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魔女のバインダー  作者: 水色蛍
限界事務員、選びなおす勇気編
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第98話:臨時開業

 仮事務所であるボルクさんのパン屋の二階には、今日も穏やかな時間が流れていた。


 開け放たれた窓からは初夏の心地よい風が吹き込み、階下から上がってくる焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いと混ざり合っている。


 私はデスクに向かい、羊皮紙にカリカリと羽ペンを走らせていた。

 隣ではフィナさんがすり鉢で薬草を丁寧にすり潰し、リナさんは真剣な表情で長剣の刃を油布で拭き上げている。


(ふぅ……今日も平和ですね。これが理想のオフィス環境というものです)


 私がインク瓶にペンを浸し、ふと息を吐き出したその時だった。


 ドドドドドッ!

 階下から外階段を駆け上がってくる、地響きのような荒々しい足音が響いた。


「アオイ! 頼む、なんでも屋として依頼を受けてくれ! 手が完全に足りねえんだ!」


 勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、粉まみれの白いエプロンをつけたパン屋の店主、大柄なボルクさんだった。


 彼は滝のような汗を流し、息をゼェゼェと切らしている。


「ボルクさん!? どうしたんですか、そんなに慌てて」


「ギルドで急遽、大規模な魔物討伐イベントが入ってな! 冒険者たちの携帯食として、いつもの三倍の量のパンの注文が入っちまったんだ! しかも、今はちょうどお昼時で、いつもの常連客まで店頭に殺到してて……もう、完全にパンク状態だ!」


 いつもの三倍の大口発注に、昼のピークタイムが重なった。ビジネス用語で言えば、完全な『キャパシティ・オーバー(許容量超過)』である。


「もちろんです!! いつも場所を貸していただいてお世話になっているんです、きっちりお返ししますよ!」


 私はペンを置き、バインダーを手に取って力強く立ち上がった。


「リナさん、フィナさん! アリフィ商会の緊急ミッションです! 階下へ向かいますよ!」

「了解!」

「はいっ!」


 私たちは階段を駆け下り、ボルクさんのパン屋の一階店舗へと急行した。


 *


 一階の店舗に足を踏み入れると、そこはまさに戦場だった。


 オーブンの熱気がむわっと頬を打ち、バターと小麦の焼ける強烈な匂いが充満している。そして店頭には、腹を空かせた冒険者や町の人々が、店の外までズラリと長い列を作っていた。


「いらっしゃい! はい、チーズパン三つだな! ええと、ちょっと待ってくれ、今オーブンから出すから……熱っ! ああ、代金はそこに置いといてくれ!」


 ボルクさんは真っ赤な顔をして、奥の厨房でパンを焼き、それを重い鉄板ごと店頭へ運び、さらにお客さんの注文を聞いてお釣りを計算するという、一人三役をこなしてパニックに陥っていた。


(いけません。これは典型的な『ボトルネック(業務の停滞箇所)』です)


 私は即座に状況を分析し、パン屋の動線の真ん中に立ってパンパンッと手を叩いた。


「ボルクさん! 製造部門と販売部門の兼任は、繁忙期において最も効率を落とす悪手です! ボルクさんは厨房(バックオフィス)でのパン焼きに完全専念してください! 店頭(フロントオフィス)の販売オペレーションは、我々アリフィ商会が丸ごと請け負います!」


「あ、アオイ! しかし、お前らだけで店が回せるのか!?」


「お任せください。アリフィ商会は、適材適所のプロフェッショナルですから!」


 私はバインダーを開き、即座にタスクの振り分け(アサイン)を行った。


「リナさんは『物流・補充担当』です! 持ち前の体力と俊敏さを活かして、ボルクさんが焼き上げたパンの鉄板を、厨房から店頭の棚へ次々と補充してください!」


「任せて! 重い鉄板でも、私の筋力なら熱さを感じる前に運べるよ!」


 リナさんが腕まくりをし、厨房へ滑り込んでいく。


「フィナさんは『接客・袋詰め担当』! 治癒士特有の優しく丁寧な手つきで、柔らかいパンを絶対に潰さないように袋へ入れてください。そして、持ち前の笑顔でお客さんを癒やす『カスタマー・サクセス』をお願いします!」


「はいっ! 美味しいパン、丁寧に包みますね!」


 フィナさんがエプロンをきゅっと結び直し、店頭のカウンターに立つ。


「そして私は……『レジ・会計担当』です!」


 私はカウンターの最もお客さんと対面する位置に立ち、バインダーに挟んだ計算用紙を準備した。


「さあ皆さん! アリフィ・ベーカリー、臨時開店です! 列のお客様、お待たせいたしました、次の方どうぞ!」


 私の声を合図に、完璧な分業体制(オペレーション)が稼働し始めた。


「親方! 次のクロワッサン焼けた!? はい、店頭に持っていくね!」


 リナさんがオーブンから出たばかりの熱々の鉄板をヒョイと持ち上げ、瞬く間に店頭の空いた棚へ滑り込ませる。彼女の素早い物流によって、店頭に『品切れ』の札が立つことは一切なくなった。


