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第10話:赤面だらけの1日です

リュミエール王国の朝の空気は、いつだって澄んでいて少しだけ冷たい。

 

私は宿屋を出て、王都の中心街にある自分の「なんでも屋」の事務所へと向かって石畳を歩いていた。通りから漂ってくる焼きたてのパンの甘い酵母の香りや、荷馬車の車輪が立てる規則正しいガタゴトという音。どれもこれも、この世界の平和な日常を形作る愛おしいピースだ。

 

――ただ、今日の私には、その冷たい朝の風が少しだけ目にしみた。


「おはようアオイ! ……って、ええっ!? アオイ、その目どうしたの!?」

 

事務所の重たい真鍮の鍵を開けて中に入ると、一足早く来て床の掃き掃除をしてくれていたアシスタントのリナさんが、ほうきを取り落としてすっ飛んできた。


「誰かに泣かされたの!? 借金の取り立て!? それともたちの悪いナンパ!? それとも不倫!?は!まさか!!!遊ばれたのね!!??大丈夫!!私が斬ってくる!!」


「ち、違いますリナさん! 剣をしまって! 落ち着いて!」

 

シャランッと物騒な音を立てて長剣を抜きかけたリナさんを、私は慌てて手で制した。

宿屋の鏡で見た通り、私の両目は見事なまでに真っ赤に腫れ上がりまるで昨日一晩中泣き明かしたような顔になっていた。


いや、実際、宿屋の女将であるマルグリットさんの温かさに触れて、年甲斐もなく声を出して大泣きしてしまったのだから仕方がない。


「じゃ、じゃあどうしてそんなに目が真っ赤なの……?」


「こ、これはですね。その……『花粉症』です」


「カフンショウ? なにそれ、新しい魔物?」


「ええっと、春先に飛ぶ植物の粉が目に入って、アレルギー反応で腫れる病気というか、体質みたいなものでして……。だから、誰かにいじめられたわけじゃありません。ほら、私、すっかり仕事人モードですから!ほら!もう大人!」

 

私は強引に話を切り上げ、コートをハンガーに掛けて自分のデスクへと早歩きで向かった。

 

リナさんは「植物の粉が目に入っただけでそんなに腫れるの……? 王都の植物、おそるべし……」と首を傾げていたが、ひとまずは納得してくれたようだった。


(言えない。いい年をした大人が、前世のトラウマを思い出して、おばさんに慰められて大泣きしたなんて……恥ずかしくって絶対に言えない!)


内心で冷や汗をかきながら、私は窓を開け放ち、生活魔法で室内の空気を循環させた。


いつものように火の魔石でお湯を沸かす。

立ち昇る湯気とハーブティーの香りが、ようやく私のバクバクしていた心臓を落ち着かせてくれる。


温かいお茶を一口飲み、私はデスクに山積みになった「依頼書」の整理に取り掛かった。

 

私の『なんでも屋』は、王都の相場からするとかなり「お手頃価格」で売り出しているため、ありがたいことに仕事は引く手あまただ。

羊皮紙に書かれたインクの匂いを嗅ぎながら、日付や内容ごとに仕分けをしていく。

 

けれど、価格の安さや「なんでも屋」という名前に甘えて、中には「これ、自分でやれるでしょ!」と言いたくなるような案件も紛れ込んでいる。


「えーっと。これは……『裏庭の草むしりから倉庫の掃除、ついでに屋根の上の鳥の巣の撤去と夕飯の買い出しまで、銀貨一枚でよろしく』……」


思わず、ピクッとこめかみが引きつった。

 

前世の私なら、「なんでもやる事務」の悲しい性で、「これも仕事だから」と無理をして引き受けてしまい、結果的にキャパオーバーで倒れていたような典型的なブラック案件だ。

 

断らなきゃ。そう思って依頼書に「不可」のスタンプを押そうとした、その瞬間だった。


――ピタッ。

私の中に備わったスキル『反復拒否リフューザル』が、強烈な自己主張と共に起動した。

 

右手に持っていたスタンプが空中で止まる。そして、私の意志とは無関係に、両腕が胸の前で「バッ!」と大きなバツ印(X)を作るポーズで完全に硬直した。


(あっ、体が勝手に断固拒否のポーズを!?)

