第87話:私のコア・コンピタンス
切り立った崖に挟まれた薄暗い切り通しに、パチパチと薪がはぜる心地よい音が響いている。
ギルさん――巨大な天狐が放った規格外の一撃によって、岩盤にめり込んだ暴緑の森鬼は、完全に息の根を止めていた。
「レオ君、本当に大丈夫ですか? 頭は痛くないですか?」
「あぁ、全然平気だ! フィナさんの治癒魔法と、アオイ教官が持たせてくれたポーションのおかげで、ピンピンしてるぜ!」
吹き飛ばされて岩壁に激突したレオ君だったが、フィナさんの迅速な『ダメージコントロール(治癒魔法)』のおかげで、後遺症もなく無事に意識を取り戻していた。
私たちは予定通り、その場に特製ランタンを設置し、日が完全に落ちたため少し離れた安全な岩陰で夜の野営を張ることにした。
焚き火を囲み分厚い鉄鍋でコトコトと煮込んだ干し肉と野菜のスープを木の器でいただく。湯気と共に、塩とハーブの素朴で温かい匂いが鼻腔をくすぐった。
「それにしても、あのバケモノ相手に一瞬でも陣形を保てた俺たち、すごくないか?」
「うんっ! 私、足がガクガクだったけど、ちゃんと詠唱できたよ!」
「俺も、教官に言われた通り死角を潰せたしな」
温かいスープを飲みながら若葉の剣の三人は焚き火の明かりに照らされた顔で、自分たちの成長を前向きに喜んでいた。
以前の彼らなら、何の作戦もなく突っ込んで全滅していたかもしれない。
彼らは間違いなく、冒険者として確かなステップアップを遂げていた。
けれど、私は自分のマグカップを両手で包み込んだまま、ただじっと揺れる炎を見つめていた。
(……私は、何をしているのでしょう)
前世の限界事務員としてのトラウマが、黒い泥のように心の奥底から湧き上がってくる。
残業代の出ない深夜のオフィス。
パソコンのモニターの青白い光。
背後から聞こえる上司の冷たい声。
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ』
『事務なんて、誰にでもできる底辺の仕事だろ。言われた通りにハンコだけ押してろ』
ビジネス用語で言うところの『インポスター症候群(詐欺師症候群)』だ。
自分の能力や実績を肯定できず、周囲から過大評価されていると感じ、いつかメッキが剥がれるのではないかと恐れる心理状態。
前世で植え付けられたその呪いは、異世界に来てからも私の心の深い部分にこびりついて離れなかった。
「……ごめんなさい」
気づけば、ポツリと私の口から声が漏れていた。
「え? アオイ、どうしたの?」
隣に座っていたリナさんが、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「ごめんなさい……私が皆を、こんな危険に巻き込んで。肝心な時に、私は何もできなかった……っ」
声が震えた。
マグカップを握る手に、力がこもる。
「リナさんみたいに、剣でみんなを守ることもできない。フィナさんみたいに、魔法で傷を治すこともできない。カイト君みたいに素早く動けないし、ミャーちゃんみたいに攻撃魔法も使えない……」
「ア、アオイさん……?」
フィナさんが心配そうに私の背中に手を添える。
でも、私は止められなかった。
「私がやってきたことなんて、しょせん安全な机の上での事務作業です。書類を作ったり、段取りを組んだり、バインダーに文字を書いたり……そんなの、本当は誰にだってできること(代替可能な歯車)なのに……私がいなくても、みんななら……!」
「誰でもできるわけないでしょ!!」
ドンッ、とマグカップが地面に置かれ、次の瞬間、私は強く、力強く抱きしめられていた。
リナさんだった。
彼女の温かい体温と、少しだけ焦げたような野営の匂いが私を包み込む。
「リナ、さん……?」
「アオイがいなかったら、私はずっと空回りして、誰にも必要とされないまま冒険者を辞めてた。アオイが、私の剣の『使い道』を教えてくれたんじゃない!」
リナさんの声は、少しだけ怒っていて、でもとても優しかった。
「私だってそうです!」
フィナさんが、私の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「私に、『治癒士としてじゃなく、開発者になりたい』っていう夢を持たせてくれたのは、アオイさんです。アオイさんが私の薬瓶を褒めてくれたから、私、今の自分が大好きになれたんです!」
