第70話:魔女の一撃
防衛戦の事後処理に始まり、幻獣たちの労働組合結成に伴う環境改善、さらには獣人のカグラさんの雇用手続きなど……それに、日々の依頼業務ももちろん処理していく。ここ数日のアリフィ商会は、怒涛の忙しさだった。
ようやく事務仕事の終わりが見え始めた昼下がり。
私はいつものように事務所のデスクに向かい、インクの匂いが漂う帳簿にカリカリとペンを走らせていた。ストーブの上ではヤカンがコトコトと鳴り、カモミールティーの香りが冷たい冬の終わりの空気を優しく温めている。
「ふぅ……ようやく、今月分の経費精算の目処が立ちましたね」
私は大きく背伸びをした。
その時、手元が狂って愛用のペンがコロコロと床に転がり落ちてしまった。
「おっと」
私は座ったまま、何気なく床のペンを拾おうと手を伸ばし、腰を曲げた。
――ピキッ!!
その瞬間、背骨の根元から腰にかけて、雷に打たれたような。
あるいは太いワイヤーが限界を迎えて弾け飛んだような、致命的な衝撃が走った。
「ああああああああああああああああ!!!!」
この世のものとは思えない絶叫が、私の口から爆発した。
そのまま私は「あ、あばばば……っ」と謎のうめき声を上げながら、床に崩れ落ちた。
「敵襲!? どこ!? 魔物!? それとも幽霊!?」
バンッ!と事務所の奥から扉を蹴破り、リナさんが長剣を抜いて飛び出してきた。
その後ろからは、フィナさんがポーションの瓶を両手に構えて臨戦態勢で続いている。
「ア、アオイさん!? どうしたんですか、床に倒れて!」
「ち、違います……っ。敵じゃ、ありません……腰が……腰の歯車が、完全に外れました……っ!」
私は床に這いつくばったまま、ピクリとも動けない状態で涙を流した。
限界事務員、異世界に来て二年目。
ついに恐れていた現代病――『ぎっくり腰(魔女の一撃)』を発症してしまったのである。
*
「これは……ひどいですね。筋肉が極度に緊張して、完全に固まってしまっています」
床に転がったままの私を診察したフィナさんが、困ったような顔で言った。
「フィ、フィナさん……! お願いです、あなたの治癒魔法で! 温かい光に包まれて、一瞬で全回復させてください……!」
私が涙声で懇願すると、フィナさんは悲しそうに首を横に振った。
「ダメです、アオイさん」
「えっ!? なぜですか!? 魔法って無敵の回復ツールじゃないんですか!?」
「治癒魔法は、魔法単体では効果を発揮しないんです」
フィナさんが真剣な顔で説明してくれた。
「魔法は『自然の巡り』です。切り傷などの『欠損や外傷』なら、傷口を塞いで巡りを補うことができます。でも、ぎっくり腰のような『骨格の歪みと筋肉の極度の緊張(巡りの悪化)』は、魔法だけでは治せません。このバキバキに歪んだ状態で無理に魔力を流し込めば、歪んだ形のまま筋肉が固まって、余計に悪化してしまいます!」
なんと……!
確かに魔法とは巡りであることは重々に理解をしているが、当然。
前世のゲームのように、ボタン一つで状態異常が回復するわけではないのだ。
魔法とは極めて繊細な環境整備(物理的アプローチ)の上に成り立つ技術なのだと、改めてこの世界の厳しい設定を思い知らされる。
「物理的に滞った“巡り”を整えてからじゃねえと、魔法は効かねえってことさ」
ストーブの前からギルさんが歩み寄り、呆れたようにため息をついた。
「……仕方ねえ。あの『耳長』のところへ運ぶか」
*
数十分後。
私は、普段は重い荷物を運ぶための『木製の台車』に仰向けのまま乗せられ、ゴトゴトと王都の石畳を運ばれていた。
「あ、ちょっとリナさん、段差! 段差はゆっくり……っ! 響きます!」
「ごめんごめん! アオイ、重症だねぇ」
リナさんとフィナさんが台車を引き、ギルさんが先導していく。
しかし、王都の中心部を通るこのルートは、最悪なことに人通りが多かった。
「なんだあれ? 荷車に人が乗ってるぞ」
「あれ、アリフィ商会の社長のアオイさんだよな?」
「真昼間から台車で運ばれて、なにしてんだ……?」
「まさか売りに出されているのかしら」
すれ違う街の人々からの、冷ややかで好奇に満ちた視線が突き刺さる。
(いやあああああっ! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!!)