 

そのまま、操り人形のようにギギギ……と不自然な動きで腕が下がり、その依頼書をデスクの一番下にある『保留(という名の永遠の封印)』の引き出しへと、そっとしまい込んでしまったのだ。


(ダサい、ダサすぎる!!そして痛すぎる!!なんだ、どうした私!?)


「アオイ、また急に変なポーズしてるけど、大丈夫?」

「だ、大丈夫です。ただの準備体操ですから」


私は引きつった笑顔で誤魔化しながら、内心で深くため息をついた。


(最適化能力というより、最近このスキル、私をブラック労働から守るための過保護なお母さんみたいになってきてない?)


アワアワした挙動に振り回されつつも、私は決して無理をしない「ホワイトな環境」を自らの手で守れることに、微かな安心感を覚えていた。



「アオイ、これ行こう! 西の街道沿いに出た『泥はねスライム』の群れ討伐!」

 

私が書類の仕分けを終えた頃、リナさんが依頼書の一枚をヒラヒラとさせながらデスクの前にやってきた。


「魔物討伐、ですか」


なんでも屋に魔物討伐の依頼が来るのは、実はそう珍しいことではない。


このリュミエール王国において、国の防衛の要である『騎士団』を動かすには、煩雑な書類手続きとそれなりの理由、そして決して安くない費用がかかる。

 

また、『冒険者ギルド』へ依頼するのも同様だ。軍よりは身近で容易だが、依頼料は発生するし、何より「信頼度」に幅がある。


ギルドの冒険者の中には、先日のガストン先輩のように柄の悪い者もいれば、難易度が低いと受けてくれないケース、期限内に受理されない可能性もある。


だからこそ、「騎士団やギルドに頼むほどお金はかけられないけれど、放置しておくと生活に支障が出る」という隙間の案件が、私たちのところに回ってくるのだ。

 

今回の依頼主も、西の街道沿いにある小さな農家のおばあちゃんからだった。


「泥はねスライムは直接人を襲うわけじゃないけど、畑の作物を泥だらけにして枯らしちゃうんだって。おばあちゃん、ギルドに頼むお金がなくて困ってるみたい」


「なるほど。そういうことなら、放ってはおけませんね。」


私一人の時なら、魔物と聞いただけで丁重にお断りしていた案件だ。しかし今は、剣の腕が立つリナさんがいてくれる。


「わかりました。ではリナさん、討伐よろしくお願いします。私は事務所で、無事に帰ってくるのを祈ってますから」

 

私がにっこりと笑って送り出そうとすると、リナさんは「ん?」と不思議そうな顔をした。


「何言ってるの、アオイも一緒に行くんだよ!」

「……えっ?」

「だって、スライムの群れだよ? 相手の数が多い時は、アオイの『足場の指示』とか『全体を見る目』がないと、私が空振りして転んじゃうかもしれないじゃない!」


「いやいやいや! 無理です! 泥はねスライムなんて、絶対服が泥だらけになりますし、私、戦うような装備なんて何一つ持ってませんよ!?」


私は自分が着ている、事務作業用の質素な布の服と、動きやすいだけの革靴を指差した。これでは、スライムの体当たりを一発受けただけで致命傷だ。


「だから、買い出しに行くの!」

 

リナさんは満面の笑みで私の腕をがっちりと掴み、ずんずんと事務所の外へ向かって歩き出した。


「ちょ、待っ、《《花粉症の病み上がり》》なんですけどーっ!」

 

