第92話:サインオフ
テルマ村の朝は、山鳥の爽やかなさえずりと、立ち上る温泉の白い湯気と共に明けた。
白鷺亭の玄関前には、王都へ帰還するリュミエール国王陛下と、財務大臣の一行を見送るために、村中の人々が集まっていた。
「いやぁ、実によき保養であった! 余はすっかり五歳は若返った気分だぞ!」
肌ツヤがこれ以上ないほどピカピカになったリュミエール国王が、豪快に笑う。
その背後では、文官たちに両脇を抱えられた財務大臣が、ボロボロと涙を流しながら抵抗していた。
「嫌だ……帰りたくない……私はこの村の泥として生きていくんだぁ……王城の予算編成なんて知らないぃ……っ!」
完全に骨抜きにされた(スライム化した)国の重鎮の姿に、私は心の中で静かに合掌した。どうか王都へ帰っても、適度に有給を消化していただきたい。
「アオイ殿、そしてテルマ村の皆よ。改めて礼を言う」
馬車に乗り込む直前、リュミエール国王が振り返り、厳かに宣言した。
「この村の極上の温泉、美容泥、そしてデトックス薬膳。そのすべてを、今一度、我が王国の『王室御用達』に正式認定する! 誇りを持って、王都の民にもこの癒やしを届けてくれ!」
「お、王室御用達……っ!」
「やったぁぁぁっ!!」
一瞬の静寂の後、村人たちの歓声が爆発した。
王城のお墨付き。それはビジネスにおいて、これ以上ない最強のブランド保証(箔)を獲得した瞬間だった。
*
――しかし。
王室一行の馬車が見えなくなった後、大広間に集まった村人たちの歓喜は、急速に「不安」へと形を変えていた。
「ど、どうしよう……わしらの泥と草が、王室御用達だなんて……っ」
ガンツ村長が、ガチガチと歯を鳴らして震え始めた。
「アオイ殿たちが王都へ帰ってしまった後、わしらだけでこのブランドを維持できるじゃろうか!? もし品質が落ちて、王室の顔に泥を塗ることになったら……!」
「そうです! また魔物が出たらどうしますか!? アオイ様、どうかずっとこの村にいて、私たちに指示を出してください!」
リリーナさんまでもが、涙目で私にすがりついてきた。
(なるほど……急激な成長に伴う、現場の『依存』ですね)
私は腕を組み、小さく息を吐いた。
優秀なコンサルタントやプロジェクトマネージャーがいつまでも現場に居座ることは、組織の自立を妨げる最悪の愚策だ。私たちが去った後も彼ら自身で事業を回せるよう、完全な『業務引き継ぎ(ハンドオーバー)』を行わなければならない。
(とはいえ、彼らの不安もわかります。品質の低下(ブランド毀損)は最大のリスク……ならば!)
前日の大プレゼン成功と、VIP視察の完遂。連続する大金星に、私の限界事務員としての社畜の血は、すっかり気が大きくなっていた。
(フフフ、お任せください! 失敗を恐れるなら、ガチガチのルールで縛ればいいのです! 私が全五百ページに及ぶ『超厳格なフランチャイズ契約書』と『違約金つきの秘密保持契約(NDA)』を作成し、品質を少しでも落とせば莫大な罰金が発生する仕組みで、皆さんをがんじがらめに縛り付けますよぉぉっ!)
私は前世の悪徳チェーン本部の社長のような邪悪な笑みを浮かべ、バインダーから見えない分厚い契約書を取り出し、テーブルにドンッと叩きつけようと――。
――ビシィッ!!!
その瞬間。私の体内に備わったスキル『反復拒否』が、けたたましいアラートと共に起動した。
振り下ろそうとした私の両腕は空中でピタリと止まり、自らの意思を完全に無視して、不自然で滑らかな軌道を描き始めた。
両手は胸の前でふんわりと優しく組まれ、背筋はピンと伸びる。首はわずかに右へ傾き、口元には聖母マリアのような慈愛に満ちた微笑みが浮かべられた。
そして、まるで「巣立つ小鳥」や「初めてのおつかいに行く我が子」を温かく見送るような、とてつもなく神々しいポーズで強制停止させられたのだ。
「ア、アオイ……? 急にどうしたの、その後光が差すような神々しいポーズは……」
「なんか、急に教祖様みたいになったぞ……?」
リナさんとレオ君が、ドン引き……いや、困惑した顔で私を見つめている。
(い、いやああぁぁっ!? なんですかこのポーズ! キャンセル、キャンセルをお願いします!)
