第88話:アドレナリンドバドバ
馬車の車輪が石畳を叩く「カラコロ」という小気味よい音が、夕暮れの空に響き渡る。
王都からテルマ村へ続く街道の各ポイント(チョークポイント)に、魔物除けのランタンを慎重に設置しながらの帰還だったため、私たちが王都の巨大な城門をくぐったのは、出発して三日目の夕方頃だった。
オレンジ色に染まる王都の街並みは、人々の活気と馬車の行き交う喧騒に満ちている。
「一ヶ月ぶりですね……。空気が少し、王都の『忙しさ』を帯びている気がします」
私は御者台の横から顔を出し、懐かしい街の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
限界集落のようだったテルマ村での、静かで穏やかなスローライフ。
そこから一転して、経済の中心地である王都の空気に触れると否が応でも「ビジネスの最前線に帰ってきた」という実感が湧いてくる。
「アオイ、見えたよ! 私たちの事務所!」
リナさんが嬉しそうに指を差した先には、見慣れた『アリフィ商会』の小さな看板が夕日に照らされていた。
馬車を停めると、若葉の剣の三人(レオ君、カイト君、ミャーちゃん)が、荷台からテルマ村の「美容泥」と「薬草」が詰まった木箱を次々と事務所の中へ運び込んでくれた。
「ふぅ、これで全部だな!」
額の汗を拭ったレオ君が、私に向かって深々と頭を下げた。
「教官、俺たちは一時ここで失礼します。でも、このプロジェクトが完了するまで、俺たちは『アリフィ商会専属の護衛』ですから。テルマ村へまた出発するときは、いつでも連絡をください!」
「ええ、頼りにしていますよ。皆さんもゆっくり休んでくださいね」
すっかり頼もしくなった彼らの背中を見送り、私たちは一ヶ月ぶりに自分の事務所の扉を開けた。
長期間留守にしていたため、さぞ埃まみれになっているだろうと覚悟していたのだが――。
室内は驚くほどピカピカに磨き上げられ、淀んだ空気など微塵もなかった。
「お、帰ったのか。おかえり」
奥の部屋から、箒を手にした女性が姿を現した。
王都で『ヴァルキュリア工房』を営む若き建築職人の親方であり、アリフィ商会の提携パートナーでもあるイリスさんだった。
彼女はいつもの作業着を腰で縛り、上半身はノースリーブのシャツ一枚。
下は動きやすいショートパンツという、かなりラフで涼しげな格好をしていた。
掃除でかいた汗が、身長一七〇センチを超えるしなやかな筋肉と、健康的なデコルテでキラキラと光っている。
(イ、イリスさん!! なんて大胆な! 美しい!!)
私の限界事務員としての理性が、あわや吹き飛びそうになる。
ただでさえ凛とした顔立ちの彼女が、無防備に肌を晒して汗ばんでいる姿は、同性の私から見ても破壊力抜群だった。
「イリスさん! 掃除ありがとうございます!!」
私が慌ててお辞儀をすると、イリスさんは照れくさそうに頭を掻いた。
「お前たちには世話になってるからな。このくらいわけないさ。……それより、随分と大荷物じゃないか。田舎の村おこしって聞いてたが、何か面白いモンでも見つけたのか?」
「ふふふ。イリスさん、これを見てください」
私は木箱を開け、フィナさんが小分けにしてくれた『シラユキ草ブレンドの美容泥パック』の小瓶を取り出し、イリスさんに手渡した。
「テルマ村の特産品、極上の美容泥パックです。イリスさんも女性ですから、きっと気に入りますよ。試作品のプレゼントです」
「美容泥? 私は毎日石や泥を積んでる建築職人だぞ、そんな貴族の女が喜ぶようなもん……」
そう言いながらもイリスさんは手の甲にほんの少し泥を塗り、魔法で出した水でサッと洗い流した。
――次の瞬間。イリスさんの目が、これ以上ないほど見開かれた。
「なっ……なんだこれ!? 手の甲の小傷が消えて、肌が……内側から発光してるみたいにツヤツヤに……! 石灰の粉でガサガサに荒れてたのが嘘みたいだ!」
「すごいでしょう?」
「あ、ああ……すごい。これ、本当に私なんかがもらっていいのか……?」
男勝りな凄腕の石工・建築職人でありながら、一人の乙女のような顔をして自分の手を見つめるイリスさん。
その完璧な「顧客第一号の反応」を見て、私は私たちの商品の成功を確信した。
*
イリスさんがホクホク顔で帰宅した後。
すっかり夜の帳が下りた事務所に、コトコトとお湯の沸く音が響いていた。