涙で視界が滲む中、少し離れた場所にいる男性陣――レオ君、カイト君、そして私の膝に戻ってきたギルさんの姿が見えた。
彼らは言葉を発することはなかった。
けれど、レオ君は焚き火に薪をくべながら優しく微笑み、カイト君は肩をすくめている。
ギルさんは『くだらねえことで泣いてんじゃねえぞ』とでも言うように、大きなあくびをして私の膝に丸くなった。
彼らの無言の態度は、私への絶対的な信頼を示していた。
「私たちだけじゃない。パン屋のボルクさんも、魔導具職人のローガンさんも……テルマ村のガンツ村長だって。アオイの『事務作業』があったから、みんな前を向けたんだよ」
リナさんが、私の頭を優しく撫でる。
「アオイの『誰にでもできる』って思ってるその力は、私たちにとっては何より頼もしい、アオイにしかできない魔法なんだから」
――企業が持つ、他社には絶対に真似できない核となる強み。それをビジネス用語で『コア・コンピタンス』と呼ぶ。
私のコア・コンピタンスは、剣の腕でも魔法の才能でもない。
他人のズレを見抜き、適材適所に配置し全員が最高のパフォーマンスを発揮できる環境(ホワイトな労働環境)を整えること。
神様は私に『反復拒否(同じ失敗を繰り返せない)』というスキルを与えた。
私はずっと、それを「自分自身がミスをしないための、窮屈な呪い」のようなものだと思っていた。でも、本当は違ったのだ。
起きてしまった失敗の原因を分析し、二度と同じ過ちや悲劇を繰り返さないように「仕組み化」すること。
致命的な失敗を未然に防ぎ、仲間たちが安心して間違え、学び、次へ進めるセーフティーネットを作ること。
この『異世界生活』において、私という存在そのものが、みんなを正しい方向へ導くためのシステムなのだ。
「う、あ……あぁぁっ……!」
前世で否定され続け、自分でも無価値だと思い込んでいた「事務員」としての私を、異世界の仲間たちが真っ向から肯定してくれた。
その事実が、私の心にかけられていた呪いを、音を立てて砕き割った。
「わぁぁぁぁぁんっ……! 怖かった、怖かったですよぉ……! みんなが死んじゃったらどうしようって……っ!」
私は、リナさんの胸に顔を押し付け、声を上げて泣きじゃくった。
前世からずっと押し殺してきた、弱い自分の感情。
張り詰めていた糸が切れ、私はただの「後藤葵」として、ありったけの涙を流し続けた。
リナさんは何も言わず、ただずっと私を力強く抱きしめていてくれた。
*
翌朝。
チュン、チュンという小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。
岩陰から顔を出すと、森の木漏れ日がキラキラと輝き、朝のひんやりとした清々しい空気が肺を満たす。
思い切り泣いたせいで少し目は腫れていたけれど、私の心はまるで憑き物が落ちたようにスッキリと晴れ渡っていた。
心のデトックスが完了した気分だ。
「おはよう、アオイ。目、真っ赤だね」
「ふふっ、アオイさん、冷たいお水で顔を洗いましょうか」
朝食の準備をしていたリナさんとフィナさんが、私を見てクスクスと笑う。
「……おはようございます。お見苦しいところをお見せしました」
私は少し恥ずかしくなりながらも、冷たい湧き水で顔を洗い、いつもの限界事務員の仮面……いや、大切な仲間たちを導く「プロジェクトマネージャー」としての顔を引き締めた。
「教官、出発の準備できてます!」
「おう! いつでもいけるぜ!」
馬車の手綱を握るレオ君とカイト君が、元気よく手を振る。
「皆さん、ありがとうございます」
私はバインダーを抱え、全員の顔を見渡して、心からの笑顔を向けた。
「さあ、安全な流通チャネル構築のタスク(ランタン設置)、再開しますよ! 王都の顧客が、テルマ村の商品を待っています!」
「「「おうっ!!」」」
私たちは馬車に乗り込み、再び街道へと走り出した。
自分の『真の価値』を理解し、仲間との絆をさらに深めた限界事務員の足取りに、もう迷いはなかった。
荷台に積まれた希望の商品と共に、私たちの馬車は、王都へ向かって力強く進んでいくのだった。




