第6話:足場を作ってあげること
「ちょっとアオイに、直してほしい『大きな失敗』があって来たの!」
私の事務所の来客用ソファから立ち上がり、目をキラキラさせてそう言い放った少女――リナ・ヴェルナ。
私は抱えていたコーヒー豆の紙袋をそっと自分のデスクに置き、彼女の勢いに気圧されないように小さく息を吐いた。
「ええと、リナさん。まずは落ち着いてください。直してほしい『失敗』って、具体的に何ですか? 雨戸が閉まらないとか、そういうことなら得意なんですが……」
「違うの! 魔物討伐! 王都近郊の農家さんの畑を荒らす小魔物の依頼を受けてるんだけど、なぜか毎回、あと一歩のところで逃げられちゃうの!」
「……ま、魔物、ですか」
「うん! 自分の剣の振りに絶対変なクセがついてると思うんだけど、自分じゃわからなくて。だから、アオイに私の動きを見て、何が間違ってるか直してほしいの!」
ズイッと詰め寄ってくるリナに、私は思わず数歩後ずさった。
「いやいやいや! それって、その、戦う専門の人……ベテランの冒険者さんとか、騎士団の人に見てもらえばいいじゃないですか! 私、剣なんて持ったこともない、ただのしがない『なんでも屋』の素人ですよ!?」
「だって、先輩たちに相談しても『ただの偶然だろ』とか『気合が足りないだけだ』って取り合ってくれないんだもん……!」
リナの大きな瞳に、じわっと涙が滲む。
「でも、私絶対どこかで同じミスをしてる気がするの! このままじゃ農家のおじさんたちに顔向けできないし……アオイなら『人が繰り返す失敗の原因』をすぐに見抜けるって、ラインハルトさんが言ってたから……っ」
(ラインハルトさん! あのクールな顔して、なんて余計な宣伝をしてくれたんですか!餅は餅屋って言葉があるでしょうにい!)
心の中で叫びつつも、私は目の前でポロポロと泣き出しそうな少女を無下に追い返すことができなかった。
前世の私なら、「自分の管轄外なので」と冷たくあしらっていただろう。
でも、この世界で誰かの「繰り返す失敗のつらさ」に寄り添えるのは、もしかしたら私だけなのかもしれない。
「……わかりました。見るだけですよ。絶対に、私は戦いませんからね」
「本当!? やったぁ! さすがアオイ、優しい!」
コロッと表情を輝かせたリナに手を引かれ、私は半ば強引に、王都の城壁の外へと連れ出されることになってしまった。
*
王都を出て小一時間ほど歩くと、農村のすぐ裏手に広がる浅い森へと足を踏み入れた。
空気を循環させる生活魔法で快適に保たれていた王都とは違い、ここはむせ返るような自然の匂いに満ちている。
腐葉土の湿った匂い。どこかで水がチョロチョロと流れる音。そして、頭上の高い枝葉が風に揺れて重なり合う、ザワザワとした葉擦れの音。
ステータス画面や便利なミニマップなど存在しないこの世界では、自分の五感だけが頼りだ。
「アオイ、静かに。……いるよ」
前を歩いていたリナが、スッと腰を落として声を潜めた。
彼女が腰の鞘から長剣を抜く。シャラン、という硬い金属音が空気を震わせた。
ゲームのスキルのような派手な光のエフェクトはない。
ただ、使い込まれて鈍く光る鋼の刃が、木漏れ日を反射しているだけだ。
けれど、リナが剣を構えた瞬間に空気が「ヒュッ」と鳴ったのを聞いて、私は背筋が粟立つような感覚を覚えた。
(ああ、本当に……剣で命のやり取りをする世界なんだ)
少し離れた太い木の陰に隠れ、私はおっかなびっくり顔だけを出して前方を窺う。
「ひええ……あれが、魔物……」
下生えの茂みから姿を現したのは、『風抜けイタチ』と呼ばれる小魔物だった。
なんでも屋の資料で名前だけは知っていたが、実物はただの動物ではない。
体長は中型犬ほどもあり、異常に長い尻尾がムチのようにうねっている。
毛並みは風を纏ったように逆立ち、前足には岩をも砕きそうな鋭い爪が光っていた。
あれが畑を荒らしているなら、農家の人たちはさぞ困っているだろう。
「いくよッ!」
リナが地面を蹴り、風抜けイタチに向かって一直線に踏み込んだ。
速い。迷いのない、見事な踏み込みだ。
彼女はそのまま両手で握った剣を、魔物の脳天めがけて鋭く振り下ろす。
しかし。
――カァンッ!!
