第97話:絶対に見ないし触れない変態
パン屋のボルクさんの二階にある仮事務所での業務は、思いのほか順調に進んでいた。
窓から吹き込む風は少しずつ熱を帯び始め、王都にも初夏の足音が近づいているのを感じる。
羊皮紙に走る羽ペンのカリカリという音と、階下から上がってくる香ばしい小麦とバターの匂いに包まれながら、私はバインダーのスケジュール表にチェックを入れた。
「……よし。皆さん、キリが良いので少し休憩しましょう」
私はペンを置き、リナさんとフィナさんに向かって微笑んだ。
「せっかくのお天気ですし、プロジェクトの『進捗管理(マイルストーン確認)』も兼ねて、改修工事の現場へ陣中見舞いに行きませんか?」
「賛成! ずっと座りっぱなしで少し体が鈍ってたんだ」
「はいっ。熱中症予防に、とっておきの冷たい飲み物を作ってありますよ!」
フィナさんが魔法の保冷バッグから取り出したのは、塩分と糖分を絶妙なバランスで配合した特製スポーツドリンク(ポーションブレンド茶)だ。
私たちは階下でボルクさんから塩気の効いたパンをたっぷり買い込み、絶賛改修工事中のアリフィ商会へと足を向けた。
*
「おおおっ! すっごい活気だね!」
現場に到着したリナさんが、目を丸くして感嘆の声を上げた。
ほんの数日見ない間に、私たちの事務所はすっかり壁や床材が剥がされ、太い柱と梁がむき出しの、本格的な工事現場へと変貌を遂げていた。
舞い上がる木屑の匂いと、ドゴォォン! バキィッ! という威勢のいい破壊音と組み立ての音が響き渡っている。
そして驚くべきは、そこで働く職人たちの数だった。
イリスさんとカグラさんの二人だけでなく、屈強な腕を持つドワーフの男性や、犬の獣人の青年、さらには風魔法で木材を運ぶエルフの女性など、色とりどりの(イロドリミドリな)職人たちが入り乱れて作業をしていたのだ。
「オーライ、そっちの基礎は任せたぞ! カグラ、上の梁に釘を頼む!」
「おうっ! 任せておけ親方!」
イリスさんのハスキーな声が響き、カグラさんが足場もない高い梁の上を、持ち前の身軽さでヒョイヒョイと駆け回って正確に釘を打ち込んでいく。
他の職人たちも、誰かの指示を待つことなく、それぞれが自分の判断でテキパキと持ち場をこなしていた。
(なるほど……イリスさんの人脈で集まった『一人親方』の仲間たちですか。全員が現場監督レベルの『なんでもできる職人』だからこそ、これほど驚異的なスピードで並列処理が進んでいるんですね)
私は彼らのプロフェッショナルな仕事ぶりに、深く感心した。
――しかし。
私の脳内に備わった『限界事務員センサー』が、ピピピッ! とけたたましい警告を鳴らした。
初夏の日差しが照りつける、風通しの悪い現場。飛び交う木屑。
そして何より、彼らは作業に夢中になるあまり、誰一人として水筒に口をつけていなかったのだ。
全員が滝のような汗を流し、息を荒くしている。
(いけません! 職人の皆さんは集中すると自分の限界を無視してしまう傾向があります!)
私はバインダーを小脇に抱え、大きく息を吸い込んだ。
「ストーーーップ!! 皆さん、今すぐハンマーを置いてください!!」
「うおっ!? なんだアオイ、急に大声出して」
驚いて振り返るイリスさんたちに向かって、私はビシッと指示棒(代わりのペン)を突きつけた。
「適切な水分補給と休憩は、労働安全衛生法で定められた絶対の義務です! 倒れてから治すのではなく、そもそも病気や怪我をしない環境づくりが最優先事項! はい、全員作業を中断して外の風に当たってください! 冷たいお茶と塩パンの差し入れですよ!」
私の強権発動により、職人たちは苦笑いしながらもゾロゾロと建物の外へ出てきた。
「ふぅ……わりぃアオイ。確かに少し熱がこもってたな」
そう言って、イリスさんが作業着の上半身を脱ぎ、腰で縛った。
あらわになったのは、薄いタンクトップ姿。
身長一七〇センチを優に超える長身に、重い木材を運ぶことで鍛え上げられたしなやかで無駄のない筋肉。
それでいて、普段の作業着姿からは想像もつかないほど、豊満で女性らしいカーブを描いている。
隣では、カグラさんもさらし姿になって汗を拭っている。
ピンと立った三角の耳と、猫獣人特有のしなやかな筋肉、そして上機嫌に揺れる長い尻尾。
(あら、汗かいた姿が色っぽい……。それに、やっぱりイリスさんてもうパーフェクトですよね。いっそ抱かれてもいいかな……じゃなあい!!)
