第71話:俺の背中を超えていけ
「いっち、にー、さん、し! はーい、深く深呼吸をして、今日のストレッチは終了です!」
澄み渡る青空の下、アリフィ商会の事務所の前で、私たちは新しく制定した社内ルール『健康ストレッチ(異世界版ラジオ体操)』を終えたところだった。
エルフの整体師・シオンさんの容赦なきバキバキ施術(肉体の業務プロセス再構築)から数日。私の腰はすっかり軽くなり、背筋を伸ばして歩くのがとても心地よい。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の中が綺麗に洗われるような気がした。
「アオイさん、体がポカポカしてきましたね!」
「うんっ! 朝から動かすと、剣の素振りも調子がいいよ!」
「……ったく。なんで俺まで巻き込まれなきゃならねえんだ」
フィナさんとリナさんが笑顔で汗を拭い、ギルさんが前足を伸ばしながら文句を言っている。そんな平和な朝の光景を眺めていると、石畳を歩いてくる二つの影があった。
「おう、アオイ。朝から元気だな」
「おはよう、アオイさん!」
木屑の香りを漂わせた建築職人のイリスさんと、真新しい作業着に身を包んだ猫獣人のカグラさんだった。
カグラさんの長い尻尾が、機嫌良さそうに左右に揺れている。
「おはようございます、お二人とも。今日は月に一度の『アウトソーシング(事務代行)』の日ですね」
私が事務所のドアを開けて中に案内すると、イリスさんは持っていた大きな麻袋から、三つの木箱を取り出してカウンターにドンッ!と置いた。
「ああ。今月分の伝票だ。赤の箱が『材料の領収書』、青の箱が『報酬の控え』、白の箱が『払うべき請求書』だ。ちゃんと分けて突っ込んであるぜ」
「ありがとうございます。確認して、今月もバッチリ帳簿をつけておきますね」
私はにっこりと笑って三つの箱を受け取った。
これは、現場仕事で手一杯だったイリスさんのために私が提案した『事務作業の完全外注』システムだ。
イリスさんは複雑な計算や仕分けを一切せず、ただ紙を色別の箱に放り込むだけ。月に一度、私がそれを回収して帳簿付けや支払い処理を代行し、代わりに工房の売上から数パーセントを『事務委託手数料』として当商会が受け取るという契約である。
職人と事務員の完璧な分業だ。
「いやあ、本当に助かってるぜ。事務仕事に頭を悩ませなくていい分、現場仕事に百パーセント集中できるからな」
イリスさんは満足げに笑ったが、ふと、その端正な顔を曇らせた。
「……だが、別の悩みもあってな。こいつ(カグラ)の指導だ」
「えっ? カグラさんはすごく真面目に働いているように見えますが」
「やる気も体力も申し分ねえ。身軽さは最高だ。だが……あたしが『そこをグッとやって、バーンと打つんだよ!』って教えても、どうも上手く伝わらねえんだよ」
イリスさんが頭を掻くと、カグラさんも猫の耳をペタンと伏せてため息をついた。
「親方の動きが速すぎて、どう手首を返しているのか、どこに力を入れているのか、感覚がさっぱり分からないんだ……」
(なるほど。典型的な『技術の属人化』ですね)
私は心中で頷いた。
「見て盗め」「感覚で覚えろ」というのは、天才肌の職人が陥りがちな罠だ。
自分の頭の中にある暗黙知を、他人に言語化して伝えるのは非常に難しいのである。
*
イリスさんにどうアドバイスしようかと思案していた、その時だった。
カランカランッ!と、事務所のドアベルがけたたましく鳴った。
「アオイさん! 大変です、助けてください!」
飛び込んできたのは、冒険者ギルドの受付嬢、セラフィさんだった。
彼女は息を切らし顔を青ざめさせている。
「セラフィさん、どうしたんですか?」
「ギルドの裏方にある『素材解体所』のドニー親方が……今朝、急な『ぎっくり腰』で倒れてしまったんです!」