私の情けない悲鳴は、活気あふれる王都の空へ虚しく吸い込まれていった。



リナさんに引きずられるようにしてやってきたのは、王都の南側にある職人通りだった。

 

メインストリートの落ち着いたオフィス街とは打って変わり、ここはカンカンという金属を打つ槌の音や、火の魔石を使った炉の熱気、そして革の焦げるような匂いが立ち込めている。すれ違うのも、筋骨隆々のドワーフや、油にまみれたエプロン姿の職人たちだ。


「アオイの装備は、ガチガチの鎧じゃなくて、動きやすくて軽い護身用がいいよね。あ、あそこのお店にしよ!」


リナさんが指差したのは、『踊る鉄床かなとこ亭』という、少し変わった名前の武器防具屋だった。

 

店先の軒上には、本物の鉄床とハンマーが飾られているのだが、それが魔導具の仕掛けになっているらしく、カシャン、カシャンと勝手にリズミカルに踊っている。なんともファンタジーで可愛らしい外観だ。

 

カラン、とドアを開けて中に入ると、革の匂いがふわりと強くなった。壁には様々な剣や盾が並び、木箱の中には細かい防具が山積みにされている。


「いらっしゃい。おや、リナちゃんじゃないか。今日は防具の修理かい?」

 

奥から出てきたのは、片目に革の眼帯をした、渋くてかっこいい白髪の職人のおじさんだった。


「アンドレさん、こんにちは! 今日はこの子、うちのリーダーのアオイの装備を見繕ってほしくて!」

「ほう。なんでも屋のアオイちゃんか。噂は聞いてるよ。ん?でもなんで装備が必要なんだ??」

「ハラスメントですぅ」


泣き言を言いながら、私は改めて、隣に立つリナさんの装備に目を向けた。

彼女の装備は、いつ見ても独特なバランスだ。


胸と肩を堅牢に守る青い装甲は、まるで美しい青空を切り取ったかのようで、戦士としての強靭さを象徴している。


しかし、その強固な上半身に対し、下半身は驚くほど軽やかだ。白い布地のスカートと、丈夫なニーハイブーツの間からは、太ももから先の素肌が覗いている。

 

戦う者の装いでありながら、その軽やかさと白と青のコントラストが、どこか可憐な印象を与えていた。


「じゃあアオイちゃん、まずは採寸だ。そこにある台に上がって、脱いでくれ」

 

おやっさんが、当然のようにメジャーを手にしながら言った。


「えっ? 脱ぐ、ですか?」

「当たり前だろ。服の上からじゃ正確な寸法は測れねえ。下着姿になってもらうぞ」

「コ、コンプライアンス……!!」

 

前世の事務員としての理性が、一瞬にして崩壊した。いや、女性として。

下着姿で、しかも異性の前で採寸!?


「アオイ、何恥ずかしがってるの? 防具を誂える時は当然でしょ!」

 

リナさんは不思議そうな顔をして、私の肩をポンと叩いた。

彼女にとっては、これは戦う準備として当たり前の行為なのだ。


「ほら、さっさと脱げ。お前の体のズレを見極めねえと、動きやすい装備は作れねえ」

 

アンドレさんの眼帯の奥の瞳には、一切の邪気はなく、ただ冷徹なまでの「職人のプロの目」があった。


恥ずかしがっている方が、彼のプロ意識に対して失礼になる。

そんな空気が、私を包み込んでいた。


「ううう……申し訳ございません……!」

 

私は赤面し、羞恥心に震えながら、事務作業用の布服を脱いだ。

下着姿になり、採寸台の上に立つ。

冷たい空気が肌に触れ、心臓がバクバクと早鐘を打った。


いや、ここは前世じゃない。

郷に入っては郷に従え。

この世界の常識にルールにマナーがあるんだ。


「動くなよ……。肩幅、胸囲、ウエスト……ふむ、体幹はしっかりしてるが、やっぱり筋肉が足りねえな」

 

