第60話:ヴァニラ・フィナ・ローレン
王都の高級住宅街にひっそりと佇む、立派な石造りの洋館。
それが、私の実家である『ローウェン医院』です。
玄関の重い樫の木の扉を開けると、ほのかに鼻をくすぐる清潔な薬草の香りと、暖炉の薪がはぜる温かい匂いが私を包み込みました。
「ただいま戻りました」
私がコートの雪を払いながら声をかけると、奥の廊下からパタパタと元気な足音が二つ、弾丸のように飛んできました。
「フィナお姉ちゃぁぁん!!」
「お姉ちゃん、おかえりなさい!」
私に勢いよく飛びついてきたのは、まだ五歳の小さな弟テオと、七歳になる妹のリーゼでした。
「ふふっ、ただいまテオ、リーゼ。二人とも、いい子でお留守番していた?」
「うんっ! あのね、お姉ちゃんがいなくて寂しかったけど、僕泣かなかったよ!」
「私も! お母様のお手伝い、ちゃんとしたの!」
私の腰に抱き着いて離れない二人の頭を優しく撫でながら、私は肩にかけていた大きめの荷物を下ろしました。
「えらいわね。そんな二人に、私から『星迎え』のプレゼントよ」
「わぁっ! なになに!?」
私が包みを開けると、中からは上質なウールで編まれた、テオ用のマフラーと、リーゼにぴったりの真っ赤な冬用コートが出てきました。
「お姉ちゃん、これ……すっごくあったかい! フワフワ!」
「僕のマフラーもかっこいい! ありがとう、お姉ちゃん!」
「どういたしまして。私がいま働いている商会の社長さんが、冬の特別手当をくださったから、奮発しちゃった」
大喜びでコートを羽織り、マフラーを巻いてはしゃぎ回る二人を見つめながら、私は胸の奥がぽかぽかと温かくなるのを感じていました。
「……あらあら。フィナ、そんなに高価なものを買わなくても良かったのに。でも、二人とも本当に嬉しそうね。おかえりなさい、フィナ」
奥の部屋から、エプロン姿の優しい母様と、厳格だけれど目尻を下げた父様が顔を出しました。そしてその後ろには、私よりずっと背の高い二人の影――。
「おかえり、フィナ。……ずいぶんと顔色が良くなったな。元気そうで安心したよ」
「本当ね。あんな家出同然で『なんでも屋』なんて怪しげなところに就職するって聞いた時は、どうなることかと思ったけれど」
少しだけ厳しい声でそう言ったのは、すでに父様の医院で立派な医師として働いている優秀な兄様と、王都でも有名な薬師として名を上げている姉様でした。
*
その夜。
我が家の広いダイニングテーブルには、母様が腕によりをかけた星迎えの特別料理が並びました。
香草を詰めてこんがりと焼き上げられたローストバードに、湯気を立てる濃厚なポタージュスープ、そして果実酒の甘い香り。
家族全員で食卓を囲むのは、私が実家を飛び出して以来のことです。
「……それで、フィナ。お前、いつまでその『なんでも屋』での仕事を続けるつもりなんだ?」
スープを一口飲んだ後、兄様が真剣なまなざしで私を見据えました。
姉様も、心配そうに眉を寄せて同調します。
「そうよ、フィナ。あなたのパニックの傷が癒えたのは嬉しいわ。でも、危険な冒険者の真似事なんて、あなたがするべきことじゃない。もう十分に外の世界は見たでしょう? うちの医院に戻ってきて、簡単な受付や調合の助手からやり直せばいいわ」
二人の言葉には、私を愛してくれているからこその深い心配が込められていました。
かつての私は、医学校の過酷な現場で「失敗への恐怖」から手が震え、治癒魔法が使えなくなるというパニック障害を起こし、逃げるように実家を飛び出しました。
兄様も姉様も、そんな私を「守らなければならない弱い妹」として見ているのです。
お二人ともとてもお優しいのです。
昔の私なら、優秀な二人の言葉に圧倒され、シュンとして「ごめんなさい」と俯いていたでしょう。
けれど。
「……お兄様、お姉様。ご心配をおかけしてごめんなさい。でも、私は戻りません」
私は背筋をピンと伸ばし、真っ直ぐに二人の目を見て、笑顔で反論しました。
「私の今の職場は、ただの怪しげななんでも屋じゃありません。王国軍の騎士団や、王城の各部署からも直々に依頼を受ける、王城御用達の『アリフィ商会』です。そして私は、そこの医療と経理を統括する、大切な一員なんです」
「い、医療と経理の統括だと……?」
「ええ。これを見てください」
私は、足元に置いていた自分の医療用カバンをテーブルの上に置き、パカッと開きました。
かつては「ブラックホール」と馬鹿にされるほど乱雑で、必要な薬がすぐに出せなかった私のカバン。しかし今は、アオイさんが教えてくれた『5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』の魔法によって、すべてのポーションや包帯が完璧な定位置に収まり、色分けされたタグで一目で中身がわかる、美しく機能的な空間へと生まれ変わっています。
「こ……これは、なんて美しい配置だ。どんな緊急時でも、一秒のロスもなく必要な器具を取り出せる」
「ええ……。薬瓶同士がぶつかって割れないように、絶妙なクッションの仕切りまであるわ」