「ぎ、ぎっくり腰……!!」
その単語を聞いた瞬間、私の腰が幻痛でピクリと反応した。
あの地獄の痛みは、経験者にしか分からない。
「ドニーさんといえば、『神の手』と呼ばれる解体のプロですよね。お弟子さんたちがいるのでは?」
「それが……今日中に解体しないと魔力が抜けて使い物にならなくなる希少素材『クリスタルボア』が持ち込まれているんですが、ドニー親方はすべて『俺の感覚』だけで仕事をしていたので、お弟子さんたちはどこからナイフを入れていいか全く分からないとパニックになっていて……!」
「完全なる属人化による、現場のストップですね。行きましょう!」
私たちは急いで準備を整え、イリスさんとカグラさんも「勉強になりそうだ」と一緒に解体所へ向かうことになった。
*
ギルド裏の素材解体所は、強烈な血と獣の匂いが立ち込めていた。
巨大なクリスタルボア(水晶のような角を持つ巨大イノシシ)の死体が横たわる前で、数人の若い弟子たちが解体ナイフを持ったまま、オロオロと右往左往している。
「どうしよう、腹からいくのか? それとも背中から?」
「親方がやってるのを後ろで見てたけど、ナイフの角度が全然分からないよ!」
「ああ、時間が経てば毛皮の魔力が散逸しちまう……!」
部屋の隅では、簡易ベッドに横たわった初老のドニー親方が「あいたたた……そこだ、そこをスーッと引いて、パッと剥がすんだ!」と腰を押さえながら口出ししているが、擬音ばかりで弟子たちには全く伝わっていない。
(この状況。今までうまく回っていたのが不思議なくらいですね)
この光景を見た瞬間、私の前世の『総務・マニュアル作成担当』としての血が騒いだ。
(なるほど、こういう時は親方の頭の中の知識をすべて文字に起こして、誰が読んでも分かる『分厚くて完璧な三百ページのマニュアル辞典』を作成し、全員に暗記させるのが一番……)
――と、そこまで思考が回った瞬間、私は自らその考えにストップをかけた。
(……いや、違いますね)
私の体は一切動かない。
スキル『反復拒否』の強制的な拘束も、エラーの悪寒も、全く発動していない。
私は、自分の頭でハッキリと『その選択は間違っている』と理解していた。
(現場で血と泥にまみれながら作業をする人間が、分厚い字だけのマニュアルなんて読む暇があるはずがありません! 前世の会社でも、私が徹夜で作った分厚いISO規定書なんて、誰も読んでくれませんでした! あの失敗を、異世界で繰り返すわけにはいきません!)
完璧すぎるマニュアルは、時に現場のスピードを殺す。
職人の繊細な「感覚」を1から100まですべて文字で説明することなど、そもそも不可能なのだ。
スキルに頼らず、自力で前世の悪い癖を回避できたことに私は確かな成長の喜びを感じていた。
「アオイさん、どうしますか?」
フィナさんが不安そうに私を見上げる。
「フィナさん、大きな模造紙と、黒と赤の太いペンをお願いします。……ドニー親方、少しヒアリングをさせてください」
私はドニー親方の枕元にしゃがみ込んだ。
「ドニーさん。クリスタルボアの解体手順をすべて教える必要はありません。ただ一つ、『ここだけは間違えてはいけない致命的なポイント(急所)』だけを教えてください」
「致命的なポイント、だと……? それはまあ、角の根本にある『魔石の袋』を傷つけないことと、腹の青い筋にナイフを深く入れすぎねえことだが……」
「分かりました。フィナさん、それを図解で描いてください!」
私はフィナさんに指示を出し、即席の『SOP(標準作業手順書)』を作成し始めた。
文字は極力減らし、フィナさんの可愛らしい絵心を活かして、ボアの部位をシンプルな『フローチャート』にする。
そして最も重要なのは、ドニー親方が言った「魔石の袋」と「腹の青い筋」の部分に、赤ペンで大きなバツ印(✖)を描き込むことだった。