フィナさんが淹れてくれたハーブティーの湯気が、卓上のランプの光に照らされて揺れている。
「……リナさん、フィナさん」
私はハーブティーを一口飲み、目の前に真新しい羊皮紙とインク瓶を用意して二人を見た。
「はいっ!」
「なんだい、アオイ?」
「お二人とも……今日は帰る気、起きませんよね?」
私の問いかけに、二人は顔を見合わせニカッと満面の笑みを浮かべた。
「「もちろん!」」
本来、定時退社とホワイトな労働環境を至上命題とする私にとって残業など親の仇のようなものだ。
しかし、今の私は違う。
前世の「上司にやらされる理不尽な残業」ではなく、自分たちのプロジェクトを成功させるための「自主的で熱意に満ちたラストスパート」なのだ。
脳内にはアドレナリンがドバドバと分泌され、疲れなど微塵も感じなかった。
「よし! では明日の王城プレゼンに向けて、資料の最終仕上げに入ります! フィナさんは、美容泥の成分分析データと、このユニバーサルデザインのボトル見本の最終チェックをお願いします。誰が見ても安全で使いやすいことを証明できるように」
「はいっ! 治癒士としての知見もまとめておきます!」
「リナさんは、カイト君たちが作った『ハザードマップ』を元に、流通チャネル(街道)の安全性報告の整理を。魔物除けのランタンがどれだけ効果を発揮しているか、現場の護衛目線での意見をまとめてください」
「任せて! ばっちり書き出しておくよ!」
「そして私は……この事業がいかに王室に利益をもたらすか、テルマ村の経営再建プラン(ROI予測)を『プレゼン資料』として完璧に清書します!」
カリカリカリッ、とペンが羊皮紙を走る心地よい音が、夜の事務所に響き渡る。
インクの匂い、紙の擦れる音、仲間たちとの息の合った連携。
私たちは夜遅くまで、極上のアドレナリンに身を任せながら、世界で一番楽しくて、熱い残業を駆け抜けたのだった。
*
翌朝。
美しく晴れ渡った王都の空の下、私たちは王城の高く重厚な門をくぐっていた。
私、リナさん、フィナさんの三人は、いつもの魔導士ローブや現場作業の服ではなくアリフィ商会の正式なフォーマルウェア――つまり、私の前世の『限界事務員スタイル(タイトなスカートと白いブラウス)』を基調としながらも、上質な生地で仕立てられた一張羅に身を包んでいる。
「アオイ殿。準備はよろしいかな」
「はい、ラインハルトさん。完璧です」
案内役を務めてくれる王室近衛騎士のラインハルトさんに連れられ、私たちは磨き上げられた大理石の廊下を進んでいく。
テルマ村の長閑な空気とは正反対の、ピリッと張り詰めた「政治と経済」の空気が、肌を刺すように伝わってくる。
「こちらです。陛下と、各省の重鎮たちがお待ちです」
ギィィッ、と重々しい音を立てて、会議室(小謁見の間)の巨大な両開きの扉が開かれた。
室内には、巨大な長テーブルが置かれ、その最奥には、この国の頂点であるリュミさん。ではなく、国王リュミエール陛下が威厳に満ちた姿で座っていた。
そしてその両脇には、国の予算を握る財務大臣、お堅い表情の高級文官たち鋭い目つきでこちらを値踏みするような重鎮たちが、ずらりと肩を並べている。
「ひっ……」
隣で、フィナさんが小さく息を呑み、膝をガクガクと震わせた。
「う、嘘でしょ……こんなの、オーガの群れより怖気立つんだけど……」
数々の死線を潜り抜けてきた武闘派のリナさんでさえ、顔面を蒼白にして震えている。
無理もない。
一介のなんでも屋が、国のトップ層全員を相手に商談を行うなど、常軌を逸したシチュエーションなのだ。
私自身も、バインダーを握りしめる手が白くなるほど緊張していた。
心臓が早鐘のように打ち、手にはじっとりと汗が滲む。
(……落ち着け、私。深呼吸です)
私はゆっくりと息を吸い込み、限界事務員としての思考回路を強制的に起動させた。
(ターゲットは特定済み。プレゼン資料は完璧。商品の品質はイリスさんが証明してくれた。……何も恐れることはありません。これはただの、ちょっとスケールの大きい『稟議』です)
私はバインダーを胸に抱き直し重鎮たちの鋭い視線を正面から受け止めながら、リュミエール国王陛下に向かって、凛と一歩を踏み出した。
ガチガチに固まったリナさんとフィナさんを引き連れて。
限界事務員による、国のトップを相手取った世界一の『提案営業』が、今、幕を開けようとしていた。




