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第9話:優しくて暖かい手

私は、久しぶりに夢を見た。

思い出したくもない夢だった。今となっては懐かしい景色なのに。


大学は経済学部だった。

経済や社会の仕組みを学びたかった、なんて理由はない。

高校の指定校推薦で比較的、容易に入学が出来る。つまりは、高卒で働く気にもなれず、受験もしたくなかったからだ。


それでも私は周りが思っているよりはちゃんとした学生生活を送った。

レポートや課題の締め切りは必ず守ってきた。


私は、ちゃんとやれていると思っていた。

少なくとも最初の頃は、そう思えていた。


大学を出て、内定をもらったとき。

特別すごい会社じゃないけれど、落ち着いた雰囲気で、人も優しそうで。

「ここならやっていけるかもしれない」と、素直に思えたのを覚えている。


総務兼経理。

なんでもやるポジションだよ、と面接で言われたときも、むしろ安心した。


決まったことを、きちんとこなす。

誰かの仕事を支える。

そういうのは、嫌いじゃなかったから。


お父さんお母さんも喜んでくれた。

私もようやく社会人だ、いずれは後輩が出来て面倒を見て。

彼氏が出来て結婚して。それでも仕事は続けて。


「後藤さんが居ないと会社が回らないよ」


そう言われる未来が、繰り返し見えて想像できてたまらなかった。


最初の数ヶ月は、がむしゃらだった。


言われたことをメモして、家に帰ってからノートにまとめ直して。

付箋を貼って、チェックリストを作って、同じミスをしないように工夫して。


「後藤さん、丁寧だね」


そう言われたとき、少しだけ胸が軽くなった。

私でも、ちゃんとやれるんだって。

仕事って楽しい。


――思っていた。


最初に「あれ?」と思ったのは、たぶん一年目の終わり頃だった。

経費精算の数字が合わなかった。


何度も見直して、間違いはないはずなのに、どうしても数円ズレる。

結局、先輩に見てもらったら、単純な入力ミスだった。


「ここ、8じゃなくて3だよ」


指摘された瞬間、頭が真っ白になった。

そんなはずない、って思った。

だって、見直したし。

ちゃんと確認したし。

こんな間違いを今更するわけがないって――


でも、画面に表示されているのは、どう見ても「3」で。


「申し訳ございません」と言いながら、

自分の中の何かが、小さく。ひとつ、静かに軋んだ気がした。


それから、少しずつ増えていった。

ほんの小さなミス。


数字の打ち間違い。

転記漏れ。

チェックしたはずの項目の見落とし。


どれも、大きな問題になるようなものじゃない。

やり直せば済むことばかり。

でも、その「やり直し」が、積み重なっていった。


「前回も言ったよね?」


同じ言葉を、何度も聞いた。

そのたびに、「はい」「申し訳ございません」と答えながら、

胸の奥がじわじわと冷えていく。


覚えている。

気をつけている。

ちゃんとやろうとしている。

後輩ちゃんは出来ている。

先輩も出来ている。

私も同じようにやっている。

それなのに、また同じところで引っかかる。


私は、ノートを増やした。


チェックリストも、もっと細かくした。

一つの作業に対して、確認項目を何個も作った。

ダブルチェック。指さし確認。

それでも、抜ける。


確認している最中に、電話が鳴る。

話しているうちに、さっきどこまで見たのかわからなくなる。

戻って確認したつもりでも、どこかが抜け落ちている。


まるで、手のひらに水をすくっているみたいだった。


ちゃんと掬ったはずなのに、気づくと全部こぼれている。

なんで。なんで。


三年目に入った頃には、

「ミスが多い人」という認識が、はっきりと周囲に定着していた。


誰も露骨には言わないけれど、

資料を渡すときの一瞬の間とか、

チェックを頼まれる頻度とかで、わかってしまう。

後輩ちゃんに私の資料のチェックをお願いしている景色を見てしまった時、思わずトイレに駆け込んでしまった。


ああ、信用されていないんだな、って。


それでも、辞めようとは思わなかった。

思えなかった、の方が近いかもしれない。


ここで辞めたら、ただ「逃げた人」になる気がして。

どこへ行っても同じことを繰り返すんじゃないかと思って。


だったら、せめてここで、ちゃんとできるようになりたかった。


