第86話:業務範囲外
「グルルォォォォォォォォッ!!!」
暴緑の森鬼の咆哮が、ビリビリと空気を震わせる。
通常のオーガの三倍はあろうかという巨体。
全身を覆う苔むした樹皮のような分厚い筋肉。
その圧倒的なプレッシャーを前に、馬車の馬は完全に脚をすくませて座り込んでしまっていた。
「俺が前衛でヘイトを稼ぐ! カイトは側面に回れ! ミャー、出し惜しみはなしだ、最大火力の詠唱を始めろ!」
「了解!」
「いくよっ、『風の巡りよ、刃に宿れ』!」
馬車の前に躍り出た若葉の剣の三人が、私の教え通りの完璧な『ホーレンソウ』で陣形を展開する。
身軽なカイト君が側面の岩壁を蹴って跳躍し、オーガ・ロードの視界を奪うように投げナイフを連射する。
それに気を取られた隙を突き、ミャーちゃんの風魔法で極限まで加速したレオ君の大剣がボスの太い足首めがけて渾身の力で振り下ろされた。
ガァァンッ!! という、硬い岩を叩いたような鈍い音が響き渡る。
「なっ……!?」
レオ君が驚愕に目を見開いた。
彼の渾身の斬撃は、ボスの樹皮のような皮膚に浅い傷をつけただけで、完全に弾き返されていた。
(そんな……! 彼らの連携は完璧です。各々の役割も果たしている。なのに、相手の『力』が違いすぎる……!)
ビジネスにおいて、いくら優れた戦略を立てても、圧倒的な資金力を持つ大企業に真正面からすり潰されることがある。
目の前の光景は、まさにその理不尽な暴力の具現化だった。
「グガァッ!!」
鬱陶しい羽虫を払うかのように、オーガ・ロードの丸太のような豪腕が無造作に振り抜かれた。
「しまっ――」
「レオ君っ!!」
咄嗟にレオ君が大剣を盾にした瞬間。
馬車から身を乗り出したフィナさんが「『大地の盾よ』!」と物理耐性アップの付与魔法をかけた。
だが、それでも威力を殺しきれず、レオ君の体はボールのように弾き飛ばされ岩壁に激突して動かなくなった。
「レオ!!」
カイト君が悲痛な叫びを上げる。
「カイト君、前衛の穴を埋めて! 私がレオ君を診ます!」
フィナさんが医療カバンを抱えてレオ君の元へ駆け寄り、即座に治癒魔法を展開する。事態の悪化を防ぐ、完璧な『ダメージコントロール』だ。
大剣と付与魔法のおかげで致命傷は免れたようだが、意識を手放しており前線復帰は不可能だった。
「私がいくっ!」
前衛の穴を埋めるべく、リナさんが長剣を抜いて躍り出た。
彼女は力任せに突っ込むことはせず周囲の崖や折れた倒木(地形)を冷静に観察しながら、オーガ・ロードの大振りの攻撃を紙一重で躱し、関節の隙間などの急所を的確に狙って斬りつけていく。
カイト君とミャーちゃんも必死に牽制の援護を行う。
だが、それでも決定打にはならない。
相手の体力が膨大すぎて、削っても削っても底が見えないのだ。
戦況は完全に、ジリ貧(赤字状態)へと陥っていた。
(どうすれば……どうすればいいんですか……!)
馬車の窓枠を握りしめる私の手は、白く震えていた。
頭の中で、前世と今世の知識をフル回転させる。
しかし、いくらスプレッドシートの関数を組めても、完璧な事業計画書を書けても、この圧倒的な物理的暴力の前ではただの紙屑だ。
――ガツンッ!!
「きゃああっ!?」
オーガ・ロードの巨大な足踏みによる衝撃波を喰らい、リナさんがバランスを崩して地面を転がった。
「リナさんっ!!」
「グオォォォッ!」
リナさんが立ち上がるより早く、濁った赤い瞳が、後衛のカイト君、ミャーちゃん、そしてレオ君の治療にあたっているフィナさんたちへと向けられた。
巨大な両腕が、天高く振り上げられる。
あの一撃が振り下ろされれば、彼らは跡形もなくすり潰されてしまう。
(私が……私が、あの子たちをこのプロジェクトに巻き込んだのに! なのに私は、こんな一番重要な現場で、一番の役立たずじゃないですか……!!)