医療の最前線にいる兄様と姉様だからこそ、そのカバンの凄さが一瞬で理解できたのでしょう。二人は目を丸くしてカバンの中身に見入っていました。
「それだけじゃありません。私は今、アリフィ商会のオリジナル商品として、新しいお薬の容器を開発しようとしているんです」
私は鞄の奥から、数枚の羊皮紙を取り出しました。
それは、先日アオイさんに提案した『新しい薬瓶の開発プロット(設計図)』です。
「お兄様たちも、夜間の往診や緊急の治療の際、焦って回復薬と毒消しを間違えそうになったことはありませんか?」
「ああ……。特に暗い場所では、瓶の形が同じだとラベルの文字が読めず、ヒヤリとすることがあるな」
「だから、そもそも『間違えようがない形』にするんです」
私は羊皮紙の図解を指差しました。
「毒消しは『四角い瓶』、回復薬は『丸い瓶』と、手で触っただけで絶対に違いが分かるように形状を根本から変えます。さらに、蓋のタグには微かに光る魔石の粉を塗布して、視覚的にも誘導します。アオイさんはこれを『UI/UX(使う人の体験の最適化)』と呼んでいました」
「……っ!!」
私の言葉に、ダイニングテーブルに静かな衝撃が走りました。
「患者の怪我を治す」ことや「より良い薬を調合する」ことしか考えていなかったエリートの彼らにとって、「使う人間が焦っていても、絶対に失敗しない環境を作る」という予防医療の概念は、あまりにも画期的で先駆的なものだったのです。
「……素晴らしい。これは、医療現場の誤投薬という致命的な事故を、根本から防ぐための大発明じゃないか!」
兄様が興奮したように身を乗り出しました。
「ええ! 本当にすごいわ、フィナ! ……でもね、この光るタグの塗料だけど、ただの魔石の粉だと時間が経つと剥がれちゃうわ。魔石の粉に『ルミナ草の樹液』を混ぜてコーティングすれば、暗闇でもっと長持ちするはずよ」
「ボトルの形状も、四角にすると鞄の布地を傷つけるかもしれない。角だけは少し丸みを帯びた『面取り』をするといいぞ。うちの出入りのガラス職人を紹介してやろうか?」
「ルミナ草の樹液……面取り……っ、なるほど! ありがとうございます、お兄様、お姉様!」
私は慌ててペンを取り出し、二人の専門的で的確なアドバイスを羊皮紙に書き込んでいきました。
優秀な兄様や姉様に「教えられる」だけではなく、対等な医療従事者として意見を交わし、私のアイデアを認めてもらえた。
その事実が、たまらなく嬉しくて、胸の奥が熱くなりました。
「……フィナ。お前、本当に立派になったんだな。もう、あのカバンの中身をひっくり返して泣いていた、弱虫な妹じゃない」
父様が、深く感極まったような声で言いました。
母様も、目元をハンカチで押さえて頷いています。
「はい。アオイさんは、私に『勇気を出せ』とか『気合で失敗するな』とは絶対に言いませんでした。代わりに、私が『絶対に失敗しないための環境』を、一緒に作ってくれたんです」
私は、頭に浮かんだ大好きな社長の顔を思い出しながら、ふわりと笑いました。
「少し天然で……たまに一人で『んぎぃぃっ!』と唸りながら変なポーズを取って、顔を真っ赤にしてる不思議な人だけど……。アオイさんは、私が世界で一番尊敬している、私の大切な社長さんです!」
『変なポーズ……?』と家族は不思議そうな顔をしていましたが、私がどれほど今の職場を愛し、誇りを持っているかは、十分に伝わったようでした。
「そうか。お前がそこまで言うのなら……お前の選んだ『アリフィ商会』とやらを、私たちも全力で応援しよう」
兄様のその言葉で、星迎えのディナーは、これ以上ないほど温かく、幸福な時間として夜更けまで続きました。
*
ディナーが終わり、新しいコートを抱きしめたまま寝落ちてしまったリーゼとテオをベッドに寝かしつけた後。
私は自分の温かい部屋のデスクに向かい、ランプの灯りの下でペンを取りました。
インクの懐かしい匂いを嗅ぎながら、真っ白な便箋に文字を綴っていきます。
『アオイさんへ。
家族でのんびりと過ごしています。アオイさんからいただいたボーナスで、弟と妹にも新しい冬着を買ってあげられました。本当にありがとうございます』
ペン先が紙を滑る小さな音が、静かな部屋に響きます。
私の帰る場所は、この温かい実家だけじゃありません。
私を認めてくれて、私が私らしく働ける、あの王都の小さな商会こそが、私のもう一つの「家」なのです。
『風邪を引かないように、暖かくして休んでくださいね。
――フィナ』
手紙を書き終え綺麗に折りたたんで封をします。
ふと窓の外を見上げると、王都の空には、星迎えの魔法のランタンが無数に浮かび、雪景色を幻想的に照らし出していました。
「早く、お休みが明けないかな」
私は窓辺で一人、小さく呟きました。
大好きなアオイさんや、いつも頼もしいリナさん、そしてモフモフで可愛いギルちゃんに、早く会いたい。
彼らと一緒に、また新しい「失敗しない日々」を作っていきたい。
私は手元の薬瓶のプロットを大切に胸に抱きしめながら、春の訪れと、商会での新しい日々を心待ちにして、静かに微笑むのでした。