私は必死に脳内で念じたが、スキルはビクともしない。
力づくも通用しない。
どうやら「調子に乗った悪徳契約」という大失敗ルートへの戒めとして、この『慈愛のポーズ』が完全に完成して皆の目に焼き付くまで、解除を許してくれないらしい。
三十秒。永遠とも思える時間、私は聖母のように微笑んだまま、顔面をボッ! と音を立てて真っ赤に染め上げていった。
(わ、わかりました! 私が間違っていました! 罰則やルールで現場を縛り付けるのは、前世のブラック企業と同じです! 相手を信じて権限を渡す『エンパワーメント』が正解なんですね!! だからもう許してくださいぃぃっ!)
心の中で深く反省し、白旗を上げた瞬間。
ふっ、と体の拘束が解けた。
「……こ、こほんっ!!」
私は茹でダコのように赤い顔を隠すように咳払いをして、慌ててバインダーを胸に抱き直した。
「い、今の神々しいポーズは、皆さんへの信頼の証です! ……村長、リリーナさん。罰則で縛るような契約は結びません。皆さんの『当事者意識』でブランドを守るため、本日をもって『テルマ村・ブランド管理組合』を設立します!」
「く、組合……?」
「はい。村長を組合長、リリーナさんを実務責任者(CEO)に任命します。そして、これは私たちからの最後の贈り物(引き継ぎ資料)です」
私が合図をすると、リナさんとフィナさんが前に出た。
「村の皆さん! これが、街道の魔物除けランタンの設置場所と、燃料補充のタイミングを書いた『安全保守マニュアル』だよ! これがあれば、冒険者がいなくても村の人たちだけで安全な道を守れるからね!」
リナさんが、手書きの地図と図解が添えられた羊皮紙を村長に手渡す。
「こっちは、美容泥パックの『製法マニュアル』です! 泥のブレンド比率や、生活魔法を使った安全な温度管理の方法を、もう文字が読めないお年寄りの方でもわかるように絵で書きました!」
フィナさんが、丁寧に綴じられた冊子をリリーナさんに手渡す。
かつては空回りしていた剣士と、自信を持てなかった治癒士。彼女たちが自分で考え、作り上げた「仕組み(マニュアル)」だ。二人の成長の集大成に、私は目頭が熱くなるのを感じた。
「村長。皆さんの手で作り上げた仕組みです。自信を持って、自分たちの村を運営してください。あなたたちはもう、立派な『王室御用達ブランド』の担い手なんですから」
私の言葉と、手渡されたマニュアルの温もり。
それを受け取った村長とリリーナさん、そして村人たちの顔から、不安の影がスッと消え去った。代わりに宿ったのは、「自分たちのブランドを守り育てる」という、確かな覚悟と誇りだった。
「……ああ。わかった。アオイ殿たちに教えてもらったこの村の『真の価値』、わしら自身の手で、絶対に守り抜いてみせるべ!」
「アオイ様、リナ様、フィナ様…そしてギルドの皆様も…本当に、本当にありがとうございました!」
リリーナさんが深く頭を下げ、村人たちから割れんばかりの拍手が巻き起こった。
*
その日の午後。
村の入り口にある美しく改装された旗艦店に、王室御用達の紋章と、新しく作られた『テルマ村・ブランド管理組合』の旗が誇らしく掲げられた。
私は馬車の前で立ち止まり、真新しいインクの匂いがするバインダーを開いた。
そして、「地方創生プロジェクト」のページの最終項目に、羽ペンで力強く『完了』のチェックマークを書き込んだ。
「アオイ。全部、終わったね」
リナさんが、清々しい笑顔で私の隣に立つ。
「ええ。プロジェクトは完璧に検収完了しました。さあ……」
私はバインダーを閉じ、馬車の傍らで待機する若葉の剣の三人や、足元で尻尾を揺らすギルさん、そして大切な社員たちを見渡して、心からの笑顔を向けた。
「私たちの日常(ホワイトな王都生活)へ帰りましょうか」
春の終わりを告げる温かい風が、私たちの髪を優しく揺らした。
限界集落の再生という大きなタスクを完遂し、充実感と少しの寂しさを胸に抱きながら。
限界事務員と仲間たちを乗せた馬車は、村人たちの温かい感謝の声に見送られ、王都へと続く安全な街道を走り出したのだった。