「はい、完成です! 壁に貼りますよ!」
私は出来上がった一枚の大きな模造紙を、解体台の真正面の壁に貼り付けた。
そこには、どこからナイフを入れるかの簡単な矢印と、絶対に切ってはいけない赤いバツ印だけが描かれている。
「皆さん、聞いてください!」
私は呆然とする弟子たちに向かって、パンッと柏手を打った。
「これは、完璧な解体を目指すためのものではありません。絶対に失敗(商品のロス)を起こさないための『最低ラインのルール(NG集)』です! この赤いバツ印の場所さえ避ければ、あとは多少不格好でも構いません。細かいナイフの力加減や角度は、皆さんの手で今、実践しながら探りなさい!」
完璧な正解を押し付けるのではなく失敗の境界線だけを示し、あとは彼ら自身の感覚に委ねる。
それが、感覚と経験を重んじるこの世界の職人たちに向けた、私なりの『マニュアル』だった。
「……なるほど、そういうことか! ここさえ傷つけなきゃいいんだな!」
「よし、やってみるぞ!」
図解とNGポイントが可視化されたことで、パニックを起こしていた弟子たちの目に光が戻った。
彼らは壁の図解をチラチラと確認しながら、慎重に、しかし迷いのない手つきでクリスタルボアにナイフを入れていく。
時折「もう少し浅く引け!」とドニー親方の檄が飛ぶが、弟子たちは見事に修正し、数十分後には、美しいクリスタルボアの毛皮と魔石が、無傷のまま綺麗に解体されたのだった。
*
「すげえ……俺たちだけで、解体できたぞ!」
「アオイさん、ありがとう! これなら親方が休んでいても、最低限の仕事は回せるよ!」
歓喜する弟子たちと、ホッと息を吐くドニー親方。
その一部始終を壁に寄りかかって見ていたイリスさんが、ハッとしたように目を丸くしていた。
「……そうか」
イリスさんは呟き、隣にいたカグラさんの肩をポンと叩いた。
「あたしの『感覚』を、そのままカグラに押し付けるのが間違いだったんだ。あいつとあたしじゃ、体格も筋力も違うんだからな」
「親方……?」
イリスさんはその辺に落ちていた木片を拾い上げ、墨でササッと簡単な図解を描いた。
「カグラ、よく聞け。カンナをかける時、『ここだけは力を抜くな』っていう急所(NGポイント)はここだ。それ以外は、あたしの真似じゃなくていい。お前の猫獣人としての身軽な感覚で、一番やりやすい姿勢で削ってみろ」
NGポイントと基礎の形だけを図で示され、自由(余白)を与えられたカグラさんの耳がピンと立った。
「そういうことか……分かったよ、親方!」
カグラさんはイリスさんの用意した木材に向かい、しなやかな動きでカンナを引いた。シュルルッ、と美しい薄い木屑が舞い上がり滑らかな表面が仕上がった。
「やった……! できたよ、親方!」
「ああ。上出来だ、カグラ」
二人の職人が、ニッと笑い合って拳を突き合わせる。
「アオイ、あんたのその『図解なんとか』ってやつ、あたしの工房でも導入させてもらうぜ。おかげで教え方のコツが掴めた」
イリスさんが私に向かって、親指を立ててみせた。
「ええ、ぜひご活用ください。マニュアルは縛るためのものではなく、安心して働くための土台ですからね」
ギルドの危機を救い、さらにイリスさんたちの師弟関係のズレまで解消することができた。
スキルに頼らず、自分自身の思考と判断で最適解を導き出せたことに私は確かな成長の手応えを感じていた。
「さあ、お仕事完了です。帰って温かいお茶にしましょうか!」
「うんっ! 今日のお茶菓子はなにかなー」
「私が昨日焼いたクッキーがありますよ!」
和気あいあいと笑うリナさんとフィナさん、そしてギルさんと共に、私は冬の終わりの澄んだ空気の中を、誇らしげな足取りで定時退社するのだった。




