみてるんだ』
ペンライトを持った友達が闇をまさぐりながら前進した。
ぼくらは、階段を降り、姿の見えなくなったミノが、たぶんしんがりにいた。
『しっかりしろ』
ぼくは、がくがく頷いた。
それから、水槽の迷路をどう歩いたのかは覚えていない。
仲間が、ぼくを抱えて、ぼくはただ歩かされるように足を前へ前へと出した。
一階の出口が見えてから、ぼくらはまっしぐらに駆け出した。
狂ったように、外へ。
外へ。
出口の、目に見えない喫水線を越え、呆然と立ち止まった。
水族館は、ぼくらを放逐した。
そんな、意識のないものに思惟があった気がした。
そうして、水の流れる階段を降りきったとき、ぼくらははじめて助かったんだと安堵した。
ぼくらは、濡れ鼠になって、嫌な臭いを漂わせながら、遊園地を歩いた。
遊園地は、灯りもなく、乗り物が動く音しかしない。
散在する他の参加者に見とがめられられた気もしたが、そんなことどうでもよかった。
自分たちが無事なことが、何にも増して大事だった。
ぼくらの誰もが、最短の道を覚えていて、遊具を横切るように出口へ向かった。
そうやって、やっとのことで遊園地を出て、駐車されていた車に乗り込んだ。
友達がすかさずエンジンを掛け、いつでも発車できる準備を整えた。
だが、少しの間、ぼくらは駐車場にいた。
すぐに運転できる自信がないほど、ぼくらはまだ立ち直ってはいなかった。
駐車場の街灯に照らされて、ぼくはひたすら震え、全員蒼白で、ミノは一人で呟いていた。
「奴らが、手を出してきた」
ミノは、前方を睨んでいた。
「もう、ここへは、二度と来ないよ」
一人がそう言った。
ミノは、首を横に振った。
「俺は、ずっと奴らから離れられない。いや。今日は、…………たまたまだったんだ」
ミノは、耐えきれない混乱を抱え、切れ切れに呟いた。
「ダメだ。もう。………いや。大丈夫だ、……奴らは、何にも望んでなんかいない。何もかもがかけ離れたところにある……そうだ、決まってる。今日だって、何とか逃げられたんだ……」
背中を丸め、爪をたてた両手を握りしめていた。
サクが、ミノの背を抱えた。
「奴らって…………」
その先の、得体の知れない世界を、ぼくらは言葉にできなかった。
ぼくらは、そうして、真夜中の遊園地を後にした。
一緒に、遊園地に入った人間のことは、分からない。
けど、ぼくは、今でもミノが命がけで助けてくれたことを忘れていない。
ぼくが今、こうして語ってるのは、ミノにまつわる、ぼくたちが経験したことのすべてだ…………」
床屋さんの安井さんは、ほうっ、と長い息を吐いた。それから、ふと我に返り、いつもの小さな声に戻って吐露した。
「ぼくたちは、ミノには言えない経験もした。ミノは責任を感じてしまうから、黙っていて、それでよかった。色んなことがあった…………そして、まだ何も終わっていない……」
リスさんが、熱いコーヒーを注いだカップを運んで来た。
世界が、急に眩しく思えて、私は庭に向けた目を細めた。
ベッカライウグイスは、いつもの穏やかな時間を取り戻していく。
リスさんは、木のトレイを、たいちゃんと安井さんの間に置くと、みんなにカップを配った。
「ありがとう」
床屋さんの安井さんは、受け取ったカップのぬくもりを大事そうに手のひらで包むと、口元へ持って行った。
「あ、ありがとうございます」
たいちゃんが、自分のカップの中身に気がついた。
「……お茶」
リスさんが、微笑んだ。
全員の手元に、温かな湯気の出るカップがあり、ベッカライウグイスはコーヒーの香りとパンの香りに満たされている。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
遅い昼食なのだろうか、スーツ姿のお客さんが、ハードロールとサンドイッチを選んで、すぐにお店を後にする。
コーヒーを飲み干すと、安井さんは壁の時計を見上げて、席を立った。
午後のお客さんがくる時間なのだろう。
私も立ち上がって、椅子を元の場所に片付けた。
レジにはリスさんが立って、安井さんの会計をしていた。
それが終わると、安井さんは、みっちゃんの方を見て、
「待ってるね」
と小さな声で言うと、お店の扉を開け、真夏へと差し掛かるの日差しの中へ帰っていった。
