第95話:ここは天国か
「さあ皆さん! この引っ越しは、ただの荷物移動ではありません。不要なものを容赦なく切り捨てる、絶好の『5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』のチャンスです!」
イリスさんとカグラさんによる本格的な改修工事が始まる二日前。
私たちアリフィ商会は、丸一日をかけて『仮事務所への移転プロジェクト』を敢行していた。
私は袖をまくり上げ、いつの間にか溜まりに溜まった過去の書類や、インクの出なくなったペン、用途のわからないガラクタを次々とゴミ箱へシュレッダー(魔法でみじん切り)していく。
リナさんは愛用の長剣や砥石、革鎧のお手入れセットを丁寧な手つきで木箱に収め、フィナさんは割れやすいガラスの薬瓶や調合用の乳鉢を、間に藁を敷き詰めながら慎重にパッキングしていた。
足元では、ギルさんが自分の専用クッションを口にくわえて、早く新しい寝床を作れとばかりに尻尾をパタパタと振っている。
「ふぅ……よし、これでパッキング完了です! 荷馬車に積み込みましょう!」
すべての荷物を運び出し、すっかりガランとなった古い事務所に一礼をして、私たちは王都の街角を荷馬車でコトコトと移動した。
到着したのは、いつも香ばしい匂いを漂わせているパン屋、ボルクさんのお店だ。
その裏手にある外階段を上った先。
ボルクさんのご厚意で、建物の二階にある空き部屋を、工事が終わるまでの仮事務所として貸してもらえることになったのだ。
「おお、来たなアオイ! 荷物運び、手伝うぜ」
粉まみれの白いエプロンをつけた大柄なボルクさんが、太い腕で軽々と木箱を運んでくれる。
「ボルクさん、急なお願いだったのにありがとうございます。家賃はきちんとお支払いしますので」
「気にするな! あん時、うちのパン焼きゴーレムが暴走したのを助けてもらった恩があるからな。工事が終わるまで、好きに使ってくれ。ほら、これ引っ越し祝いだ」
ボルクさんがニカッと笑って渡してくれたのは、バスケットいっぱいに詰められた焼きたてのクロワッサンと、チーズの乗ったふかふかの丸パンだった。
二階の仮事務所に足を踏み入れると、一階の工房から上がってくるオーブンのじんわりとした温もりと、バターと小麦が熱されて焦げる、甘く暴力的なまでに幸せな匂いが充満していた。
なんて素晴らしい環境だろうか。
呼吸をするだけでお腹が空き、幸福度の上昇が約束されているスローライフ的物件だ。
……しかし。
「あの、アオイさん。荷物を全部入れたら、その……」
「身動きが、取れないね……」
リナさんとフィナさんが困った顔で部屋を見渡す。
そう、この部屋は以前の事務所の、おおよそ半分ほどの広さしかなかったのだ。
木箱を壁際に積み上げ、三つのデスクをどうにか押し込んだ結果、部屋は文字通りギチギチのすし詰め状態になってしまった。デスクとデスクの隙間はカニ歩きでなければ通れず、誰かが立ち上がるたびに椅子がぶつかりそうになる。
(こ、これは……前世の悪夢、人口密度の高すぎるタコ部屋オフィス……!)
私の脳内に、限界事務員時代に味わった息苦しい記憶がフラッシュバックした。
狭い空間では、パーソナルスペースが確保できず、他人のキーボードを叩く音や電話の声がノイズとなり、著しく生産性が低下するのだ。
(このままでは、皆さんの集中力が削がれてしまいます! ならば……そうだ!)
「リナさん、フィナさん! この狭い空間で生産性を落とさないための、完璧な解決策があります! デスクの間に高い木の板を立てて、互いの視界を完全に遮断しましょう! 私語を禁じ、前だけを向いて無心で作業をこなす『超集中・孤立ブース』の完成です! まるでディストピアのコールセンターですね、素晴らしい!」
私は効率化という名の狂気に憑りつかれ、荷物の中にあった大きめの木の板を引っ張り出し、リナさんのデスクの横に衝立として打ち付けようと――。
――ビクゥンッ!!!
その瞬間。
私の筋肉が意思を離れ、強烈なスパークを伴ってスキル『反復拒否』が強制起動した。
(がっ!?)
