第85話:巨大なイレギュラー
――チュン、チュン。
窓の外から聞こえるのどかな小鳥のさえずりと共に、私の意識はゆっくりと浮上した。
木造建築の天井を見つめたまま私はピクリとも動かず、ただボーッと虚空を見つめていた。
「おーい! アオイ、目開いてるけど生きてる?」
顔の真上から、リナさんが心配そうに覗き込んでくる。
「アオイさん、お顔が少し赤いですが……体調悪いですか? もしかして、昨日の温泉でのぼせちゃったんでしょうか」
その隣から、フィナさんが心底心配そうな曇りのない清らかな瞳で私を見つめていた。
昨晩の記憶など一ミリも残っていない様子の彼女は、いつの間にか自分の布団に戻って、きちんとした姿勢で目覚めたらしい。
「……(あなたのせいですよ!)」
私は心の中で、血の涙を流しながら絶叫した。
昨晩の出来事が、フラッシュバックする。
シャンプーの香りと、お酒の甘い匂い。
そして、私が前世で命を懸けて推していた地下アイドル「水瀬しずく」ちゃんに激似のフィナさんが、フニャフニャになって私にすり寄ってきたあの圧倒的な女子力の暴力。
(もう、あんな幸せなシチュエーション……死んでもいいです。あ、私もう一回死んでたんだった)
脳内で混乱したツッコミを入れながら、ふと視線を落とした瞬間。私はヒッと息を呑んだ。
私の着ている薄桃色の湯浴み着の胸元が、なぜかだらしなく、はだけていたのだ。
(あ、あれ!? 私、昨晩意識を失う直前に、本当に何もしてないですよね!? 上司の立場を利用して、部下に手を出したりしてませんよね!? コンプライアンス(セクハラ規定)的にセーフですよね!!??)
「アオイさん? どうしたんですか、急に青ざめて……私、回復魔法かけましょうか?」
「だ、大丈夫です! 気合いで治します!!」
私はガバッと飛び起き、慌てて湯浴み着の襟元をかき合わせた。
……おそらく、寝相が悪くて自分ではだけただけだ。そう信じたい。
私は限界事務員としての尊厳(と貞操観念)を守るため、昨晩の出来事は永遠に心の鍵付きフォルダ(極秘ファイル)に封印することに決めた。
*
朝食を済ませ、身支度を整えた私たちは、村の広場へと向かった。
王都へ向かう立派な荷馬車の荷台には、昨日村人たちが作った「美容泥パック」と「特製薬草湯の花」の木箱が、崩れないようにしっかりとロープで固定されている。
「アオイ殿、リナ殿、フィナ殿。そして若葉の剣の皆も……本当に世話になったな」
ガンツ村長が、しわくちゃの手で私の手をギュッと握りしめた。
「わしらも、若いもんに負けずにどんどん商品を作るからな! 王都での商売、頼んだぞ!」
「ええ、お任せください。テルマ村の『価値』を、必ず王都の顧客に届けてみせます」
若女将のリリーナさんや、一緒に泥を運んだリック青年、元気なお婆ちゃんたちに見送られながら、私たちは馬車に乗り込んだ。
御者台にはレオ君とカイト君が座り、手綱を握る。
「それじゃあ、出発するぜ!」
ヒヒーン、という馬のいななきと共に、車輪が土を蹴る。
私たちの地方創生プロジェクト・第二段階。
王都への「流通チャネル(安全な道)」の開通と「営業フェーズ」がついに幕を開けた。
*
テルマ村から王都までは、荷馬車で約二、三日の道のりだ。
初日の道中は、驚くほど順調だった。
「カイト君、次のチョークポイント(魔物の溜まり場)は?」
「ここから三百メートル先の、水場の近くです!」
「了解! ランタン設置するよ!」
カイト君が作成した『ハザードマップ』に従い、馬車を停めては、リナさんとミャーちゃんが手際よく『特製・魔物除けのランタン』を設置していく。
ランタンから立ち上る清浄な温泉の香りと魔力に当てられ、街道の物陰に潜んでいたゴブリンやフォレストウルフたちが、まるで蜘蛛の子を散らすように森の奥深くへと逃げ去っていく。
「ふふっ。順調ですね。流通チャネルの開通工事は、完全にオンスケジュール(計画通り)です」
私はバインダーの工程表にチェックマークを入れながら、心地よい馬車の揺れに身を任せていた。
――異変が起きたのは、初日の夕暮れが迫り、太陽が西の山際に隠れようとしていた頃だった。
馬車が、両側を切り立った崖と深い木々に覆われた「切り通し」に差し掛かった瞬間。
私の足元で丸くなって寝ていたギルさんが、突然ガバッと跳ね起き、全身の毛を逆立てて低く、重い唸り声を上げた。
「アオイ、馬車を止めろ! ヤバいのが来るぞ!!」
「えっ?」
ギルさんの警告とほぼ同時に、御者台にいたカイト君が悲痛な声を上げた。
「きょ、教官! 前方の森の奥から、とんでもないプレッシャーが……!」
ザワワワワッ!!