だから、残った。

残って、残って、残り続けた。


気づけば、帰るのが遅くなっていた。


本当は見たいアニメも、気になるドラマもゲームもあった。

でも私にはそんな娯楽に逃げる資格はないって。

夢見た私は既に自分自身で殺していた。


日中に終わらなかった分を、夜に片付ける。

人がいなくなってからの方が、集中できる気がしたから。


蛍光灯の白い光の下で、

モニターに映る数字を、ひとつずつ追いかける。

4年目の社員がやるような作業じゃないのかもしれない。

静かなオフィスは、嫌いじゃなかった。


誰にも見られていない場所でなら、

少しだけ、ちゃんとできる気がした。


――でも、たぶん。


もう、その時には、限界だったんだと思う。


決算期の月末。

時計は、もう十一時を回っていた。


コーヒーは、とっくに冷めていた。

苦いだけの液体を、ほとんど味も感じないまま飲み込む。

画面の数字が、少しずつ滲んで見える。

瞬きをしても、はっきりしない。


(あれ……)


キーボードに置いた指先が、やけに遠い。

さっきまで、どこを入力していたんだっけ。


確認、しないと。

また、間違える。

確認して、

ちゃんと、やって、


急に、息が吸えなくなった。

喉が塞がれたみたいに、空気が入ってこない。


胸の奥を、ぎゅっと握り潰されるような感覚。

痛いのか、苦しいのかもよくわからないまま、

ただ、体が言うことを聞かなくなる。


(あ、やばい)


ぼんやりと、そんな言葉が浮かぶ。

誰か呼ばないと。

立たないと。


誰ももう、居ないのに。


椅子から立ち上がろうとして――

足に力が入らなかった。


そのまま、膝から崩れる。

視界がぐらりと傾いて、

冷たい床が、すぐ目の前に迫ってくる。

頬に、固い感触。


遅れて、じん、と鈍い痛みが広がる。

息が、できない。


吸おうとしても、入ってこない。

吐いているのかどうかも、わからない。

視界の端で、モニターの光が滲んでいる。

さっきまで見ていた数字が、もう読めない。


(ああ……)


ぼんやりと、思う。


(これ、終わりかも)


不思議と、怖くはなかった。

それよりも、先に浮かんだのは――


(明日の作業、まだ途中なのに)


そんなことだった。

次に、


(また、迷惑かけるな)


それから、


(でも、もう……)


そこで、思考が途切れかける。


(もう、いいか)


胸の奥に溜まっていた重たいものが、

すうっと抜けていくような感覚。

会社の席も、

終わらない作業も、

「またか」と言われる視線も、

全部が、遠ざかっていく。


最後に耳に残ったのは、

PCのファンが回り続ける、低い音だけだった。


――ああ。


静かだな、と思った。


――お父さん、お母さん。ごめんね。


そこで、私の意識は途切れた。



すると、優しく暖かな手が私の頬を包んでくれた。

そしてそっと抱きかかえられるように私は確か、あの暗闇で目覚めたんだ。



――。アオイ――


誰かが優しく私をゆすって声をかけている。

布越しでも伝わる暖かな手。

似ているな。


――!! アオイ!!――


でも、ちょっと強くなってきたかな。

身体が次第に強く揺さぶられるにつれ、私はようやく意識を取り戻した。


というよりは。

目が覚めた。


「あ、ようやく起きたよ。大丈夫??いつも起きてくる時間に来なかったから心配になって」


ハッとした私が声のする方へ向くと、そこにはちょっとだけ呆れたように笑うマルグリットさんだった。


「あれ、あぁ、ごめんなさい。私――」


「謝ることなんかないよ!仕事で疲れてたんだろう。アオイは頑張り屋さんだから」


謝ることなんかない。

頑張り屋さんだから。

そう言って笑うマルグリットさんを見た時に、また私の中で何かが壊れた音がした。


「さ、もう朝ごはんの用意は出来ているからね。急がないと遅刻――」


本当は誰かに、言ってもらいたかった言葉の音だった。


ずっと、心の中で持っていたトラウマが。

壊れたような音がした。


その瞬間、私は思わずマルグリットさんの大きな背中に抱きついてしまった。


そんな私を振りほどくことも小言も言う事もなく、マルグリットさんは頭を撫でてくれた。


優しく暖かな手だった。

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