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第11話:とんでもない大魔術を行使した大魔導士様

王都の喧騒を背に西の街道を歩くこと、およそ一時間。

 

私の足元を包む新しい革のブーツは、驚くほど歩きやすかった。

硬い石畳から、わだちの残る土の道へと変わっても、しっかりと地面を捉えて滑らない。歩き慣れない長距離の移動でも、足の裏に伝わる疲労感が劇的に少なかった。


(さすがはプロの職人さんの仕事……これなら、どこまででも歩けそう)

 

私は深い青と黒のローブの裾を軽く揺らしながら、少しだけ弾むような足取りで進んでいた。

しかし、のどかな青草の香りが漂っていた風の匂いが、徐々に「生臭い泥の臭い」へと変わっていくのを感じて、私はハッと現実に引き戻された。


「アオイ、あそこ! おばあちゃんの畑!」

 

前を歩いていたリナさんが、街道から少し外れた農地を指差して叫ぶ。

そこには、腰を抜かして震えている白髪の農家のおばあちゃんと――その目の前に立ちはだかる、異様な光景があった。


「えっ……あれが、『泥はねスライムの群れ』……ですか?」

「おかしいな。普通は膝くらいの大きさの泥の塊がポロポロいるだけなんだけど……」

 

リナさんも剣の柄に手をかけながら、目を丸くしている。


広大な畑の中央で蠢いていたのは群れというよりも、もはや一つの『巨大な泥沼の波』だった。小さな泥はねスライムたちが合体し、互いの泥と魔力を絡み合わせて、見上げるほどの一つの巨大な塊へと変貌していたのだ。

 

ドプン、ドプンと不気味な音を立てながら作物を飲み込み、周囲に茶色い泥を撒き散らしている。


「おばあちゃん、危ない! 下がって!」

 

リナさんが地面を蹴り、おばあちゃんと巨大スライムの間に割って入るように飛び出した。

彼女は青い装甲を輝かせ、鋭い踏み込みと共に長剣を一閃する。

――ズバァンッ!

見事な剣筋がスライムの胴体を両断した。

しかし、手応えのない泥の怪物は、斬られた端からドロドロと癒着し、瞬く間に元通りの姿に戻ってしまう。


「くっ、物理攻撃が効きにくい……! それに!」

 

リナさんが舌打ちをした瞬間、巨大スライムがブルンと震え、反撃とばかりに大量の泥の飛沫をシャワーのようにばら撒いた。

泥の弾はリナさんの青い装甲を叩き、何より最悪なことに、彼女の足元の乾いた土を一面の「ぬかるみ」へと変えてしまったのだ。


「きゃっ……!」

 

ズルリ、とリナさんのブーツが滑る。

踏み込みが利かず、体勢が崩れる。

私が安全な後方から「リナさん、右の石の上が安全です!」と『足場の指示』を出そうとした、まさにその時だった。


ビチャッ!!


「うわっ! 目が、前が見えないっ……!」

 

無情にも、二発目の泥の飛沫がリナさんの顔面に直撃した。

視界を奪われ、足場を失った前衛。

私がどれだけ的確な指示を出そうとも、目が見えなければ動くことはできない。


「リナさん!」

 

私が慌てて駆け寄ろうとした隙を突き、巨大スライムはそのドロドロの巨体をうねらせ、今度は後方にいる私とおばあちゃんへと明確なヘイトを向けた。

 

ゴボゴボと音を立てながら、頭上から無数の泥の弾が、散弾銃のようにこちらへ降り注いでくる。


(あ、やばい!)

 

前世の非力な事務員の悲しい性か。

私はとっさに「ひぃっ!」と声を上げ、頭を抱えてその場にしゃがみ込もうとしてしまった。回避も防御もできない、《《最も泥を被る「最悪の被弾ルート」》》だ。


その瞬間。

 ――ピタッ。

私の中に深く根付いたスキル、『反復拒否リフューザル』が静かに、しかし強烈に発動した。


「え?」

 

しゃがみ込もうとした私の膝が、空中でピタリと止まる。

 

そして、私の意志とは全く無関係に、体がスッと右へ一歩滑り出た。

飛んできた泥弾の隙間を縫うように、次は左へ半歩。最後に、ローブの裾をふわりと翻すようにクルリと華麗なターンを決める。

 

まるで謎の社交ダンスのような優雅で最小限のステップで、私は降り注ぐ泥の弾をすべて回避してしまった。


(あっ、体が勝手に避けた!? な、なにこの無駄に優雅なポーズ……!)