「いらっしゃいませ! くるみパンがお二つと、ソーセージのパンがお一つですね。焼きたてでとても柔らかいので、一番上に乗せておきますね」


 フィナさんが、聖母のような優しい微笑みを浮かべながら、魔法薬を扱う時のような繊細な手つきでパンを紙袋に詰めていく。


 苛立っていた冒険者たちも、フィナさんの癒やしの笑顔を前にすると「お、おう。ありがとうよ、嬢ちゃん」と、途端に頬を緩ませてデレデレになっていた。


 そして、フィナさんが袋を渡すと同時に、私の出番である。


 前世、限界事務員として毎月の給与計算と経費精算を一人で回していた私の『暗算速度』を舐めてはいけない。(エクセル様様なのは内緒ね)


「合計で銅貨八枚になります! はい、銀貨一枚お預かりですね。お釣りは銅貨二枚です。ありがとうございました、次の方どうぞ!」


「チーズパン五つと、ミルクパン三つですね! 銀貨一枚と銅貨二枚でぴったりお預かりいたします。ありがとうございました!」


 商品を見た瞬間に合計金額を弾き出し、お客さんが財布を開く前にお釣りの硬貨を指の間にスタンバイしておく。


 一切の淀みもない、光の速さのレジ打ち。

 それはもはや、一つの芸術(アート)の域に達していた。


「す、すげえ……列がどんどん進んでいくぞ……」


 厨房でパンをこねていたボルクさんが、目を丸くして感嘆の声を漏らす。


 そう。業務の停滞(ボトルネック)さえ解消してしまえば、あとはそれぞれの得意分野が流れるように噛み合っていく。


(……素晴らしいです)


 私は次々とお釣りを渡しながら、不思議なほどの多幸感に包まれていた。


 今日の私には、スキル『反復拒否』のサイレンが鳴る気配は一切ない。


 それはつまり、私が誰かに無理をさせたり、過重労働を強いたり、ブラック企業的な間違った選択をしていないという絶対の証明だった。


 お客さんからの「ありがとう」「いい匂いだね」「助かったよ」という真っ直ぐな感謝の声。


 背後から聞こえるリナさんの元気な足音と、隣に立つフィナさんの優しい声。


 理不尽なクレームも、誰かに責任を押し付けるようなドロドロした政治もない。ただ純粋に、美味しいものを求めている人に対して、私たちが最速で価値を提供する。


 これこそが、商売の美しい基本形なのだ。


 私は心地よい疲労感と共に、満面の笑顔で次のお客様へと声を掛け続けた。


 *


「――はい! これで大口のギルド発注分も、すべて引き渡し完了です!」


 一時間後。

 怒涛のピークタイムが過ぎ去り、店頭に山積みになっていたパンは見事に完売した。


 最後に残っていたギルドの職員へ巨大な麻袋を渡し終え、私はバインダーを閉じて大きく息を吐き出した。


「お前ら、本当にすげえな! あんなにいた行列が一度も止まらなかったし、何より、俺がパンを焼くことだけに集中できたのが一番助かった!」


 厨房から出てきたボルクさんが、感極まった様子で私たちの肩をバンバンと叩いた。


「これ、今回の臨時依頼の報酬だ。受け取ってくれ」


 ボルクさんがずっしりと重い銅貨の袋を差し出してきたが、私は首を横に振ってそれを押し返した。


「いえ、これは仮事務所を貸していただいた恩返しです。報酬は受け取れませんよ」


「しかし、それじゃあ俺の気が済まねえ! ……そうだ、なら、せめてこれだけでも食ってくれ!」


 ボルクさんがそう言って厨房から運んできたのは、私たちのために特別に焼き上げてくれた『特製フルーツ・デニッシュ』だった。


 何層にも重なったサクサクの生地に、カスタードクリームと、瑞々しいベリーがたっぷりと乗っている。まるで宝石のようにキラキラと輝いていた。


「わぁっ! すっごく美味しそう!」

「いい匂い……!」


 リナさんとフィナさんが目を輝かせる。

 足元では、いつの間にか二階から降りてきていたギルさんが、尻尾を振ってパン屑を要求していた。


「ギルさんも食べます??」


「あぁ、普段酒とタバコばかりで飽きたところだ。パンとやらを食ってみようじゃねえか」


「遠慮なくいただきますね。……んんっ! サクサクで、甘くて酸っぱくて……最高です!」


 三人+一匹で、店の前のベンチに座ってデニッシュを頬張る。


「ほう、なかなかいけるな。」


 バターの豊かな香りと、果実の甘い果汁が、働き切った身体に優しく染み渡っていく。


 自分たちの仕事が、目の前の誰かの笑顔に直結しているという純粋な喜び。


(スキルが発動しない、ただの平和な多幸感……。たまには、こういう日があるのも悪くないですね)


 初夏の柔らかい日差しと、美味しいパンの匂いに包まれながら、限界事務員と仲間たちの温かな午後は、ゆっくりと過ぎていくのだった。

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