第90話:お・も・て・な・し
王城での大一番を見事に成功させた翌朝。
アリフィ商会の事務所には、平和で穏やかな空気が満ちていた。
開け放たれた窓からは初夏の爽やかな風が入り込み、卓上に置かれたカップからは、フィナさんが淹れてくれたハーブティーの甘く温かい香りが立ち上っている。
「いやぁ、昨日のディナーは最高だったね! プレゼン成功の祝杯ってやつですか!」
ソファでくつろぐリナさんが、昨晩の豪勢な食事を思い出してご満悦な表情を浮かべる。
「ええ。ですが、これでようやく『事業計画』が通っただけです。本当の勝負は、王都の顧客にテルマ村の価値を売り込むこれからのフェーズですよ」
私はバインダーを開き、今後のスケジューリング(工程表)を確認しながらハーブティーを一口飲んだ。
その時。コンコン、と控えめだが規律正しいノックの音が事務所に響いた。
「おはようございます、アリフィ商会の皆様。朝早くに申し訳ない」
扉を開けて現れたのは、騎士団長のラインハルトさんだった。相変わらず隙のない美しい銀甲冑に身を包んでいる。
「ラインハルトさん、おはようございます。どうされました? 予算の振り込み手続きならまだ先のはずですが」
私が首を傾げると、ラインハルトさんは少しだけ困ったような、しかし真剣な表情で言った。
「実は、急遽予定が変更になってな。……明朝、リュミエール国王陛下と財務大臣が、直々にテルマ村へ『視察』に赴くことになったのだ」
「……はい?」
一瞬、思考が停止した。
「し、視察、ですか? 国王陛下と、大臣が……直々に!?」
「うむ。アオイ殿のプレゼンがあまりに見事だったため、陛下も大臣も『ならば、その目で確かめてみよう』と、大変乗り気になられてね。護衛は近衛の精鋭のみを最小人数で連れ、お忍びの形で向かわれる」
(しゃ、社長と財務役員の、現場抜き打ち視察ぅぅぅっ!?)
私の前世の限界事務員としての社畜センサーが、最大級の警報を鳴らした。
トップ層の現場視察。
それは現場の人間からすれば、胃に穴が空くほどのプレッシャーを伴う一大イベントだ。
もし少しでも粗相があれば、あるいは実態が報告書と異なっていれば、せっかく通った稟議がその場でひっくり返される(白紙撤回される)可能性すらある。
「わ、分かりました! 私たちは大至急、若葉の剣の皆さんと共に先発隊としてテルマ村へ出発します! 陛下たちは一日遅れで出発されるのですね?」
「そうなる。道中の魔物避けランタンの件は報告を受けているが、くれぐれも道中お気をつけて」
「ええ、必ず受け入れ態勢(VIP対応)を整えておきます!」
私はハーブティーを飲み干し、バインダーを小脇に抱えて立ち上がった。
「リナさん、フィナさん、大至急出発の準備です! 現場がパニックになる前に、私たちが指揮を執らなければなりません!」
*
一時間後、私たちは急遽呼び出した『若葉の剣』の三人と共に荷馬車に乗り込み、王都を飛び出した。
テルマ村までの道のりは、荷馬車で約二、三日。
私たちはただ急ぐだけでなく、道中の『よどみのポイント(チョークポイント)』に設置した魔物除けのランタンの燃料が切れていないか、風向きで匂いの死角ができていないかを一つひとつ確認(保守点検)しながら進んだ。
「教官、ここのランタンも問題なしです! 燃料も十分残ってます!」
「良かったです。これで『流通チャネル(インフラ)』の正常稼働は証明できますね」
斥候のカイト君からの報告に、私は安堵の息を吐く。
PDCAサイクルにおける「C(評価)」と「A(改善)」のプロセスだ。
インフラは作って終わりではない。日々のメンテナンスこそが命なのだ。
そうして慎重に行軍を続け、出発から三日目の夕暮れ時。
私たちは無事に、硫黄の優しい香りが漂うテルマ村へと到着した。
「おお、アオイ殿! リナ殿たちも! 王都での商談はどうじゃった!?」
私たちが白鷺亭に到着するなり、ガンツ村長と若女将のリリーナさん、それに村人たちが期待に満ちた顔で集まってきた。
「皆さん、商談は無事に成功しました。王室からの初期投資(宣伝と流通の支援)の確約を取り付けましたよ!」
「おおおおっ!!」
「やったべ!!」
村人たちが歓声を上げ、リリーナさんが嬉し泣きをしそうになる。
だが、私はすぐさま表情を引き締め、バインダーを開いた。
「喜ぶのはまだ早いです。実は、緊急事態が発生しました。……明日、このテルマ村にリュミエール国王陛下と財務大臣が直々に『視察』にいらっしゃいます」
「…………は?」
広間の空気が、文字通り完全に凍りついた。
「こ、国王陛下と……大、大臣、だと……!?」
ガンツ村長が、パクパクと口を金魚のように開閉させた後、真っ青な顔で頭を抱え込んだ。
「む、無理じゃあぁぁっ! そんな身分のお方が来るなんて! もし粗相があって機嫌を損ねたら、今度こそ村が取り潰されてしまう!」
「ど、どうしましょうアオイ様! 王室の皆様にお出しできるような高級なお肉や、フルコースの準備なんて、今の村には絶対にありません! お部屋のしつらえも、ただの田舎の宿なのに……っ!」
リリーナさんが悲鳴を上げ、村のお婆ちゃんたちも「おしまいだべ……」とその場にへたり込んでしまった。
予想通りのパニック状態だ。かつては御用達として好まれていたこの村もそれはずいぶんと前。村長もきっとまだ今の立場になる前の事だろうか?
