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願わくは、夏の夜の夢 ④

 『あっ』

 とぷん


 仲間が転んだ拍子に、ライトが水槽へ落ちた。

 光源が弱く消えたゆくえに、

 

 ヒヒヒヒヒッ


 引き攣った声が、木霊こだました。


 ヒヒヒヒッ


 木霊は、昏い水槽の底から泡のように湧き出て、辺り一面に響きだした。 


 ぼくらは、恐怖に支配され、自分の胸を両手で抱えた。そのまま(うずくま)りかけた。

 身動きできなかった。

 あらゆる毛が逆立った。

 戻りたい。

 強烈な希望が湧き出す。が、迫り来る脅威に刃向かう術もない。


 目の前にいた仲間の一人が、突然、のしかかる何かに(あらが)い、ぐっと腕に力を込めた。

 水槽一面に、天井から差し込む弱い月明かりが反射して、ぼくには、動く筋肉が見えた。

 彼は、満身の力で腕を操り、指を動かしながら、ポケットに手を入れた。

 

 動ける。

 彼を見たぼくは、そう思った。

 まだ、動ける。

 ぼくたちは、思った。

 

 ピエロが、骨を摺り合わせるみたいに歪曲した関節をつなぎ合わせながら迫ってくる。


 

 肩で息をしながらポケットから手を出した仲間が、急いで何かをカチカチ鳴らした。

 

 光が、灯った。

 ペンライトの明かりだ。

 それは、二本あった。

 『お前……』

 『持ってたんだ』

 そして、まるでこんな時のためにと準備したかのようなライトを、自分ではなく、別の奴に持たせた。

 『絶対に、落とさないでくれ。頼む』

 そう言って、強く握らせた。

 

 ヒヒヒヒヒッ

 

 ピエロが、大きな靴を踏み鳴らし、やってきた。


 ぶかぶかの衣装が、風もないのに靡いてよじれ、体の真ん中にある風穴を抜いた。 

 その脚も、腕も、ひしゃげて捻れているのに、普通に動かそうと躍起になって近づいてくる。

 無理な反動に皺寄った衣装が、その体の形を露わに見せた。

 不定型な(こぶ)が、数珠繋ぎに見える。


 それは、明らかに、遊園地でぼくらを迎えたピエロではなかった。


 僕たちは、瞼をこじ開けられたように、凝視した。

 ピエロを照らすライトが、戦慄わななくのを誰も止められない。


 ピエロは、深紅に塗られた唇を、顔の半分以上の大きさに開いた。

 歪んだ笑いが、震えるぼくらを侮蔑した。

 紫色に塗り込められた瞼が、引き攣れて歪む。


 近づきながら、ピエロがぼくたちに言った。


 『案内人だと思った?』

 ヒヒヒヒヒッ

 器官が、鱗のように毛羽立っているのが分かる。息が引っかかる。濡れて引きつった声でピエロは笑った。

 おかしくて仕方がないんだ、ぼくたちが。


 『きみたち、ほんとに来ちゃうんだね。有名だよ?この界隈ではさ』

 

 ぼくらは、体が縮んだかのように、隙間なく寄り集まった。隣にくっついた人間の振戦が伝わってくる。体中が粟立ち、冷たい汗に濡れていた。喉が、首が、締め付けられるくらいに、脳髄まで震え上がっていた。

 

 クククククッ

 ピエロの口腔に溜まった唾液が、その喉に落ちていく…………その先が、あるというのか?

 汚れた衣装の、無数のひだに包まれた体を、ピエロはぎこちなく折り曲げた。


 『ここには、人生なんてない。きみたちとオレらは違う。

 意味がないことすら、意味がない。

 隔たりも、ない。

 ヒヒヒヒヒッ

 アッハハハッ』


 陰湿だった笑いが、突然開放的に放たれ、天井を覆った。


 その瞬間、ピエロはぼくらに手を伸ばした。

 ライトを持たない一人をぐいっと掴んで引き寄せると、狡猾に眼を細めた。

 

 『ミノ!』

 ぼくは、掴まった仲間の名前を叫んだ。


 ピエロの、踵を返そうとする大靴が、パタリと止った。


 『ミ……ノ……?』


 ピエロは、大きく開いた口の中で、硬直しかかった舌を動かした。

 それは、急激に乾いた音に変わった。

 ミノは、その隙にピエロの腕を振り払って飛び退いた。

 ぼくらの方へ。


 ミノは、早口に言いながら、ぼくらの腕を掴んで、出口へ向かった。


 『奴らは、ひるまない!狙いを定めてる!』

 

 ぼくらは、一塊になっていた互いを分解すると、ぎこちなく走り出した。

 走りながら、もう一度互いを手繰り寄せていた。

 『安っ!』

 『サク!』

 『だめだ!呼ぶな!』

 足が、靴の中で滑る。


 何かの手に捕まれたと思った。

 次の瞬間、ぼくは、大きな水槽に突き落とされてた――。



 体が、水面に叩きつけられた。

 汚水の中で、ぼくは暴れた。

 『安っ!』

 『やすっ!!』

 『こっちだ!こっちに来い!!』

 