床屋さんの安井さんがいなくなると、たいちゃんが、仕事に戻った私を振り返って言った。
「…………今の人、誰ですか?」
ずっと黙っていたので、たいちゃんの声は掠れてしまっている。
去年の夏、私が味わった気持ちを、今まさしくたいちゃんも味わっているのだろう。私は、できるだけさり気なく伝えた。
「ここに来る途中に、床屋さんがあるでしょう?」
思い当たって、たいちゃんは頷いた。
「そこの床屋さんの、安井さんっていう方です。夏になるとあちこちで呼ばれてお話をするらしいですよ」
たいちゃんは、真剣に寄せた眉根を開くと、安心したように息を吐いた。
「あ、ああ。そういうことなんですね」
みっちゃんが、すかさず呟く。
「全部、自分の体験談なんだけどね」
たいちゃんは、まるで現に現われたゲテモノを見るような眼差しをして、みっちゃんを見た。
みっちゃんを見ながら、たいちゃんは、何か言いたげにほんの少し、唇を開いたが、何も言わずに再び唇を結んだ。
私は、たいちゃんの気持ちを明るく盛り立てるように言った。
「たいちゃん、もうすぐ夏休みね!一日パン屋さんに来てくれるんでしょう?」
たいちゃんの表情が、機敏に変わった。大きな目をさらに大きくして答えた。
「はいっ!修行に来ます!」
「修行なの?」
リスさんもやってきて笑った。
たいちゃんは、深く頷いた。
「修行です。あの、今、予定を入れてもらってもいいですか?」
「もちろん、いいわよ。カレンダー見る?」
りすさんが、レジ奥にあるカレンダーのところへたいちゃんを誘おうとしたが、さすが、たいちゃんはすぐにスマートフォンのスケジュールを出して、私たちに見せた。
「うーん」
たいちゃんがうなるので、リスさんと私は目を合わせた。
「夏休みが忙しかったら、うちはいつでもいいわよ?」
「うーん。もう予備校とか講習が入ってて……日曜だと空いてるんですけど、日曜でもいいですか?」
「ええ。うちはいつでも大丈夫よ。たいちゃんの都合のいいときにしてね」
たいちゃんは、何か気に掛かっていることがあるような表情を浮かべていたが、すぐに元気よく返事をした。
「はい!ありがとうございます。お店のホームページにメールしてもいいですか?」
「ええ。待ってるわね」
お店のアドレスを利用する人が増えた。
たいちゃんは、帰り支度をすると、お店の扉を引き、夏の只中へ飛び出して行った。
リスさんと私は、なんとなく外の空気が吸いたくなって、一緒に出て、たいちゃんを見送った。
たいちゃんは、元気にこちらへ手を振ると、地下鉄の駅へ向かって、目映い照り返しの中を足早に過ぎていった。
駐車場に立っていると、小舗石から熱が伝わってきた。
お店の中は、やはり涼しいのだろう。冷えた体が温まるのを感じる。
リスさんは、お店へ入り、私は庭へ回った。
午後のパンが焼き上がるまで、まだ少し時間があった。
私は、庭へ出ると、ホースを持って水栓をひねり、熱の籠もる芝生に水を撒いた。
黄緑色の芝生が、水滴を鏤めて光る。
ニチニチソウの花が、水を浴びて揺れる。
今朝のことを、まるで一夜の夢のように思い出しながら、リスさんと一緒に座ったベンチの上のパーゴラにも水を振り撒く。
ベンチは濡れるが、すぐに乾くだろう。
ホースからシャワーのように水を注ぎ掛けながら、前から疑問に思っていたことを反芻する。
安井さんは、どうして床屋さんになったのだろう。
大学で勉強していたはずなのに、安井さんは、理容師の道を選んだ。それは、理容学校へ入り直したということだ。
なぜ?
温かった水が、冷たくなってきたのが分かる。
目に見えない水滴の混じる空気が、暑い対流を遮って、ひんやりと庭を取巻く。
確か、天文学を学んでいた友人もいたはずだった。その人は、何をしているのだろう。
ミノさん……サクさん………他の仲間の人たちは、今、どうしているのだろう……。
ゴーヤの葉が、重なり合いながら螺旋になって登る、床屋さんの窓を私は思った。その窓の奥で、一連の仕事を独りでこなす安井さんとともに。
太陽は、高い空の真ん中から傾き、夏の庭は光に呑まれた。色の表層だけを包んだ残像が、明るく、私の瞼にいつまでも残った。




