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第8話:休日出勤でお返しします

リュミエール王国の朝は、いつだってパンの焼ける香ばしい匂いから始まる。

私が拠点にしている宿屋の一階、こぢんまりとした食堂には今日も朝陽が優しく差し込んでいた。

少し立て付けの悪い窓枠が、冷たい風を微かに通してカタカタと鳴っている。

 

目の前に置かれたのは、湯気を立てる根菜たっぷりのスープと、表面がカリッと焼かれた厚切りの黒パンだ。

スプーンでスープをすくって口に運ぶと、野菜の甘みと適度な塩気が、寝起きの胃袋にじんわりと染み渡っていく。


「ふふっ。アオイは本当に、いつも美味しそうに食べるねえ」

 

かまどの前で火の魔石の調整をしていた女将のマルグリットさんが、私を見て目尻を下げた。


「あ、すみません。ちょっと行儀が悪かったですか?」


「いやいや、そういうんじゃないさ。ただ、うちに来たばかりの頃と比べて、なんだか随分と表情が柔らかくなったと思ってね」


「表情、ですか?」


「ああ。最初は何か見えないものにずっと怯えているような、張り詰めた顔をしてたからね。今は年相応の、可愛らしい顔立ちになったよ」


「そう、だったんですね」 


マルグリットさんの言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じて、スープの湯気で顔を隠した。

アオイ・フォルスターという人物がいつからこの世界に居たのかは分からない。

初めて転生をした日の時、マルグリットさんも街の人たちもいつもと変わらないように挨拶をしてくれていた。


もし。仮にだけど。

私が転生する前にアオイ・フォルスターという女性が居たのであれば

きっと前世の私と何か共通する心で癒着しているものがあったのかもしれない。


前世の私は、息苦しいオフィスの空気に飲まれ、自分の感情を押し殺してただただ実直に事務仕事をこなす機械のようだった。

笑うことさえ、どこかに置き忘れていた気がする。


(……あの頃と比べたら、そりゃあ顔つきも変わるよね)

 

美味しいご飯。誰かの役に立っているという実感。理不尽に怒鳴られない環境。

この世界に来てから、私の心に張り付いていた分厚い氷は、少しずつ溶け出しているらしい。


本来のちょっと抜けた自分――いや、マイペースな部分が、油断するとぽろぽろと表に出始めている自覚はあった。



朝食を終え、私は自分の「なんでも屋」の事務所へと足を運んだ。

重たい真鍮の鍵を開け、小窓を開け放つ。生活魔法で空気を循環させ、火の魔石でお湯を沸かす。魔石にぽんと触れると、ほんの一瞬。マッチ棒くらいの小さな火の精霊が見えて「パチパチッ」と嬉しそうに踊りながらやかんの底を温めてくれる。

毎朝の癒しタイムだ。


「おはようアオイ! 今日もいい天気だね!」

 

カランコロンと元気なドアベルの音と共に飛び込んできたのは、昨日から私の専属アシスタントになった剣士の少女、リナさんだ。

彼女は軽鎧をカチャカチャと鳴らしながら、手に持っていたほうきでササッと事務所の床を掃き、さらに高い棚の上にある重い荷物をひょいっと片付けてくれた。


「さ、力仕事は終わったよ! 今日の依頼はどうなってる?」

「あ、ありがとうございますリナさん。ええと、今日のスケジュールはですね……」

 

私は自分のデスクに座り、整理された依頼書の束を確認する。

基本、私は事務作業や細かい調整、環境整備を担当し、物理的な力仕事や体力勝負はリナさんがこなしてくれる。この完全な分業制によって、仕事の効率は劇的に上がっていた。


(……分業制! 助け合い! 私の仕事が『これだけ』で済むなんて! しかも、誰も私の確認の遅さを怒鳴らない……っ!)