 いくら藻掻こうと、嫌な水は、寒天のようにぼくに(まと)わり付いた。

 ぼくは、手を伸ばした。

 仲間の方へ。

 『やすっ!やすーっ!!』

 ぼくを呼ぶ叫びが、聞こえた。


 そして、力尽きた――。

  

 


 ―――― ぼくらは、大学で出会ったその友達のことを『ミノ』って呼んでいた。

 だが、そいつはそんな名字ではなかったし、たとえばミノル、っていう名前でもなかった。

 ただ、ぼくらは、「ミノって呼んで欲しい」と言われて、ずっとそう呼んできただけだった。その意味を、はじめてミノが僕らに打ち明けたのは、ぼくらの周りで不思議なことが起こり始めてからだった。


 「別に、俺の親がそうだったとか、先祖がそうだったとか、そんなんじゃない。俺、一人だけ。

 いつもそうだった。


 小学生の頃、放課後、校庭で遊んでいたんだ。俺だけ、日が暮れるまでずっと一人で遊んでいて、職員室から先生が出てきて心配してくれた。知らない先生だった。他の学年の先生だと思った。

 

 先生は、『もう、暗くなるから家に帰らなくちゃいけない』って俺に言ったんだ。

 でも、俺は一人で遊んでたわけじゃなかった。学校は違うけれど、同じくらい年の、その時間によく校庭で会う子と一緒に遊んでた。

 だから俺は、先生に言った『どうして、その子には言わないの?』

 理不尽だと思ったんだ。俺だけ注意されるのはよくないって。ところが、先生はこう言った。

 

 『君は、これから()()って友達から呼んでもらうといいよ』


 俺は、何のことか分からないって顔をしていたんだと思う。先生に自分の名前を名乗ろうとしたんだ。

 けど先生はそうさせなかった。俺に口を開かせまいとして、急いで言った。  

 『ミノっていうのは、ほら、かさじぞうって知ってるだろう?雪の中で、笠と蓑を被せてもらったお地蔵さん。そのミノのことだよ。蓑はね、君を守ってくれる名前になる。色んな苦しいことから君を包んで、守ってくれる名前なんだ。だからね、今、これから、お友達にはそう呼んでもらうんだよ』

 

 先生の話を聞いてると、それはとてもいいことに思えてきて、俺は横に立ってた友達に、言ったんだ。

 『オレのことは、これからミノって呼んでね』


 そう言った途端、その子がふっと見えなくなった。

 薄い煙みたいに、サッっと辺りの空気に溶けたんだ。俺は驚いた。

 けれど、俺に『ミノ』と名乗れと言った先生は、驚かなかった。


 『先生、職員室からふと外を見て、分かったんだ。子どもたちが二人、追いかけっこをして楽しそうに遊んでる。君と、さっきの子だよ。もう夕暮れで、一日の中で一番長く影が伸びる時間だろう?君の影は、長く伸びて、グラウンドの土の上を君と一緒に駆け回っていた。けれど、もう一人の子に、影はなかった。

 いいかい、それは、とても悲しいことだから、君が悲しいことに巻き込まれないように、これからは『ミノ』って呼んで貰うんだ。ご両親や家族は、いつも通り本当の名前を呼んで貰って構わないからね。家族以外の人は、君を守れない。その代わりに、蓑が君を守ってくれる。いいね?先生と約束だ』


 俺は、先生と約束をした。それから、俺は人の影を見るようになった。友達にも必ず『ミノ』って呼んで貰ってる。俺が生きてこられたのは、先生に『蓑』っていう名前を貰ったからだと思ってる…………」




 ―――― 黒い寒天みたいな、嫌な臭いの水に沈みながら、ずっと前にミノが話していたことが、頭の中を流れて、どうしようもない混乱を綺麗にしてくれた。

 一瞬が、永遠だ。

 それから、親のことを考えた。

 無性に会いたくなって、泣きながら、沈んでいった。

 

 光なんて、一粒もないんだ。

 眼を塞がれた真っ暗な中で、異臭と何かの音だけに感覚のすべてを捧げた。

 

 魚の臭いの充満する水が、体にまとわりついて、喉を塞ぐ。

 生き物の腐った臭いが、重たいゼリーのようで、ぼくは、四肢でかき混ぜた。確かに緩やかな粘度があるのに、掴めない。何も、掴めない。

 何かを摺り合わせる嫌な音が、ぼくを消していくんだ。

 鈍重な影が、ぼくにぶつかって、吸い付いて、皮膚を囓り取る。



 『おいっ!掴まれ!掴まれ!掴まれ――!!』

 最後に残った、なけなしの聴覚が、声を聞いた。

 ミノ、なのか?

 真っ黒い世界に、ぼやけた光の玉が見えた………。

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