第79話:ハザードマップ
共同足湯の清掃から一夜明け、テルマ村に二度目の朝がやってきた。
宿の窓をカラリと開けると、早朝のひんやりとした山気と共に温泉の優しい硫黄の香りが部屋を満たした。
遠くの山肌からは白い湯けむりが何本も立ち上り、朝日を浴びてキラキラと輝いている。
一見すると、この世の楽園のような穏やかさだ。
特に田舎で育った私にとってはこの自然に強く懐かしさを感じて居心地が良い。
私は淹れたての温かい薬草茶を喉に流し込みながら、机の上に広げたバインダーと睨み合っていた。
王城から預かった資料のインクの匂いと、現状の照らし合わせ。
私の頭は、朝からフル回転だった。
「……ねえ、リナさん、フィナさん。昨日からずっと気になっていたんですけど」
朝食後のミーティングの時間。
私は隣で愛剣の手入れをしていたリナさんと、救急箱の整理をしていたフィナさんに問いかけた。
「街道にはあんなに魔物が増えているのに、なぜこの村自体は襲撃を受けて滅んだりしていないんでしょうか? 村の周りに高い城壁や柵があるわけでもないのに」
「ああ、それはね……」
リナさんが答えようとした時、私の足元で丸くなっていたギルさんが面倒くさそうに片目を開けてあくびをした。
「アオイ、前に教えただろ。魔物ってのは自然の巡りの「よどみ」から生まれる不浄な存在だ。だが、ここのお湯はどうだ?」
「……極上の回復ポーションのような、濃密で清浄な魔力(巡り)が溶け込んでいます」
フィナさんが、薬草を煎じる手を止めて補足してくれた。
「そうだ。この村全体が、その清らかな湯けむりと豊かな生命力に包まれてる。魔物にとって、ここは居心地が悪すぎて近づきたくもねえ「聖域」なんだよ」
なるほど、と私は膝を打った。
温泉そのものが村を守る巨大な「自然の防衛線(結界)」として機能しているのだ。
だからこそ、村の中は平和そのもの。
しかし、その加護の匂いが届かない一歩外の街道には魔物たちが居座ってしまう。
結果として、村は安全でありながら外部とのアクセスが完全に断たれた「陸の孤島」と化してしまったわけだ。
「だったら、騎士団を動かして街道を掃除してもらえばいいのに。かつては王族御用達だったんでしょう?」
私の素朴な疑問に、今度はリナさんが苦笑いした。
「アオイ、騎士団は正規軍だよ。彼らの本領は対人戦闘や、都市の大規模な防衛なんだ。こんな辺境の森や、いつどこから飛び出すかわからない魔物の討伐は、彼らの本業ではないのよ」
「それに……」と、フィナさんが少し言いにくそうに付け加える。
「王城の資料によると、先代の国王様の時代にもっと王都から近くてアクセスの良い場所に『新しい保養地』が作られたそうなんです。それ以来、このテルマ村への防衛予算は大幅に削減されてしまって……」
(なるほど。前世の行政でもよくある『新しいハコモノを作ったせいで、古い施設の予算が削られる縦割り問題』ですね……。王国からすれば、利益を生まない過疎の村に貴重な人員は割けないという、シビアな『費用対効果(ROI)』の判断があったわけですか)
「じゃあ、冒険者ギルドはどうですか?」
私が尋ねると、リナさんは剣を鞘に収めて首を振った。
「ギルドへの依頼も無料じゃないからね。一度掃除しても、すぐに新しい魔物が住み着くなら、定期的な巡回警備の契約が必要になる。……でも、今のこの村に、そんな継続予算はないでしょ?」
私は昨日、足湯で出会ったガンツ村長の顔を思い浮かべた。
ガンツ村長は「今更波風を立てるな」と諦めきっていた。
それは単なる頑固さではなく、なけなしの村の予算を削ってまで外部の冒険者を雇って現状を打破しようというモチベーションが完全に失われているからだ。
予算を凍結し、「現状維持バイアス」に囚われ続けることで、村はゆっくりと衰退の道を選んでいたのだ。
そこまで考えた時。
私はハッと背筋が伸びる思いがした。
(……だからこそ、私(アリフィ商会)が派遣されたのですね、リュミさん!)
国王は分かっていたのだ。
騎士団や高ランクの冒険者を送り込み、武力で一時的に街道を掃除したところで、村人の心の「よどみ」――つまり「諦め」や「管理不足」を直さない限り、村はすぐに元の孤島に戻ってしまう。
だからこそ、武力のプロではなく根本的な業務改善と環境整備ができる『特命プロジェクトマネージャー(私)』と、それを最小限のコストで守れる『成長途中の護衛(若葉の剣)』というパッケージで支援を行ったのだ。
「武力による制圧ではなく、持続可能なシステム(自衛と経営)の構築。……それが、王城から提示された真の解決策というわけですね」
前世の社畜の血が騒いだ。
(よし! ならば村長をすっ飛ばして、私が直接王都の騎士団長やギルドマスターに直談判し、助成金を引っ張ってくるか、あるいは――)
――と、思考が極端な暴走を始めかけた、その瞬間だった。
私はピタリと自らの思考を止め、深く深呼吸をした。
(……いや、違いますね)
私は自分の頭で、今の思考が間違っていると判断できたのだ。
(いくら正しい主張でも、手続きを無視して上に直談判して予算をふんだくろうとするのは、ただの『モンスター・クレーマー』です。そんな力業では、誰も納得しませんし、村の自立には繋がりません。現場の資源を最大限に活かして仕組みを作ることこそ、プロマネの仕事です!)
「アオイ教官、俺たちも集まりました! 今日の指示を!」
廊下から、元気な声と共に若葉の剣の三人(レオ君、カイト君、ミャーちゃん)が広間に入ってきた。
すっかり頼もしくなった私の部下たちだ。
「ええ、方針が決まりました。陸の孤島の防衛問題は、力押しでは解決できません」
私はバインダーを開き、真っ白な羊皮紙を一枚取り出した。
「レオ君、カイト君、そしてギルさん。あなたたちの本日のタスクは、村の周囲の『ハザードマップ(危険予測地図)』の作成です。魔物が温泉の匂いを嫌ってどこまで近づかないのか、その境界線を正確に調査してください」
「境界線、ですか?」とカイト君が首を傾げる。
「ええ。自然を熟知したギルさんの鼻と、斥候であるカイト君の足なら、安全圏と危険地帯の正確なラインが引けるはずです。漠然とした恐怖を、地図という目に見える『情報』に落とし込むんです」
「ちっ、人使いの荒いこった。まあ、散歩がてら見てきてやるよ」
と、ギルさんが尻尾を揺らす。
「ミャーちゃんとリナさんは、彼らの護衛と地形の記録をお願いします。絶対に危険地帯の奥には深入りしないこと」
「はいっ!」
「任せて!」
「そしてフィナさん。私たちはガンツ村長を説得するための『費用対効果(ROI)』のシミュレーションを作成します。安全な範囲で採れる薬草の価値と、防衛システムを構築した場合の収支の改善案を練りましょう」
「はい、アオイさん! 私の治癒士としての知識も総動員しますね」
力強い仲間たちの返事に、私は満足げに頷いた。
漠然とした不安(魔物)を具体的な数値と地図に落とし込む。
これぞビジネスの基本、リスク・マネジメントの第一歩だ。
窓の外から吹き込む春の風が、めくった羊皮紙をパタパタと揺らす。
この美しき「聖域」を真の意味で復活させるための緻密で現実的なプロジェクトが、今、本格的に動き出そうとしていた。