(ここで私が落ち着かせなければ、現場の動揺がミスを生み、最悪の失敗ルートに繋がります!)
私はバインダーを閉じ、一歩前に進み出た。
背筋を伸ばし、村人全員の顔をしっかりと見渡す。
「村長、リリーナさん。落ち着いてください。王室の方々だからといって、都会のフルコースや豪華な接待を用意する必要なんて、一切ありません」
私の静かな、しかし通る声に、パニックになっていた村人たちが顔を上げた。
「相手が国王であろうと大臣であろうと、彼らは激務に追われ、国の予算に頭を悩ませている『一人の疲弊した大人』です。都会の脂っこい食事や、重いプレッシャーの中で生きているんです。……そんな彼らが、この田舎の温泉村に来て、王城と同じような豪華な食事や、堅苦しい儀礼を求めていると思いますか?」
村長とリリーナさんが、ハッとしたように目を丸くした。
「私たちが提供すべきは、背伸びをした豪華な接待ではありません。この村にしかない、美味しい空気、胃腸を労わる極上のデトックス薬膳、そして体の芯まで温まる『温泉』です」
私は、リリーナさんの両手をギュッと握りしめた。
「テルマ村の『真の価値』は、飾らない素朴な癒やしです。だから、何も恐れることはありません。いつも通り、私たちが誇るこの村の良さを、自信を持って提供すればいいんです!」
私の熱い言葉に、村人たちの顔に徐々に血の気が戻り、瞳に確かな光が宿っていくのがわかった。
よし、いける。
最後にビシッと、ビジネスマンとしての士気を高める言葉で締めくくるのだ!
「さあ皆さん! 胸を張って、テルマ村の最高のオモテャシを――あ」
「…………」
「…………」
数秒の、完全な沈黙。
私の顔は、ボッ! と音を立てて茹でダコのように真っ赤に染まった。
「あ、今のなしです! 最高の、ホスピタリティ……いや、おもて、なしをっ! あああああっ、今の全部なしですぅぅっ!」
私が両手で顔を覆ってしゃがみ込むと、静まり返っていた広間に、ぷっ、という吹き出し笑いが響いた。
「あははははっ! アオイ殿でも、そんな風に噛むことがあるんじゃな!」
ガンツ村長が、お腹を抱えて大笑いし始めた。
「ふふっ、あははは! アオイ様ったら、顔が真っ赤です!」
リリーナさんも、涙を拭いながら笑っている。
リナさんもフィナさんも、若葉の剣の三人も、そして村人たち全員が、ドッと温かい笑い声を上げた。
「よーし! アオイ殿の言う通りじゃ! わしらはわしらのやり方で、王様たちに最高の『オモテャシ』をしてやろうじゃねえか!」
「ええ! 山菜の下ごしらえ、今から完璧に仕上げておきます!」
「わしらはお風呂の掃除だべ!」
笑いに包まれたことで、村人たちの過剰な緊張と不安は完全に解け、代わりに「最高のおもてなしをしてやろう」という前向きな活気が広間を満たしていた。
「もぉぉぉ……笑わないでくださいよぉ……」
私はまだ火照る頬を押さえながら、恥ずかしさに身をよじった。
けれど、指の隙間から見える村人たちの顔は、誰もが自信と希望に満ち溢れている。
(……恥ずかしいですが、皆さんが奮い立ってくれたのなら、結果オーライですね)
限界事務員としての威厳は少しばかり損なわれたかもしれないが、プロジェクトの『現場の士気』は最高潮に達した。
いよいよ明日、王国のトップ層を迎えるVIP視察が幕を開ける。
テルマ村の真の価値を証明するための、最高に熱い「オモテャシ」の準備が、今、始まったのだった。