アンドレさんは無表情で、淡々と、しかし素早くメジャーを走らせていく。

その動きには長年の経験からくる「手癖」のような滑らかさがあった。


「あの、アンドレさん。その……リナさんの脚が出る格好も、その……実用的な理由があるんですか?」

 

私は採寸の気まずさを紛らわせるために、ずっと気になっていたリナさんの装備について聞いてみた。


「当然だ。戦場での見栄えだけで命は守れねえからな」

 

アンドレさんの代わりに、店内のカウンターの上に陣取っていた大きなカメの幻獣――魔導具の案内役らしい――が、低い、やけに渋い男の声で答えた。


「あの青い装甲は、魔力を通しやすい『ミスリル銀』を薄く伸ばしたものだ。だが、全身を装甲で覆うと、魔力の循環。呼吸や血流の巡りを邪魔しちまう。下半身を布と革にすることで、全身の巡りを円滑にし、かつ軽量化を図っている。そして素肌を出すのは、空気中の魔力を直接皮膚から感じ取り、回避行動の精度を上げるためだ。戦士としての機動力と感覚の精度を、極限まで高めた結果ってわけさ」


「そういうこと! 私の剣は、この軽やかさが命だからね!」

 

リナさんが誇らしげに胸を張る。なるほど、数値化されない強さを競うこの世界では、皮膚感覚までもが実用的な防御の一部なのだ。


「さて、アオイちゃん。あんたに必要なのは、直接攻撃を防ぐ甲冑じゃなく、環境からの保護と魔法の親和性だ。どうせ剣だの槍だの振るうわけじゃねえだろ」

 

採寸を終え、私が逃げるように服を着直していると、アンドレさんが奥から一着の装束を取り出してきた。


それは、私の想像とは全く違うものだった。

黒と深い青を基調とした、優雅な装束。

ローブのようでもあり、外套ケープのようでもある。


しかし、その重厚な上半身のデザインに対し、外套の下からは白い脚が静かに覗くようなスリットが入っていた。


その姿は、神聖な修道女にも、気品あふれる貴婦人にも見え、同時にどこか人ならぬ神秘を帯びていた。


「これ……ですか?」

 

私がそのローブを受け取ると、黒い生地は驚くほど滑らかで、深い青のケープには、夜空を映したような金の装飾が施されていた。


「あの、アンドレさん。このローブ、スリットから脚がかなり出ますよね? 泥はねスライム討伐には、ちょっと……それに、このファッションは、その……赤面モノです!」

 

前世でこんな格好をしてオフィスを歩いたら、一瞬で二度目のコンプライアンス違反だ。


「バカ言え。これは『水精霊の加護』を受けた糸で織られている。泥や水、スライムの体液を完璧に弾き、常に清潔を保つ。前衛で戦わねえあんたには、汚れないことが何より重要だろ」


「汚れない、ですか」


「ああ。そして脚が出る理由だが、これは『魔力の放熱口』だ。あんたは生活魔法を頻繁に使うが、体内の魔力循環がまだ慣れちゃいねえ。ローブにこもった余剰魔力を、脚のスリットから外部へ逃がすことで、魔力酔いを防ぐんだ」


「その通りだ。あんたのような魔法の素人には、その放熱口が生命線になるぜ」

 

カウンターのカメの幻獣も、渋い声で同意した。

職人ならではの、完璧に納得のいく、実用的な理由。理屈を聞けば納得せざるを得ないけれど……やっぱり、このファッションは赤面モノです。


「よし、装備も揃ったし、さっそくスライム討伐に出発だー!」

「はいはい。ちゃんと足元見て歩かないと、また転びますよ、リナさん」

 

すっかりお揃いのような青を基調とした装備になり、元気いっぱいに店の扉を開けて駆け出すリナさん。

私は新しいローブの裾を揺らし神秘性と羞恥心を同時に抱えながら、王都の石畳に心地よい足音を響かせた。

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