第96話:ここは天国でした
カリカリ、と。
狭い室内に、ペンが羊皮紙を走る音だけが規則正しく響いている。
パン屋のボルクさんの二階、仮事務所としての営業が始まって数日が経った。
これまでの事務所であれば、朝から「ばん!!」と勢いよく扉が開いて「アオイさーん! 依頼だべ!」と誰かが飛び込んできたり、魔導具の喋るポストこと『ポス郎 』がガタガタと震えながら「オテガミ、イッパイデスヨー!」と騒ぎ立てたりしていた。
けれど、ここは看板も出していない隠れ家的な場所。
訪れる者もなく、ただ階下からオーブンでパンが焼ける香ばしい匂いが漂ってくるだけの、異様なまでの「静寂」に包まれていた。
(……はかどる。驚くほどに、仕事がはかどります……っ!)
私はバインダーをめくり、これまで忙しくて後回しにしていた過去の経理書類や、備品の棚卸表、取引先の名簿整理といった「未処理タスク」を猛烈なスピードで片付けていた。
前世の限界事務員時代、これほどまでに電話も来客も入らない「集中タイム」をどれほど渇望したことか。
「アオイさん、これ見てください。この『毒消し薬』の瓶、蓋をギザギザの形にしてみたんです。これなら、真っ暗な洞窟の中でも触るだけで『あ、これは毒消しだ』って分かりますよね?」
斜め向かいの席で、フィナさんが試作の薬瓶を嬉しそうに見せてくれる。
「素晴らしいですフィナさん! まさにユニバーサルデザインの極致ですね。あなたは間違いなく、アリフィ商会のCFO兼、開発責任者の器ですよ!」
「えへへ、ありがとうございます」
フィナさんは書類仕事の合間に、自発的に新商品の開発を進めていた。
正面では、リナさんが「ふむ……」と眉間にシワを寄せながら、カイト君たちが作成した最新の街道安全報告書に目を通している。
本来は体を動かす方が得意な彼女だが、今は私の指導の下、現場監督としての「デスクワーク能力」を着実に磨いていた。
(……ああ。これです。これこそが私の求めていた『ホワイトな労働環境』の完成形です)
しかし。
業務が順調に進めば進むほど、別の「問題」が私の精神を蝕み始めていた。
……そう、対面アイランド型レイアウトによる、圧倒的な「至近距離」という問題が。
ふとした拍子に、正面のリナさんが「んん~っ!」と大きく伸びをした。
その瞬間、彼女の健康的な体温と共に、石鹸のような爽やかな香りが、狭い空間ゆえに一切薄まることなくダイレクトに私の鼻腔を直撃する。
「ちょっと肩凝ったかも。ねえ、アオイ。ここ、ちょっと文字が小さくないかな?」
リナさんが机越しにグイッと身を乗り出してきた。顔が近い。彼女の凛々しい眉や、澄んだ瞳の彩度までが、恐ろしいほどの高解像度で私の網膜に焼き付く。
さらに斜め向かいでは、フィナさんが首筋の汗をハンカチでそっと拭っている。
そこからは、彼女がいつも調合しているハーブのような、甘く優しい花の香りがふわりと漂ってきた。
階下の焼きたてパンの匂い + リナさんの爽やかな香り + フィナさんの甘い香り。
これらが狭い部屋の中で完璧にブレンドされ、私の脳内報酬系を狂わせる。
(……私は問いかけました。『ここは天国か?』と。……今、ここで回答を出しましょう。……はい、ここは天国でした。福利厚生が過剰すぎて、業務の継続に支障が出るレベルの極楽浄土です!)
私はペンを握る手を震わせながら、内心で歓喜の叫びを上げていた。
前世のタコ部屋オフィスは絶望の象徴だったが、美少女お二人に囲まれたタコ部屋は、もはや国宝級のパワースポットだ。
(……いっそ、永遠にここで良くないですか? 改修工事、途中で止めてもらってもいいですよ? いや、もっと近くてもいいかも……。なんなら三人のデスクを一つにガッチャンコして、肩を寄せ合って作業を……。あ、でもそしたら私の心臓がオーバーヒートして爆発するかも。可愛い女の子って、ダイヤモンドより輝いてますねほんと……)
私の思考が、プロジェクトマネージャーとしてのモラルを軽々と飛び越え、美少女愛好家(変態)としての深淵へと沈み込もうとした――その時だった。
――ビシィィィィィッ!!!
