第64話:襲来の監査官
新しい年を迎え、アリフィ商会は順調すぎるほどの滑り出しを見せていた。
王城の公文書館や第一騎士団、さらには冒険者ギルドからの依頼を次々と「分業」と「システム化」で解決してきた結果、私たちの商会の売上は右肩上がりで伸びていた。
その日の午後も、事務所には平和な時間が流れていた。
薪ストーブの中では『火の魔石』が柔らかな炎を揺らし、暖房係のギルさんがその前で気持ちよさそうに丸くなっている。
フィナさんが淹れてくれたカモミールティーからは、ふわりとリンゴに似た甘い香りが漂い、使い込まれた帳簿のインクの匂いと混ざり合って私にとって最高に落ち着く空間を作り出していた。
「アオイさん、先月分の領収書の整理、終わりましたよ!」
「ありがとうございます、フィナさん。リナさんも、備品の確認、お疲れ様です」
「うんっ! いつ依頼が来ても出動できるよ!」
私が二人の働きを労い、温かいティーカップに手を伸ばした、その時だった。
バンッ!!
事務所の重い木の扉が、けたたましい音を立てて開け放たれた。
「……ここが、近頃王都で幅を利かせているという『アリフィ商会』か」
冷たい雪風と共に現れたのは、見事な銀糸の刺繍が入った漆黒のローブに身を包んだ、神経質そうな細面の壮年男性だった。
片手には分厚いバインダーのようなものを抱え、レンズの厚い銀縁眼鏡の奥の瞳が、鷹のように鋭く私たちの事務所内をねめ回している。
「いらっしゃいませ。アリフィ商会ですが……どちら様でしょうか?」
私が立ち上がって尋ねると、男は懐から王城の紋章が入った身分証を突き出した。
「私は王城財務局、第一監査官のバルトロだ。……単刀直入に言おう。貴商会には、多額の不正蓄財、および裏帳簿による資金洗浄の疑いがかけられている。本日はその抜き打ち監査に参った」
「「はあっ!?」」
リナさんとフィナさんが、素っ頓狂な声を上げた。
「ふ、不正!? 私たちがそんなことするわけないじゃないですか!」
「そうです! アオイさんは誰よりも真面目にお仕事をしてるんですから!」
怒って前に出ようとする二人を、私は手で制して後ろに下がらせた。
(王城財務局の監査官……! つまり、異世界における『税務調査』ですか!)
私の胃の腑が、前世のトラウマでキュッと嫌な音を立てて縮み上がった。
前世の限界事務員時代、税務署の抜き打ち調査といえば、まさに地獄のイベントだった。どんなに真面目に帳簿をつけていても、重箱の隅をつつくようにアラ探しをされ、些細な経費の計上ミスをネチネチと問い詰められる、恐怖の尋問時間だ。
「……バルトロ様。不正とは、一体何のことでしょうか? 当商会は、王城や騎士団長様からも直接依頼を受けておりますが」
「だからこそだ」
バルトロ監査官は、眼鏡をクイッと中指で押し上げた。
「たかだか若い女三人の『なんでも屋』が、設立からわずか数ヶ月で、これほどの利益を叩き出せるはずがないのだ! きっと裏で違法な魔導具の横流しや、貴族への不正な利益供与を行っているに違いない! さあ、今すぐ過去のすべての取引記録と、帳簿を出したまえ!」
(ああ、なるほど。純粋に『効率化』と『定時退社』を極めた結果の利益だということが、信じられないのですね……)
異世界のスローで属人的な労働環境に慣れきった彼らからすれば、私たちの商会の処理速度と利益率は、異常に映るのだろう。
「出せないというのなら、今すぐこの商会を営業停止処分とするが?」
バルトロ監査官が、冷ややかな声で脅しをかけてきた。
(ええ、営業停止……!? それは困ります、うちの可愛い社員たちの生活がかかっているんです!)
完全に前世の「税務調査の恐怖」に飲まれた私は、とっさに中小企業の総務としての『悪い癖』を発動させてしまった。
(こ、こういうお堅い役人を丸め込むには、まずは相手の懐に入る接待……つまり、穏便に済ませるための『袖の下』です!)
私は、以前南の交易商人ケイさんからもらった最高級の南国フルーツの木箱をカウンターの下からこっそりと取り出し、バルトロ監査官に向けてスッと差し出そうとした。
「バルトロ様、まあそう熱くならずに。外は寒かったでしょう、これはほんの気持ちばかりのフルーツですが、どうかこれで一つ、お手柔らかに……」
そう言って、媚びへつらうような笑みを浮かべようとした、その瞬間だった。
――ピクリ、と。
私の右腕と顔面の筋肉が、不自然に跳ねた。スキル『反復拒否』の強制起動だ。
(あっ……!? しまった、スキルが!?)
私の意思に反して、体が勝手に動き出す。両手を胸の前でスリスリとこすり合わせる『もみ手』をしながら、背中を丸め、下からバルトロ監査官を見上げるようにして、
「へっへっへ……お代官様も悪よのぅ。ここはひとつ、良きに計らってくだせぇ……」という、時代劇の悪徳商人(越後屋)そのものの、恐ろしく下卑たポーズと笑い顔を作ろうとし始めたのだ。
(いやあああああっ!! なにこのベタすぎる越後屋ムーブ!? 騎士団御用達の商会代表がやる顔じゃない!!特にこんな時に!!今日なんか特にダメ!!踏ん張れ私の筋肉ぅぅぅ!!)
