第73話:To:神様『労働環境改善要求』
春の穏やかな陽気が王都を包む、ある日の夜。
私は温かいベッドの中で深い眠りについていた。
心地よい疲労感に身を委ねていると、ふと気がつけば見覚えのある「何もない乳白色の空間」に立っていた。
視界を覆う淡い靄。上も下もわからない、水底の泥を歩いているような不思議な感覚。
そして目の前には、二つの人影――私をこの世界へ導いた、案内人の神様たち(シルエット)がいた。
今までは声だけだった様な。
ようやく影とはいえ、姿らしきものが見えた。
「久しぶりね。……ずいぶんと、良い顔をするようになったじゃない」
女性の神様が、ふんわりと微笑むような声で言った。
「はい、お陰様で……ってか!ちょっと待ってください!」
私はすかさず前に進み出て、ビシッと指を突きつけた。
「良い顔じゃなくて、腹筋と背筋が筋肉痛で歪んでいるだけです!!」
私は神様に対して、日頃から溜まりに溜まったクレーム(労働環境改善要求)をぶちまけた。
「あなたたちがくれたこの『反復拒否』のスキルのおかげで、私はもう、同じ失敗で自分を削ることはなくなりました。そこは感謝しています。……ただ! 最近は発動しそうになる変なポーズを自力でねじ伏せるのに、腹筋と背筋を酷使してるんです! 毎朝筋肉痛ですよ!」
「それに、私のセンスはあんな胡散臭いマッスルポーズや、昭和の圧迫面接官じゃありませんってば! もう少しシリアスで控えめな避け方に修正していただけないでしょうか!?」
「さらに言えば、死に直結するブラック労働は容赦なく止めるくせに、どうして社会的な死(泥酔しての黒歴史など)は止めてくれないんですか! スキルの発動基準がガバガバすぎます! 絶対に私で遊んでる! 遊ばれてるんだぁ!!」
私の限界事務員としての猛抗議に対し、神様たちは悪びれもせずクスクスと笑い声を上げた。
「ははは。まあ、そうして笑って言い返せるようになったのが、何よりの成長の証だよ」
男性の神様が、温かい声で言う。
「君が自力で、自分の頭で正しい道を選べるようになったからこそ、スキルの強制力をねじ伏せられるんだ。失敗を恐れて心を閉ざしていた君が、遠く見違えるようだよ」
「うっ……上手く誤魔化さないでください。納得はしていませんからね」
私は口を尖らせつつも、神様たちの優しい声色に少しだけ毒気を抜かれた。
「……でも、せっかくお会いできたので、一つ聞きたいことがあります」
私は最近ずっと不思議に思っていた疑問を口にした。
「風の魔法で摩擦を減らしたり、風と熱を混ぜてドライヤーを作ったり……私の使っている生活魔法はごく初歩的なものなのに、なぜこの世界の人は、誰もその『応用』を思いつかないんですか?」
私の問いに、女性の神様が答える。
「この世界の人たちにとって、魔法はあくまで『神秘』や『自然の巡り』なの。あなたのように、『摩擦』や『空気抵抗』といった【物理・科学の概念】で世界を解釈していないわ」
「それに、彼らは役割が固定化されている。力仕事は戦士や獣人の役目だと思い込んでいるから、『いかにシステムを使ってラクをして効率化するか』という、あなたの限界事務員のような社畜精神……ゲフン、発想自体が生まれないのよ」
「君の真の力は、魔力量の多さなんかじゃない。その『前世の知識(ビジネスと物理の視点)』なのさ」
男性の神様のその言葉を最後に、乳白色の空間はふわりと溶けて消えていった。
*
「チュン、チュン……」
翌朝。小鳥のさえずりと、窓の隙間から入り込む心地よい春の風で私はスッキリと目を覚ました。
昨日ポーズをキャンセルしたせいで、腹筋には相変わらず鈍い筋肉痛が残っている。
「おはようございます、アオイさん! 今日の朝ごはんは焼きたてのパンですよ!」
「アオイ、おはよー! 私、すっかり元気になったからね!」
事務所へ行くと、春風邪から完全復活したリナさんとエプロン姿のフィナさんが笑顔で迎えてくれた。平和な日常の始まりだ。
――しかし、その平穏はすぐに破られた。
カランカランッ!! とドアベルが吹き飛びそうな勢いで鳴り、顔を真っ青にした精肉店の店主・ダニーおじさんが駆け込んできたのだ。
「アオイちゃん、助けてくれぇっ!」
「ダニーさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「急に春の陽気で暖かくなったせいで、貯蔵庫の肉が傷みそうなんだ! だが、冷却用の『氷の魔石』が春先で品薄になってて、価格がとんでもなく高騰してる! これ以上魔石を買えば、店が赤字で倒産しちまう!」
ダニーおじさんが頭を抱えてしゃがみ込む。
私は内心で(なるほど)と頷いた。
異世界の人たちは、「部屋を冷やすためには『氷』や『氷の魔法』という直接的な強い力が必要」という固定観念に縛られているのだ。氷がないなら、物理法則を使えばいいのに。
私は夢の中での神様の言葉を思い出し、少しだけ調子に乗ってしまった。
限界事務員の悪い冗談が、ふと口をついて出る。
「分かりました、ダニーさん! ギルドの補助金を不正受給(あるいは粉飾決算)して、無理やり氷の魔石を買い占めましょう!……なんつって」
――ピクリ。
その瞬間、私の背筋に悪寒が走り、体が不自然に跳ねた。
スキル『反復拒否』の強制発動だ。
(えっ!? うそうそ! 冗談ですよ!! ちゃんと正当な解決策を考えてますから!! 考えてるのに!!)