 

私は机の裏で両手を組み合わせ、天を仰いだ。感動のあまり涙が出そうだ。

前世の「何でもかんでも一人に押し付けられる地獄」を知っている私にとって、ここはまさしくホワイトすぎる楽園だった。


私が内心で咽び泣いていると、再びドアベルが鳴った。


「……やあ、アオイ。朝早くからすまないが、仕事の依頼だ」

 

入ってきたのは、見目麗しい銀髪の青年、ラインハルト様だった。

ただ、いつものクールな顔立ちには珍しく、目の下にうっすらと濃いクマができている。


「ラインハルト様? どうしたんですか、すごくお疲れのようですが」

「実は今、王都の『公文書館』の膨大な資料整理の責任者を任されていてね。だが……どうしても上手くいかないんだ」

 

ラインハルト様は重いため息をついた。


「私の考えた論理的な分類手順に、一切の間違いはないはずなんだ。だが、何度整理しても、数日後には本が雪崩を起こして崩れるか、全く別の場所に誤配されてしまう。……なぜ、人間というものはこうも同じミスを繰り返すのだろうか」


「なるほど……。完璧なルールがあるのに、現場が崩壊してしまうわけですね」

 

前世で痛いほど見てきた光景だ。

私はリナさんと顔を見合わせ、力強く頷いた。


「わかりました。私たち『なんでも屋』にお任せください!」



案内された公文書館は、石造りの広大な建物だった。

足を踏み入れた瞬間、古い紙とインク、そして少しカビっぽい匂いが鼻を突く。

館内は確かに悲惨な有様だった。高いオーク材の本棚には分厚い書類や図鑑が乱雑に押し込まれ、あちこちで雪崩を起こして床に散乱している。


おまけに、本に宿る魔力に引き寄せられたのか、チリチリとした光の粉のような「小さな紙魚しみの精霊」たちが、乱れた環境にイライラした様子で部屋中を飛び回っていた。


「これが、私の作成した分類表だ」

 

ラインハルト様から渡された羊皮紙には、歴史、魔法、法律など、項目ごとに美しく細分化された完璧なリストが書かれていた。

論理としては、これ以上ないほど素晴らしい。


「ふむふむ。じゃあ、試しにこの『王立魔法薬草学図鑑』を、この表の通りにしまってみますね」


私は床に落ちていた分厚くて重たい図鑑を両手で持ち上げた。

表によれば、この図鑑の正しい位置は――目の前にある本棚の、一番上の段だ。

私は背伸びをして、図鑑を高い棚の隙間へと押し込もうと腕を伸ばした。

その瞬間。

 

――ピタッ!!

 

私の中に備わったスキル『反復拒否リフューザル』が、強烈な自己主張と共に発動した。

伸びかけた私の両腕が空中で不自然に停止し、左手は腰に、右手は図鑑を持ったまま奇妙な角度で手首を捻った、謎の「ジョジョ立ち」のようなポーズで完全に硬直してしまったのだ。


「あ、あっ、体が勝手に別の動きを!?」


プルプルと震えながら、私は内心で激しくツッコんだ。


(てか、いつの間に私、スキルの発動でこういういちいち変なポーズをとるようになったの!? こんなの前世では一回もやったことないのに! だんだんスキルの自己主張が過剰に強くなってない!?)


「ア、アオイ!? どうしたの、急に変なポーズ決めて!」

 

リナさんが慌てて駆け寄ってくる。

私は何とか図鑑を床に下ろし、カチコチになった肩を回して息を吐いた。


「……ラインハルトさん。原因がわかりました」


「本当か!? 何かの魔法的な干渉か、それとも分類の定義が甘かったのか!?」


「いいえ。極めて物理的で、人間的な理由です」

 

私は本棚の一番上を指差した。


「この『薬草学図鑑』、分類上はここが正解なんでしょうけど、使用頻度が高くて、しかもすごく重いですよね? それを、背伸びしないと届かない一番高い棚にしまうのは、手首の角度に無理があって物理的にキツいんです」