私は顔から火が出るほど赤面したが、腰が爆発しているため指一本動かして顔を覆うことすらできない。
ただ空を見上げながら、完全なる『公開処刑(ドナドナ状態)』を受け入れるしかなかった。
やがて台車は、王都の路地裏にあるひっそりとした建物の前に到着した。
看板には『シオン整体院』と書かれている。
「シオンさーん! お客さん連れてきたよー!」
リナさんが扉を開けると、中からふわりと清涼なハーブの香りが漂ってきた。
そして現れたのは、見事な金糸の髪と透き通るような白い肌を持つエルフの青年だった。正直に言えば男性か女性かも分からない。
中性的な美貌に、とろけるような優しい笑顔を浮かべている。
「あらあら、いらっしゃい。……おや、これは随分と重症な患者さんですねぇ」
シオンと呼ばれたエルフの青年は、鈴を転がすような柔らかな声で私を見下ろした。
(おお……エルフの整体師! きっと神秘的なアロマとか、エルフ特有の優しい指圧で、私の腰をふんわりと癒やしてくれるんですね……!)
私が安堵の息を吐き出した、その時だった。
「じゃあシオンさん、アオイをお願いね! 私たち、午後からギルドの依頼が入ってるから、終わる頃にまた迎えに来るね!」
「お大事に、アオイさん!」
「えっ? ちょ、ちょっとお二人とも!? 私を置いていくんですか!?」
私の悲鳴も虚しく、リナさんとフィナさん(そしてギルさんも)は、あっさりと仕事に戻っていってしまった。
*
薄暗い施術室のベッドに、うつ伏せに寝かされた私。
背後には、優しい笑顔を浮かべたシオンさんが立っている。
「さあ、アオイさん。まずはそのバキバキに固まった『悪い巡り』を、物理的に解きほぐしましょうね♡」
「は、はい。お手柔らかにお願いしま――」
――ゴキィッ!!
「ぎゃあああああああああああああ!?」
シオンさんの細く美しい指が、私の背中に凄まじい握力で突き立てられた。
エルフとは思えない、万力のような力だ。
「あらあら、肩甲骨が肋骨にべったり癒着してますねぇ。長時間の悪い姿勢のせいですよ。ふふっ、まずはこれをベリベリッと引き剥がしましょうね♡」
「い、痛い! 痛いです! 肩甲骨が取れます! もげます!!」
「はい、息を吐いて〜。次は腰の歪みですよぉ♡」
メキメキッ! ボキィッ!!
「あああああ!! これはハラスメントです! 労基に駆け込みますよおぉぉっ!!」
「あら、なんの呪文かな?」
エルフのゴッドハンドは、容赦のない悪魔の手だった。
彼は優しい笑顔を一切崩さず、悲鳴を上げる私の関節という関節を的確に、そして徹底的に矯正していく。
(痛い! 痛すぎます! もう嫌だ、痛み止め……一時しのぎの魔法薬だけ打って、私を仕事に戻して……っ!)
私の頭に、逃げ出したいという甘い考えがよぎった。
だが、その激痛の中で、限界事務員としての私の脳裏に冷徹なビジネスロジックが閃いた。
(……いや、違います! ここで痛み止めに逃げて誤魔化したら、私は一生このバキバキに歪んだ、おばあちゃんみたいな姿勢のまま生きていくことになるんです! そんなの、一人の女性として絶対に嫌です!)
私は、シオンさんの容赦ないバキバキ施術を、『美しい姿勢と健康な肉体を手に入れるための産みの苦しみ』なのだと腹を括った。
痛いのは、私が今まで自分の体を酷使し、ろくにケアもせず放置してきたツケだ。
これを乗り越えなければ、肩こり知らずの美しい体は手に入らない!