私の意思を無視して、体は勝手に右手を口元へ持っていき、扇子代わりの帳簿で顔を隠しながら、「ほーっほっほ、お主も悪よのぅ」と悪徳代官のようにニヤつくような、最悪に腹黒いポーズを取ろうとし始めた。
(やあああああっ! 横領や買い占めは犯罪(コンプラ違反)です! そんな越後屋みたいなポーズ、冗談でも許されません!!)
「うおおおおおっ!!」
私は筋肉痛の腹筋と背筋をフル稼働させ、強引に自分の腕をねじ伏せた。
ブルブルと震えながら、ポーズが完成する前に間一髪でキャンセルすることに成功する。
「ア、アオイさん……また変な動きしてますけど、大丈夫ですか?」
フィナさんとリナさんが、心配そうに(そして少しドン引きしながら)私を見ている。
「はぁ、はぁ……大丈夫、です。(神様、やっぱり絶対に私で遊んでる!!)……ゴホン。ダニーさん、氷が買えないのなら、物理法則を使えばいいんです。すぐに貯蔵庫へ行きましょう」
*
ダニーおじさんの精肉店の貯蔵庫は春の暖かな空気がこもり、むわっとした生肉の匂いが充満していた。このままでは数時間で商品がダメになってしまう。
「ダニーさん、薄くて清潔な布を何枚か用意して、水でたっぷりと濡らしてください。そして、それを肉の周囲に吊るすんです」
「布を濡らして吊るす? 氷もなしに、そんなことで冷えるのかい……?」
半信半疑のダニーおじさんに指示を出し、濡れ布のカーテンを何枚も設置させる。
準備が整うと、私は貯蔵庫の入り口に立ち生活魔法を発動した。
「風の巡りよ、部屋中を通り抜けなさい」
私の手から生み出された『微風』が、濡れた布をふわりと揺らし部屋全体を循環し始める。
すると――。
「お、おおっ!? なんだこれ、すげえ!」
数分もしないうちに、貯蔵庫内の空気がスッと冷たくなり始めた。
肌に当たる風が、まるで氷室の中にいるようにひんやりと心地よい。生肉の温度もみるみるうちに下がっていく。
「水とそよ風だけで……部屋がキンキンに冷えていく!? アオイちゃん、これは一体どんな大魔法なんだ!?」
ダニーおじさんが、信じられないものを見る目で私を拝むように見つめた。
「大魔法なんかじゃありませんよ。ただの『気化熱』です」
私はクスッと笑って答えた。
「水分が風で蒸発する際、周囲の熱を奪っていくんです。氷の魔石がなくても、水と風さえあれば簡易的なクーラーは作れるんですよ。視点のズレを直しただけです」
氷の魔石を買う必要がなくなったダニーおじさんは、「これで店が助かる!」と涙を流して喜んでくれた。たっぷりの高級肉を報酬としていただき、私たちは誇らしい気持ちで店を後にした。
(この世界の人たちにはない、『物理法則』と『効率化』の視点)
夢の中で神様が言っていた言葉の意味が、改めて深く心に染み渡る。
私の前世の知識――限界事務員として培ってきた経験は、決して無駄ではなかった。この異世界で誰かの役に立つ、最大の武器なのだ。
「アオイ、すごいね! あんな魔法の使い方、勉強になった!」
「ええ。やっぱりアオイさんは私たちの道標です!」
リナさんとフィナさんの無邪気な笑顔に、私は少しだけ照れくさくなった。
「ふふっ、ありがとうございます。……いててっ」
ポーズをキャンセルした代償の筋肉痛に腰をさすりながらも、私は青く澄み渡る春の空を見上げた。神様へのクレームはまだまだ言い足りないけれど、この平和で愛おしい日常を守るためなら、多少の筋肉痛も悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、私たちは今日の定時退社と、ダニーおじさんのお肉を使った最高の夕食に向けて、足取りも軽く歩き出したのだった。
マルグリッドさんに美味しいお肉料理でも作ってもらおう。




