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魔女のバインダー  作者: 水色蛍
限界事務員、なんだかんだ2年目突入編
65/100

第65話:臨時補給ハブ

 新年早々の王都は、どんよりとした鉛色の空に覆われていた。

 久しぶりに降る冷たい冬の雨が、事務所の窓ガラスを規則正しく叩いている。

 ストーブの上で沸くお湯の音と、フィナさんが淹れてくれた温かいハーブティーから立ち上る湯気。そして、使い込まれた帳簿のインクの匂いが漂う、いつもの平和で穏やかな空間。


 しかし、その日常は突如として切り裂かれた。


 カーーーン! カーーーン!!


 王都中に、腹の底に響くようなけたたましい非常鐘の音が鳴り響いたのだ。


「非常事態宣言! 飛行型の魔物の大群が接近中! 民間人は家を締め、決して外出しないように!!」


 外の通りを拡声の魔導具を持った騎士が馬を走らせながら叫んでいく。

 私は慌てて窓に駆け寄り、空を見上げた。


 鉛色の空を覆うように、巨大で半透明な『魔法障壁』がドーム状に展開され始めている。遠くの城壁や塔の上には、防寒具を着込んだ騎士団の弓兵や魔導士たちが、緊迫した面持ちで迎撃の配置につくのが見えた。


(魔物の、大群……!?)


 私の背筋を、氷のような冷たい汗が伝い落ちた。

 前世の平和な日本で暮らしていた私にとって、紛争や戦争といった命のやり取りは、テレビの向こう側か、歴史の教科書の中だけの話だった。


 これまでの仕事で経験した「ダンジョンでの魔物との遭遇」とは、明らかに次元が違う。


 今、まさにこの街全体が戦場になろうとしているのだ。

 話が通じる、言葉で解決するような相手ではない。

 いつ日常が理不尽に破壊されてもおかしくないという生々しい恐怖と緊張感を、私は異世界に来て二年目にして初めて、肌身で強く感じていた。


「アオイ! 窓から離れて!」


 リナさんが素早い動きでシャッターを下ろし、腰の長剣を引き抜いた。

 フィナさんも顔を強張らせながら、腕に小型の魔力盾(バックラー)をしっかりと固定している。

 私も手元に置いていた、魔力を弾く特殊な木材で作られた『護身用ロッド』を強く握りしめた。


「アオイ、私たちも前線に行った方がいいんじゃ……騎士団だけじゃ手が足りなくて、怪我人が出るかもしれない!」


 リナさんが切羽詰まった声で言う。


 だが、その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に前世の『災害時のトラウマ』がフラッシュバックした。


 前世で大型台風が直撃した際、パニックになった社員が「外の様子を見てくる」「お客様のところへ行かなきゃ」と勝手に飛び出し、二次災害を起こして地獄のような事態になった記憶だ。


「ダメです! リナさんはともかく、私たち素人がパニックになって前線に出ても、騎士団の指揮系統(導線)を乱すだけです!」


 私は血相を変えて叫んだ。


「私たちは民間人です! 今すぐ地下室にバリケードを作って、食料と水を抱え込んで、この事態が過ぎ去るまで絶対に息を潜めていましょう!」


 ――その瞬間。


 ピクリ、と私の体が不自然に跳ね、スキル『反復拒否』が強制起動した。


(あっ!? しまった、スキルが……!?違うの??)


 私の意思に反して、体は勝手に事務所の頑丈な執務机の下へと潜り込んだ。

 そして四つん這いになり、両手で交互に目、口、耳を塞ぐような動きを高速で繰り返しながら、ブルブルと震え始めたのだ。


 いわゆる『見ざる・言わざる・聞かざる』の三猿ポーズである。


(いやあああああっ!! なにこの究極のダチョウムーブ!? 社長が机の下で震えるお猿さんになるなんてダサすぎる!!)


「アオイ? なんで急に机の下でお猿さんの真似してるの?」

「アオイさん、大丈夫ですか!? 怖くておかしくなっちゃったんですか!?」


 リナさんとフィナさんが、ドン引きしながらも心配そうに覗き込んでくる。

 恥ずかしさで顔が爆発しそうだったが、私は机の下で猿のように震えながら急速に頭を回転させた。


(なぜ失敗ルート? そうか……! パニックになって前線に出る(二次災害)のも間違いだけど、完全に現実逃避して、困っている顧客や街の人々を見捨てるのも、商会として『事業の継続』を放棄する致命的な失敗だからだ!)