私の内なる美少女愛好家(変態)の血が、突如として大暴走を始めた。
(私なんかこの世界で暮らすにつれ、変態が加速していませんか?? 確かに前世では、男性アイドルよりもかわいい女性アイドルを追っかけていたし、交際経験も少なかったとはいえ……。これは本性?? まさか本性ですか??)
私は手にした冷たいおしぼりを握りしめ、あわよくば職人さんたちを労うという大義名分のもと、その汗を直接拭って差し上げようと、だらしない顔で一歩を踏み出し――。
――ビシィィィィィッ!!!
私の背骨を、高圧電流のような衝撃が突き抜けた。
スキル『反復拒否』の強制起動だ。
(くっっ!? ち、ちくしょ~~っっ)
私の体は自らの意思を完全に無視して動き、持っていたバインダーをまるで銀のトレイのように恭しく胸の前に捧げ持った。
背筋は定規を入れたようにピンと伸び、両足は綺麗に揃えられる。
そして、首はピクリとも動かず、視線を斜め四十五度の虚空へと完全に固定する。
それはまるで、高級ホテルのコンシェルジュがVIP客に対して行うような、徹底的な『不可侵(絶対に見ないし触れない)』のポーズだった。
「ア、アオイ? なんだそのカッチカチのホテルの給仕みたいな格好は」
「すっげえ遠くの空を見てるぞ……?」
……キャンセルできない。
スキルの拘束が強固すぎて、目玉一つ動かすことすら許されない。
(いやあああっ! つくづく同性でよかった! もし私が男性だったら、きっと今頃王城の牢の中ですよね!? 気を付けないとマジで!!)
私は虚空を見つめたまま、内心で血の涙を流しながら激しく猛省した。
スキルの意図は明確だ。「同意のないボディタッチや過度な露出への熱視線は、立派な職場内セクハラ(コンプライアンス違反)である。仕事に集中せい」という、私への強烈な戒めなのだ。
(わ、わかりました! 邪な心は捨てます! 私は清廉潔白なプロジェクトマネージャーです!!)
心の中で深く懺悔を繰り返すと、ようやくフッ……と体の拘束が解けた。
「……こ、こほんっ! 失礼しました。あまりに皆さんの仕事ぶりが美しかったので、最上級の敬意を表すポーズを取ってしまいました」
私は真っ赤になった顔を誤魔化しながら、そそくさとフィナさんの用意したお茶を配って回った。
「はぁーっ、冷たくて美味しいぞ!」
カグラさんがコップを一気飲みし、幸せそうに尻尾をパタパタと振る。
「ふぅ、生き返るぜ。塩パンも身体に染み渡るな」
イリスさんも大きく息を吐き、ドワーフやエルフの職人たちも「こりゃあいい」と笑顔で休憩を取ってくれた。
「イリスさん、進捗はいかがですか?」
「ああ、順調そのものだ。今日と明日で基礎の補強は完全に終わる。そこからは早いぞ。お前さんが度肝を抜くような、最高の城にしてやるから待ってな」
イリスさんが図面を指さし、頼もしくニカッと笑う。
「はい。楽しみにしています」
私はバインダーを胸に抱き、生まれ変わっていく自分たちの事務所を見上げた。
自分の決断と投資が、確かな形になっていく喜び。そして、一緒に働く頼もしいパートナーたちへの深い感謝。
時折暴走する自らの本性(煩悩)に冷や汗をかきつつも、限界事務員の新たな城への期待は、初夏の青空のようにどこまでも高く膨らんでいくのだった。