突如として、私の背骨に雷が落ちたような衝撃が走った。
スキル『反復拒否』の強制起動だ。
(あがっ!?)
私の体は、自らの意思を無視して超高速で稼働した。
ペンを放り出し、両手で自分の顔を「これでもか!」という力で覆い隠す。
そして指の隙間からも一切の外界を遮断し、首を深々と下げて、まるで深い懺悔を行う罪人のような、完璧な『見ざる』のポーズでガッチリと固定されたのだ。
「ア、アオイさん!? 急にどうしたんですか、顔を真っ赤にして隠して!」
「アオイ!? どっか痛いの!? 立ちくらみ!?」
フィナさんとリナさんの心配そうな声がすぐ近くで聞こえる。
……見えない。
声が近すぎるのに、スキルの拘束が強固すぎて、指一本動かして隙間を作ることもできない。
(ぎ、ぎぃぃぃぃぃぃっ! 指示棒もストップウォッチもなしですか! 今度は『煩悩(コンプライアンス違反)』への直接介入ルート!? 確かに、業務時間中に社員を私的な欲望のフィルター越しに穴が開くほど見つめ、妄想を膨らませるのは、明白なセクハラ行為です! 重大なコンプライアンス違反です!! プロマネ失格、いや人間失格ですぅぅぅぅっ!!)
私は内心で血を吐くような叫びを上げ、あまりの恥ずかしさに全身から火を噴きそうになっていた。
スキルの警告は明確だ。このまま彼女たちの「解像度」を上げ続ければ、私の理性が限界突破し、アリフィ商会の秩序が崩壊するという未来を予見したのだ。
(わ、分かりました! わかりましたから! 邪な考えは捨てます! 私は清廉潔白な管理者です! だからこの『全否定ポーズ』を解いてください、陛下ぁぁぁっ!!)
心の中で、前世の裁判官にでも祈るような気持ちで深い反省と自己批判を繰り返した、その時。
ふっ、と体の拘束が解けた。
「……は、はぁ……はぁ……」
私はゆっくりと手を下ろし、机に両手をついて荒い息を整えた。
顔はまだ、熟しきったトマトのように真っ赤なままだが、どうにか理性の火消しには成功した。
「アオイ、大丈夫? 相当赤かったけど……」
リナさんが心配そうに、私の額に手を当てようとしてくる。
「ひっ! ……だ、大丈夫です! ちょっと、急激な『マインドフルネス(瞑想)』を行っていただけですから!」
私は反射的に椅子を引いて距離を取り、裏返った声で答えた。
「ま、マインドフルネス……? よく分かりませんが、無理は禁物ですよ」
フィナさんが首を傾げながら、温かいお茶を用意してくれた。
「……ええ。ありがとうございます。皆さん、少し集中力が途切れてきましたね。ここで一度、ティータイムを導入しましょう」
私は咳払いをして、なんとかいつもの「限界事務員の仮面」を貼り付け直した。
三つのデスクをくっつけた中央に、フィナさんが淹れてくれたカモミールティーのカップが並ぶ。
狭いからこそ、手を伸ばすだけでお互いのカップが触れ合う。
「乾杯」の音も、すぐそばで聞こえる。
これは、近すぎる距離を逆手に取った「ゼロ距離乾杯」だ。
「改修工事が終わるまでの、ほんのわずかな期間です。……この『天国』のような環境を、正しく享受しましょう」
「? よく分かんないけど、このパン美味しいね!」
「はい、ボルクさんの新作のナッツパン、紅茶に合います」
楽しげに笑い合う二人。
私はその光景を、今度は「健全な上司の視点」で、そっとバインダー越しに見守った。
狭いからこそ、視線を合わせるだけで意思疎通ができる。これは『阿吽の呼吸』という名の、究極のコミュニケーションコスト削減……。
(……そう自分に言い聞かせて、この期間限定の天国オフィスを堪能することにしましょう。鼻の下が伸びないように、全神経を集中させて……!)
パンの幸せな香りと、仲間たちの温もりに包まれた小さな部屋。
仮事務所での午後の時間は、多幸感と微かな(私の内なる)戦いと共に、静かに過ぎていくのだった。