嫌な硬い音が森に響いた。
リナの剣は魔物を捉えきれず、イタチが直前までいた場所のすぐ横にある、苔むした岩を思い切り叩き斬っていた。
「キシャァッ!」
イタチはリナの隙を突くように嘲笑うような鳴き声を上げると、すばしっこい動きでパッと木々の奥へと姿を消してしまった。
「あーっ! ほら、また! またこのパターン!」
確かに惜しい。
リナが岩に刺さった剣を引き抜きながら、地団駄を踏んで悔しがる。
安全な木の陰からその様子を観察していた私の中で、静かにスキル『反復拒否』が起動していた。
私の体は、他者の行動の「失敗ルート」に対しても無意識に警鐘を鳴らす。
前世で、私は「後輩の事務員がなぜいつも同じ棚の前でつまずいて書類を落とすのか」を観察し、原因を見つけるのが得意だった。
今、私の目はその事務的な観察眼とスキルの力で、リナの動きの『ズレ』を明確に捉えていた。
「リナさん。あなたの剣の振り方や気合の問題じゃありません」
茂みから出てきた私に、リナが目を丸くする。
「え? じゃあ、なんで?」
「足元です。リナさん、標的に集中するあまり、最後に踏み込む『足場』の確認を無意識に省いていませんか?」
私は、リナが先ほど強く踏み込んだ地面を指差した。
「そこ、少しだけ傾斜していて柔らかい湿った苔が生えています。あそこに右足を踏み込んだせいで、踏み切る瞬間にほんの数ミリだけ重心がブレて、剣の軌道がわずかに外側に逸れたんです」
「……えっ。数ミリの重心のブレ、だけで?」
「はい。大きな魔物ならそれでも当たったのでしょうが、あんなにすばしっこい小魔物相手だと、その数ミリのズレが命取り(空振り)になります」
極めて物理的で、泥臭い原因だ。
リナは自分の足元と、岩を叩いた剣を交互に見つめ、ハッとした顔になった。
「……そういえば、いつも踏み込む時に、足首にフワッとした嫌な感覚があったかも……。私、魔物の動きばっかり見て、自分がどこを踏んでるか気にしてなかった……!」
*
数十分後。
森の少し開けた場所で、再び風抜けイタチが姿を現した。
「リナさん! 剣を振る直前、あの倒木の横の『乾いた土』の場所に右足を置いて踏み込んで!」
私は後方から、安全で滑らない『無難な導線』を声に出して指示した。
「わかった!」
リナは私の指示通り、視線を一瞬だけ足元に落とし、固く締まった土をしっかりと右足で捉えた。
踏み込みの力は逃げることなく、完璧にリナの体幹へと伝わる。
「シッ!」
空気を裂く音と共に振り抜かれた刃は、今度は一切のブレを見せることなく、まるで吸い込まれるように風抜けイタチの胴体を両断した。
「やった……! すごい! アオイの言う通りにしたら、剣が吸い込まれるみたいにピタッて当たった!」
リナは剣についた汚れを布で拭いながら、満面の笑みで私の方へ駆け寄ってきた。
「ふぅ……お疲れ様です。見事な剣筋でしたよ」
討伐後、私たちは手頃な倒木に腰を下ろして休憩を取ることにした。
リナが革袋の水筒を差し出してくれる。
中に入っていたのは、生活魔法で少しだけ冷やされた、癖のない澄んだ水だった。
一口飲むと、緊張で乾いていた喉が潤っていく。
「はい、これお礼! アオイも食べる?」
リナがポンと私の膝に落としたのは、ドライフルーツが練り込まれた携帯用のビスケットだった。かなり硬く焼かれていて、齧るのに少し顎の力がいるけれど、噛み締めるほどに果実の素朴な甘みが口の中に広がる。
こうして森の匂いの中で土にまみれておやつを食べていると、前世の無機質なオフィスでの息苦しさが嘘のように感じられた。
「私の事務的な観察眼が、剣士さんの役にも立つんですね。なんだか不思議な気分です」
「事務的? よくわかんないけど、アオイの目はすごいよ! 私の後ろにアオイがいてくれるだけで、足元がすっごく安定した気がしたもん!」
無邪気に褒めてくれるリナの言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
失敗を恐れる私の力が、誰かが前に進むための足場を作ってあげられる。
それは、とても心地の良い関係だと思えた。
「よーし! この調子でジャンジャン狩るよ!」
「……え? これで終わりじゃないんですか?」
立ち上がって気合を入れ直すリナに、私は嫌な予感を覚えて尋ねた。
「うん! 依頼書には『最低でも五匹は討伐すること』って書いてあったから! あと四匹!」「えぇーっ……」
私は手に持っていた硬いビスケットをポロリと落としそうになった。
「ねえねえ、アオイも戦ってみたりする!? ほら、魔法でサポートとか!」
「無理無理無理! 私、生活用の魔法でちょっと空気を混ぜたりお湯を沸かしたりするくらいしかできませんから! 絶対無理!」
すっかり私の手を引っ張るのが癖になったらしい元気な剣士に引きずられながら、私の『なんでも屋』としての日常は、ますます賑やかな方向へと転がり始めていた。