 

回避しきれなかった数滴の泥が私のローブに飛んできたが生地に触れた瞬間、アンドレさんの言っていた『水精霊の加護』が働き、泥はまるでガラスの上を転がる水滴のようにスルスルと弾かれて地面に落ちた。

 

私は全くの無傷、汚れ一つない状態でおばあちゃんの前に立ち塞がっていた。


「……ちょっと待って」

 

強制的なステップを踏まされたことで、私の頭は逆にひどく冷静になっていた。

目の前でドプンドプンと威嚇してくる巨大な泥の怪物。

前世の事務作業で培った「問題の本質を見極める」観察眼が、その構造を論理的に分解していく。


(こいつら……魔力で泥を集めて、形を保っているだけよね。要するに、ただの

『ひどく汚れた泥水』じゃない?)

 

なら、汚れと魔力を『分離』してしまえばいい。


この世界には、数値を消費する攻撃魔法なんてない。あるのは生活の延長線上にある、感覚の精度だ。

私は右手を、巨大スライムに向けてスッと真っ直ぐにかざした。

毎朝宿屋で顔を洗う時に使う、あの生活魔法『清浄化』を、目の前の巨大な洗濯物に向けて全力で使うイメージを頭に描く。


「――綺麗に、なってください」


私の手から、静かに魔力が放たれた。

ドクン、と巨大スライムが大きく脈打つ。

直後、スライムの内部で信じられない光景が起きた。

 

どろどろに濁っていた茶色い泥水の中から、細かな土や不純物が、まるで透明なフィルターを通したように強制的に分離され始めたのだ。

 

スライムが悲鳴のような音を立てるが、止まらない。

『清浄化』の魔法は、魔物としての魔力を不純物とみなし、泥から一気に引き剥がしていく。

 

茶色かった巨体は、足元からみるみるうちに透き通った水へと変わり、結合を失った土の塊と魔力の残滓がボロボロと地面に崩れ落ちた。

ものの数秒。

見上げるほどだった巨大な泥の怪物は、ただの『綺麗で無害な澄んだ水』となり、ザァァッと音を立てて、乾いていた農地の土へと優しく吸い込まれていった。


「……ふぅ」

 

一仕事を終え、かざしていた手を下ろす。

しかしその直後、私の体の中で、急激に使った魔力が熱を持ち、カッと暴れそうになるのを感じた。


これが、魔力に慣れていない者が陥る「魔力酔い」の前兆だ。

熱い。息が苦しくなる。

そう思った瞬間だった。


――プシューッ。

 

私の着ているローブの深いスリットから、白い脚のラインを伝うようにして体内にこもった熱が純白の蒸気となって静かに放出された。

アンドレさんが誂えてくれた、魔力の放熱口。

それが完璧に機能し、私の魔力循環を瞬時に正常化してくれたのだ。

熱が抜け、心地よい涼しい風が私の頬を撫でた。


「……あ、アオイ……」

 

顔の泥を布で拭い、ようやく視界を取り戻したリナさんが、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。

腰を抜かしていたおばあちゃんも、信じられないものを見るような目をしている。

 

それもそのはずだ。

夕暮れの光の中、真っ直ぐに手をかざし、足元から白い蒸気を神秘的に纏いながら立つ黒と青のローブ姿の私は、どう見ても『とんでもない大魔術を行使した大魔導士様』そのものだった。


「す、すごい……! アオイ、あんな一瞬で巨大スライムを消し飛ばすなんて……魔法の天才じゃん!!」


「おおお……大魔導士様……! 畑の土まで、すっかり綺麗な水で潤っておる……ありがたや、ありがたや……!」

 

興奮したリナさんとおばあちゃんが、私に向かってブンブンと手を合わせ、拝み倒し始めた。


「ち、違います! 大魔導士なんかじゃありません! これはただの生活魔法で……っ!」

 

私は慌てて否定しようとしたが、二人のキラキラとした尊敬の眼差しに押し切られ、言葉が続かない。ただただ洗濯をしただけとは到底言えない。


(違うんです、ただの巨大な洗濯をしただけなんでしゅ……あっ、噛んだ。心の中なのに!!)

 

内心で涙目になりながら、私は神秘的なポーズのまま、ピクピクと引きつった笑顔を浮かべることしかできなかった。


初めての実戦(?)デビューは、完璧な装備と事務的な生活魔法のおかげで、圧倒的な大勝利を収めた。けれど、私の「お手頃価格のしがないなんでも屋」という肩書きは、ますます怪しい方向へと向かいつつあるのだった。

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