「んぎぃぃぃぃっ!!」
私は全力でスリスリしようとする両手を引き剥がし、下卑た笑いを作ろうとする頬の筋肉を両手でバシィッと叩いて、自力でポーズを途中キャンセルした。
「アオイ!? どうしたの、急に自分の頬を叩いて!」
「アオイさん、しっかりしてください! 監査官の圧に精神がやられちゃったんですか!?」
驚くリナさんとフィナさんに「だ、大丈夫です」と震える声で返しつつ、私は急速に頭を回転させた。
(なぜ失敗ルート? ……当然です! 監査官相手に袖の下(賄賂)なんて渡せば、それこそ『不正を働いています』と自白しているようなもの! 前世の昭和の接待文化なんて、公正な監査の前では最悪の悪手です!)
真理に気づき、私は深く深呼吸をして、乱れたブラウスの襟を整えた。
(……こんな時に、前世の『地獄の税務調査』の経験に感謝する日が来るなんてね)
賄賂など不要。小細工も不要。
中小企業の総務として、容赦ない税務署の追及を幾度となく跳ね返してきた私には、最強の武器があるではないか。
「……失礼しました、バルトロ監査官。お望み通り、当商会のすべての帳簿をお見せいたしましょう」
私は毅然とした態度でカウンターの奥へ進み、金庫から分厚い革張りの帳簿を数冊取り出して、ドンッ!と音を立ててバルトロの前に置いた。
「さあ、隅から隅まで、お好きなだけご覧ください」
「ふん。どうせ、数字の辻褄が合わないずさんな裏帳簿だろう。私をごまかせると思うなよ……」
バルトロ監査官は鼻で笑いながら、帳簿の表紙をめくった。
――そして、数ページをめくったところで、彼の動きがピタリと止まった。
「なっ……なんだ、これは……?」
バルトロ監査官の銀縁眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれている。
彼が驚くのも無理はない。
その帳簿は、この異世界で主流の「単式簿記(ただの小遣い帳)」ではなく、私が前世の知識をフル活用して構築した『複式簿記(借方・貸方)』によって、一シリングのズレもなく完璧に記帳されたものなのだから。
「日付、勘定科目、摘要……すべての取引が二つの側面から記録され、貸借のバランスが完全に一致しているだと!? しかも、この項目ごとの色分けされたタグは……!」
「フィナさんが作ってくれたUI/UX特化のインデックスです。目的の月の経費が、一秒で検索できますよ」
「ゆーあい??」
私が胸を張って答える。
「ば、馬鹿な! ではこの経費の領収書は……!」
「そちらのファイルをご覧ください。月別、取引先別、さらには『消耗品』『交通費』とすべてファイリングされています。以前、騎士団の経費精算を改善した際に作ったフォーマットを、当商会でも適用しております」
バルトロ監査官は、震える手で領収書のファイルをめくった。
「文字の掠れもない……計算のズレも、ただの一桁たりとも存在しない……。なんだ、この異常なまでの美しさは……!!」
バルトロ監査官は、まるで伝説の芸術作品でも見せられたかのように、帳簿のページを愛おしそうに撫で始めた。
「これほど緻密で、透明性が高く、完璧な帳簿は……王城の財務局の金庫をひっくり返しても存在しない。いや、私の三十年の監査官人生で、こんな美しい数字の羅列は見たことがない……っ!」
ついには、監査官の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
「アオイ殿……っ! 私は、己の不明を恥じる! 不正どころか、貴商会は王国で最も清廉潔白で、美しい仕事をしている! 疑って本当に申し訳なかった!」
先ほどの冷酷な態度はどこへやら、バルトロ監査官はカウンター越しに私の手を取り、涙ながらに謝罪してきた。
「わかっていただけたなら、結構です。私たちはただ、当たり前のことを当たり前にやっているだけですから」
(な、泣いている!?複式簿記を見て泣く人なんて前世にも絶対いないよ!?)
「おお……なんという謙虚さ。アオイ殿! どうか、この『フクシキボキ』という魔法のような記述法を、我が財務局の文官たちにもご指導いただけないだろうか!? このままでは、我が国の財務は貴商会に遅れをとってしまう!」
「ええ、構いませんよ。業務コンサルティング契約として、後日お見積もりを出させていただきますね」
私がにっこりと営業の笑み(本物)を浮かべると、バルトロ監査官は何度も頭を下げながら、嬉しそうに事務所を後にした。
「おう。俺の肉も忘れるなよ」
ストーブの前でギルさんが尻尾を揺らす。
冷たい雪風をシャットアウトした温かい事務所に、再びカモミールティーの優しい香りが漂い始める。
前世のトラウマを乗り越え、己のスキルと仲間たちへの信頼で防衛戦を勝ち抜いた私は、今日も心からの平穏を噛み締めながら、ティーカップを傾けるのだった。