私の体は木の板を手放し、一瞬にして恐ろしく無機質なポーズへと固定された。
右手に架空のストップウォッチを握りしめ、左手で架空の指示棒をピシッと前に突き出す。
背筋は定規を入れたように直立し、目には一切の光を宿さない、冷徹無比なフロアマネージャーのポーズ。
「ア、アオイ……? どうしたの、いきなり蝋人形みたいに固まって……怖いんだけど」
「目が、絶対零度です……!」
リナさんとフィナさんが、ドン引きしながら壁際に後ずさる。
(ひぃぃぃっ!? な、何ですかこの人間味ゼロの監視者ポーズは!! まるで『あなたのトイレ離席時間は規定を三秒オーバーしました。減給です』とか言い出しそうな、血も涙もないブラック企業の管理職じゃないですかぁぁっ!!)
私は内心で絶叫し、冷や汗を滝のように流した。
スキルの意図は明確だ。物理的な壁で視界を遮ることは、心理的な壁をも生み出し、『ホウレンソウ』の欠如という致命的なミスに直結する。
効率を求めてコミュニケーションを絶つのは、ブラック企業への逆戻り(大失敗)に他ならないのだ。
(わ、わかりました! わかりましたから! 監視社会化は撤回します! 私の目指すホワイトな労働環境は、壁を作ることじゃありませんっ!!)
前世のトラウマを全否定するレベルの深い反省を念じた瞬間。
スッ……と、冷徹なフロアマネージャーの縛りが解けた。
「……こ、こほんっ! 失礼しました。今のディストピア計画は白紙撤回します。非常時における正しい『BCP(事業継続計画)』に移行しましょう!」
私は咳払いをして真っ赤になった顔をごまかしながら、デスクの配置をガラリと変え始めた。
壁に向かって並べるのではなく、三つのデスクを部屋の中央で向かい合わせにくっつける。ビジネス用語で言うところの『アイランド型(対面島型)レイアウト』だ。
「拠点が工事中で縮小し、非常事態に陥ったとしても、私たちが笑顔でコミュニケーションを取りながら、中核業務を止めない仕組みを作ること。それが『BCP』の要です。だから、壁で仕切るのではなく、あえて顔を突き合わせて連携を強化します!」
「なるほど! これならアオイの顔がすぐ見えて、話しかけやすいね!」
「はいっ。書類の受け渡しも、手を伸ばすだけでできちゃいますね」
リナさんとフィナさんが自分の席に座り、嬉しそうに微笑んだ。
三つのデスクをぴったりとくっつけたことで、私の正面にはリナさんが、斜め隣にはフィナさんが座る形になった。
――そして、私は気がついてしまった。
(……ち、近い。美少女お二人の顔が、信じられないほどの至近距離に……っ!!)
デスクが小さいぶん、普通に座っているだけでお互いの吐息が届きそうな距離感だ。
リナさんの健康的で元気な笑顔も、フィナさんの少し照れたようなはにかみ顔も、まるで高解像度の絵画のように細部まで見える。
おまけに、二人の髪から漂うフローラルなシャンプーの香りと、ほんのりとした女の子特有の甘い匂いが、狭い部屋ゆえにダイレクトに私の鼻腔をくすぐってくるのだ。
(な、なんというご褒美空間……!! 狭いオフィス、最高じゃないですか! むしろずっと工事中でいいくらいです!!)
私の限界事務員としての冷静な仮面の下で、重度の美少女愛好家(変態)としての本性が、歓喜のサンバを踊り狂っていた。
「アオイさん? どうしてニヤニヤしてるんですか?」
「えっ!? い、いえ! 素晴らしい対面レイアウトが完成して、経営者として喜びを噛み締めていたところですっ!」
私は慌てて真顔を取り繕い、バインダーで顔の半分を隠した。いけない、少しでも気を抜くと鼻の下がだらしなく伸びてしまう。
足元では、私のデスクの下の隙間にすっぽりと収まったギルさんが、満足そうに丸くなって目を閉じていた。
モフモフの尻尾が私の足首にフサフサと触れ、足元ヒーターとしての機能も完璧に果たしてくれている。
美少女の香りとモフモフの温もり。
ここは天国か。
「さあ皆さん! 荷解きも無事に完了しました。新しいお城ができるまで、しばらく手狭ですが、ここで楽しく頑張りましょう!」
「「おーっ!!」」
私たちは、ボルクさんからもらった差し入れの焼きたてパンをちぎり、フィナさんが魔法でサッと沸かしてくれたお湯で淹れた温かい紅茶のカップを合わせた。
サクッとしたクロワッサンの食感に、バターの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。「引っ越しそば」ならぬ、極上の「引っ越しパン」だ。
一階から上がってくる香ばしいパンの匂いと、仲間たちの笑顔、そして甘い紅茶の湯気。
コンパクトだが幸福度が限界突破しているこの仮オフィスで、アリフィ商会のドタバタで温かい新生活が、今、幕を開けたのだった。