「シ、シオンさん……っ! 逃げません! もっと! もっと深くやってください! 私の歪みきった骨格を、残らず正しく叩き直してください!!」
私が涙目でベッドのシーツを握りしめて叫ぶと、シオンさんの手がピタリと止まった。
そして、彼のとろけるような優しい笑顔に、ゾクッとするような暗い熱(Sっ気)が宿ったのが分かった。
「おや……? いつもならここで皆、泣いて逃げ出すのですが。ふふっ、素晴らしい覚悟ですねぇ。私、そういう我慢強い患者さん……大好きですよ~」
「ひっ……!?」
「いいでしょう。あなたのそのガチガチの体、私が責任を持って『一度完全に壊して、作り直し』てあげます。さあ、次は骨盤周りの頑固な癒着を剥がしますよぉ?」
「あ、はい……! 望むところです、お願いしま――ぎゃああああっ!!」
ゴリィィィッ!!
「痛い! 痛いです! 骨盤が! 私の骨盤が砕け散ります!!」
「フフッ、アハハハ! いい悲鳴ですよぉ、アオイさん! もっと! もっと声を出してくださいね~遠慮はいりませんから!」
「あああああ! 筋肉が! 筋膜が引き裂かれますぅぅっ!!」
「ほらほら、まだ右肩が逃げてますよ? ここですね? ここが痛いんですねぇ!!??」
「んがあああ! 効きすぎです! あぁぁぁぁっ!!」
路地裏の整体院に、私の謎のドMめいた絶叫と、エルフの整体師の高らかなSっ気全開の笑い声が、いつまでも響き渡り続けた。
*
数時間後。
仕事を終えて迎えに来てくれたフィナさんが、ベッドでグッタリとしている私に、両手をかざした。
「アオイさん、お疲れ様です……なんだかすごい声が外まで聞こえてましたけど。仕上げの治癒魔法、いきますね」
ぽわぁっ、と温かい光が私の腰と背中を包み込む。
シオンさんの容赦なき物理的アプローチによって骨格が正しい位置に戻り、筋肉の緊張が完全に解けた状態の体に、フィナさんの治癒魔法が流れ込む。
滞っていた『自然の巡り(血流と魔力)』が、せき止められていたダムが決壊したように一気に全身を開通していくのが分かった。
「……すごい」
私はゆっくりと起き上がった。
痛みが消えているどころか、羽が生えたように体が軽い。
視界まで明るく、クリアになったような気がする。
背筋もピンと伸び、胸を張るのが全く苦じゃない。
今なら空も飛べるはず。
「完璧な仕上がりですね。……ふぅ、久々に私も腕が鳴りましたよ」
シオンさんが、額の汗を拭いながらウインクをして見せた。
先ほどのSっ気全開の悪魔の顔はすっかり鳴りを潜め、また元の天使のような優しいエルフに戻っている。
私の知っているエルフとは程遠い、歪な出会いだった。
「ですがアオイさん、恐らくあなたのデスクの高さが身長に合っていませんよ。あと、一時間に一回は背伸びをして筋肉を動かすこと。……約束を守れないなら、またいつでも『壊して』あげますからね??」
「はい……! 肝に銘じます、シオン先生!」
私は背筋を凍らせながら、深々と頭を下げたのだった。
*
翌朝。
アリフィ商会の事務所の前に、私たち三人+一匹の姿があった。
私のデスクの椅子の高さは、昨日帰ってからすぐにイリスさんに頼んで完璧に調整してもらった。
「はい、皆さん! 体が資本、健康と美しさ第一です! 今日から毎朝始業前に、全員で『健康ストレッチ』を行うことを社内ルールとして制定します!」
私は元気に声を張り上げ、前世の記憶にある『ラジオ体操』の動きを皆に教えた。
「いっち、にー、さん、し!」
「アオイ、なんだかこの動き、面白いね!」
「背筋が伸びて、すごく気持ちいいです!」
「……朝から面倒なルールを作りやがって」
文句を言いながらも、ギルさんも前足を伸ばして一緒にストレッチをしてくれている。物理的な環境改善と、日々のメンテナンス。
限界事務員の体を襲った魔女の一撃は、私に『真の肉体の最適化』を教えてくれた。
澄み渡る冬の青空の下、私たちは今日も健康第一で、完璧な定時退社を目指して業務をスタートさせるのだった。