突然、森の奥から生臭い突風が吹き抜けた。
その風は、私たちが先ほど設置したばかりの魔物除けのランタンの火を、いともたやすく吹き消し黒い鉄の香炉ごと崖の下へと吹き飛ばしてしまった。
「嘘……ランタンの結界が、物理的に吹き飛ばされた!?」
私が驚愕して窓から身を乗り出した、その直後だった。
ズシン……! ズシン……!
地響きと共に、前方の木々がへし折られ、薄暗い切り通しの奥から「それ」が姿を現した。
「な、なんだよ、あれ……」
剣の柄に手をかけたレオ君が、呆然と呟く。
それは、通常のオーガの三倍はあろうかという巨体を持つ、異形の魔物だった。
全身を苔むした分厚い樹皮のような筋肉で覆われ、頭部にはねじ曲がった巨大な二本の角が生えている。
その目は血のように赤く濁り、口からはドロドロとした粘液が滴り落ちていた。
「ちっ……「暴緑の森鬼」。この一帯の森を縄張りにしてる、主クラスのバケモノだ」
ギルさんが、牙を剥き出しにして警戒姿勢を取る。
ランタンから放たれる温泉の清浄な魔力など、全く意に介していない。
それどころか、その巨体から発せられる圧倒的な『よどみ』のオーラが、周囲の空気を黒く染め上げるようにビリビリと震わせていた。
「グルルォォォォォォォォッ!!!」
森鬼が咆哮を上げた。
ビリビリと空気が震え、馬車の馬が恐怖でパニックを起こしていななき、後ろ脚で立ち上がる。
(これが……街道を完全に分断していた、元凶……!)
自然の魔力(匂い)を利用したインフラ整備程度では、決して退けることのできない、圧倒的で理不尽な暴力。
ビジネスの世界で言うならば、絶対に避けては通れない『最大級の事業リスク(イレギュラー)』だ。
「馬車から降りて! 陣形を組むよ!」
リナさんが長剣を抜き放ち、馬車の前に躍り出た。
「俺が前衛でヘイトを稼ぐ! カイトは側面に回れ! ミャー、出し惜しみはなしだ、最大火力の詠唱を始めろ!」
「りょ、了解!」
「は、はいっ!」
若葉の剣の三人も、恐怖で顔を引き攣らせながらも、私の教え通りに完璧な『ホーレンソウ』を行い武器を構えてボスの前に立ち塞がった。
冷たい夕の風が私の頬を撫でる。
私は震える手でバインダーを強く抱きしめ、目の前に立ちはだかる巨大な「イレギュラー」をキッと睨みつけた。
平和な流通チャネルの開通工事は、ここで終わりだ。
テルマ村の未来を王都へ届けるため、私たちはこの圧倒的な脅威を、自分たちの力で「排除」しなければならない。