 真理に辿り着いた瞬間、体の拘束がフッと解けた。

 私は乱れたブラウスの襟を整えながら、コホンと咳払いをして机の下から這い出した。


「……失礼しました。今の引きこもり案は撤回します。ですが、前線に出るのもやはり間違いです」


 私は二人の目を真っ直ぐに見据えた。


「企業には、災害時における『BCP(事業継続計画)』というものがあります。どんな非常事態でも、自分たちの強みを活かして機能を止めないための計画です。私たちがやるべきは、安全な室内から指揮系統を乱さずに現場をサポートする……『最強のバックオフィス(後方支援)』の構築です!」


 私は窓の外の冷たい雨を指差した。


「外は冬の雨です。これから空飛ぶ魔物と戦う兵士たちにとって一番の敵はガーゴイルなどの攻撃だけでなく、『雨による体温の低下(低体温症)』と『疲労』のはず。ここを最前線の『臨時補給ハブ』にしますよ!」


 私の言葉を聞いて、部屋の隅で静かに耳を立てていた幻獣のギルさんが、スッと立ち上がった。


『……そういうことなら、咄嗟の工事に“あいつ”の力が必要だな』


 ギルさんはそう呟くと、少しだけ開いていた小窓から雨の中へ弾丸のような速度で飛び出していった。


「ギルさん!? まったく、相変わらず自由なんだから……!」


 私はため息をつきつつも、二人に指示を飛ばした。


 *


 魔物が到着するまでの僅かな時間で、私たちは事務所を「後方支援拠点」へとトランスフォームさせた。


 まず、私自身の準備だ。


 事務所の入り口付近に、私の生活魔法である「風」と「熱」の巡りを組み合わせ、ドーム状の『超強力な温風ドライヤー空間(エアシャワー)』を設置した。


 これなら、飛び込んでくる兵士たちの冷たい雨と泥を一瞬で乾かし、急激な体温の低下を防ぐことができる。


 次にフィナさん。

 彼女は、完璧な5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)で管理された医療カバンを展開し、執務用テーブルを即席の清潔な救護ベッドに変えた。


「運び込まれる怪我人の軽重を瞬時に判断して、重傷者から順番に処置する導線を作りました! 薬の準備も完璧です!」


 と、頼もしい声を上げる。


 そしてリナさんは、事務所の入り口の安全を確保しつつ雨の中で混乱する兵士たちを案内するための大きな立て看板をスッと設置した。


「怪我人は右のフィナのところ! 補給と休息の人は左のアオイの温風エリア! よし、これで導線整理はバッチリだね!」


 すべての配置が完了した、その時。

 バンッ! と事務所の重い扉が開いた。


「ハァ、ハァ……! 遅くなったな!」


 そこに立っていたのは、頭からずぶ濡れになりながらも、護身用の大きな石工槌(ハンマー)を肩に担いだイリスさんだった。

 普段の作業着姿だが、その瞳には鋭い職人の光が宿っている。


「イリスさん!? なぜここに!! 危険です!! ご自身の工房は!?」

 私が驚いて駆け寄ると、イリスさんは濡れた髪をかき上げながらニヤリと笑った。


「道具さえありゃ、仕事はどこでも出来る。あたしにはもう親はいねえし、工房の戸締まりは完璧にしてきた。……しかし、あんたらとの『縁』は切れねえからな。急ごしらえの拠点なら、壁の補強や家具の配置換え(内装工事)が必要だろうが」


「悪いな、俺の独断で声を掛けたんだ。こういう時は、頼りになる仲間は多い方が良いだろ?」


 イリスさんの足元から、ブルブルと雨水を払ったギルさんが得意げに尻尾を揺らした。


「ギルさん、イリスさん……!」


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 *


 臨時『補給ハブ』としての準備が完璧に整ったアリフィ商会の事務所。

 外では雨の音が一段と強くなり、遠くの空からガラスを引っ掻くような不気味な魔物の羽音が無数に聞こえ始めていた。


 恐怖はある。

 私の手は、まだ少しだけ震えている。

 だが、ただ机の下で丸まっていた数十分前とは違い、今の私たちの顔には「自分の役割を全うする」というプロフェッショナルな覚悟が宿っていた。


「……皆さん」


 私は、護身用ロッドを握り直し、頼もしい仲間たちの顔を見渡した。


「前線で剣や魔法を振るうだけが戦いではありません。現場の人間が最高のパフォーマンスを発揮できるように、疲労を取り除き、安全を確保し、命を繋ぐ……完璧なバックオフィスこそが、最前線を支えるんです」


 リナさんが力強く頷き、フィナさんが医療カバンに手を添える。

 イリスさんがハンマーを構え、ギルさんが低く喉を鳴らした。


「さあ、来ますよ。アリフィ商会の『仕事』を始めましょう!」


 ドンッ!! と、遠くの城壁で魔法障壁に何かが激突する重い音が響いた。

 嵐が始まる直前の、静かで張り詰めた緊張感の中。

 私たちは、失敗できない異世界での『防衛戦』に、真正面から立ち向かう覚悟を決めたのだった。

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