「手首の……角度?」


「はい。人間の体は、無意識に『面倒くさい』や『疲れる』を避けるようにできています。だから、高い場所に重い本をしまうのがおっくうになって、みんな無意識のうちに適当な隙間――つまり下段の空いている場所に押し込んでしまう。それが誤配の積み重ねとなり、結果として雪崩が起きているんです」

 

いくら論理的に正しいルールでも、人間の「不器用さ」や「面倒くささ」という動線を無視した人間工学の欠如。それが、この公文書館のズレの正体だった。

何とも単純明快。しかし世界は異なれど「人間」の本質に違いがない。



「ルールを厳しくするのではなく、ミスしにくい環境を作ればいいんです」

 

私はそう宣言し、早速リナさんに指示を出した。


「リナさん! まずはこの本棚の中身を全部出して、使用頻度の高い重い本を、一番取り出しやすい『中段から下段』に配置換えします!」

「任せて! 力仕事なら私の出番だね!」

 

リナさんは腕まくりをすると、持ち前の筋力で分厚い図鑑を両手いっぱいに抱え、ヒョイヒョイと素早い動きで本を移動させ始めた。


その間に、私は前世の事務スキルをフル活用する。


鞄から取り出したのは、色のついた魔力インクだ。

私は本の背表紙と、それをしまうべき本棚の縁に、チョンチョンと色付きの印をつけていった。


「赤の印がついた本は、赤い印の棚へ。青は青の棚へ。こうやって視覚的に色分けすれば、いちいち分類表を見なくても、直感で『どこにしまうべきか』がわかります」

 

頭を使わなくても、感覚と手癖だけで正しい場所にしまえる仕組み(UI/UXの改善)だ。ものの半日ほどで、公文書館の資料は使いやすく、かつ誰でも間違えにくい状態へと見事に再構築された。


環境が整い、古い空気が押し出されると、今までイライラと飛び回っていた紙魚の精霊たちもすっかり落ち着きを取り戻し、整頓された本棚の隅っこでスヤスヤと丸くなって眠り始めた。



「……見事だ」

 

夕暮れ時の公文書館で、綺麗に整頓された本棚を見上げながら、ラインハルトさんが感嘆の息を漏らした。


「人間の無意識の行動や、面倒を避ける心理のズレまで計算に入れて環境を構築するとは。私の論理だけでは、到底辿り着けない答えだった」

 

彼はそう言って、ずしりと重い革袋を私に差し出した。


「君のその見事な環境整備能力と、それを実行したリナのパワーに、心からの敬意を。これは今回の報酬だ」

 

袋の中を覗くと、たっぷりの銀貨が鈍く光っている。

それを見た瞬間、私の中に深く根付いていた「社畜のトラウマ」が、パァァッ! と裏返って感動の極みに達した。


「えええ!こ、こんなに……! 頑張ったことへの正当な評価と、適切な報酬……っ!」


目から滝のように涙が溢れ出す。私は銀貨の袋を胸に抱きしめ、ラインハルト様に向かって深々と、九十度を超える角度で最敬礼した。


「あ、ありがとうございますっ! この御恩は、来世まで休日出勤でお返ししゅゅゅます!」


「……いや。困る」

 

見事に嚙み倒した上に、異世界でまでブラック企業ムーブをかましてしまった私を見て、ラインハルト様は呆れたように眉間を押さえた。

隣では、リナさんがお腹を抱えてケラケラと笑っている。

 

ああ、恥ずかしい。

穴がなくても入りたい。

でも、なんだか悪くない。

 

完璧すぎる論理よりも、少しズレていてそれを笑い合えるくらいが、私にはちょうどいいのかもしれない。

 

窓の外から吹き込む夕方の風が、インクの匂いを優しく揺らしていく。

崩れない本棚と、私の少し騒がしい日常。

適材適所の『なんでも屋』は、今日も平和に営業中だ。

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