理屈も計算も消え失せた。
ただ、「私の大切な社員と教え子たちを守らなければ」という感情だけが限界事務員の体を突き動かした。
「やめてえええええっ!!」
私は大粒の涙をこぼしながら、馬車の扉を蹴り開け彼らを庇おうと無我夢中で外へ飛び出した。
丸腰の私が出たところで何ができるわけでもない。
そんなことは分かっている。
それでも、体が勝手に動いていた。
――その瞬間。
「おい社長。どうやら、アンタの書類仕事の出番はねえみたいだな」
「……ギル、さん?」
「ここからの事態は、完全に「業務範囲外」だ」
小狐幻獣のギルさんは、振り下ろされようとしている巨大な拳を真っ直ぐに見上げながら、ニヤリと獣の笑みを浮かべた。
「……あとで特段ボーナス、弾めよ」
ドォォォォォォンッ!!!
その言葉と共に、ギルさんの小さな体が、周囲の空気をビリビリと、オーガ・ロードの威圧すらも上書きして震わせるほどの、眩い純白の光と膨大な魔力に包まれた。
「な、なんだ……!?」
カイト君が腕で顔を覆う。
吹き荒れる魔力の突風の中、光が晴れた後に現れたのは――。
フォレスト・オーガ・ロードと同等。
いや、それ以上の巨体を誇る、神々しい白銀の獣だった。
空を衝くように伸びた、九本の巨大なふさふさの尾。
ルビーのように紅く輝く鋭い双眸。
幻獣ギルの真の姿。
伝説に語られる大妖狐、『天狐』の顕現だ。
「ギル、さん……?」
私が呆然と呟く中、巨大な天狐は、オーガ・ロードが振り下ろしてきた丸太のような両腕を、九本の尾のうちの一本だけで「バチンッ!」と容易く弾き返した。
「グ……ギャァァッ!?」
オーガ・ロードが、信じられないものを見るような目で悲鳴を上げ、たたらを踏む。
『他人の敷地でデケェ顔してんじゃねえぞ、若造』
天狐の口から、低く、地鳴りのような念話が響いた。
次の瞬間。巨大な白い獣の体がブレたかと思うと、圧倒的な質量とスピードを伴った前足の一撃が、オーガ・ロードの腹部に深々と突き刺さった。
ドゴォォォォンッ!!
オーガの巨体が、まるでただの小石のように宙を舞い、切り通しの岩壁を粉砕しながら数十メートル先まで吹き飛ばされた。
岩盤にめり込んだオーガ・ロードはピクピクと痙攣した後、完全に白目を剥いて意識を手放した。
たったの一撃だった。
舞い上がった土煙が、夕の風に乗ってゆっくりと晴れていく。
圧倒的な光景を前に、カイト君も、ミャーちゃんも、リナさんでさえも、ただ口を開けて唖然とするしかなかった。
「ふん。これで文句はねえだろ、社長」
巨大な天狐の姿がシュルシュルと縮み、いつもの小さな子狐の姿に戻る。
ギルさんは何事もなかったかのようにパタパタと体をブルって埃を落とすと、トコトコと私の足元まで戻ってきた。
「ギル、さん……」
張り詰めていた糸が切れたように、私はその場にへなへなと座り込んだ。
土の冷たさがスカート越しに伝わってくる。
「……良かった。本当に、みんな無事で……良かった……」
私はポロポロと涙を流しながら、足元のギルさんを両手でしっかりと抱きしめた。温かくて、柔らかい、いつものモフモフの感触だった。
「アオイ……!」
リナさんが駆け寄ってきて、私の背中をさすってくれる。
ビジネススキルが一切通用しない、命のやり取りという異世界のリアル。
自分の無力さを痛感しつつも、私は、規格外の「特例措置」を行ってくれた愛すべき社員の体温に顔を埋めただひたすらに安堵の涙を流し続けていた。




