第5話:美味しいコーヒー
朝の爽やかな空気が流れる王都の通りを、ローガンさんに腕を引かれるようにして小走りで駆け抜ける。
辿り着いた彼の魔導具工房は、普段から整理整頓とは無縁の場所だが、今は輪をかけてひどい有様だった。
「うげええ……! なんですか、このオゾンみたいな焦げた匂いは!」
扉を開けた瞬間、鼻を突く金属の焼ける匂いと、ピリピリとした静電気のような空気が顔を打った。
部屋の中央にある作業台の上で、それはガタガタと不気味な震えを上げていた。
ローガンさんの新作『自動お湯沸かし魔導具』だ。
見た目は大きな真鍮製のやかんのようだが、側面に複雑な歯車やバルブ、そして魔力を通すための銅色の管が血管のように張り巡らされている。
「アオイ、早く! もう管が限界だ!」
ローガンさんがやかんの側面にある魔石の台座に両手をかざし、必死の形相で魔力の暴走を抑え込んでいる。彼の指先から微かに漏れる光が、明滅を繰り返して不安定に揺れていた。
「わかりました! どこがズレてるんですか!?」
「側面の第二バルブと、その下の調圧歯車だ! 魔力回路は完璧なはずなのに、物理的な噛み合わせが悪くて、力が中で滞ってる!」
私は肩から下げていた工具袋を下ろし、急いでやかんの側面へと回り込んだ。
熱い。近づくだけで、真夏のアスファルトのような熱気が肌を焼く。
分厚い革手袋をはめ、マイナスドライバーのような工具を握りしめた。
震える真鍮の隙間を覗き込むと、確かに歯車の一部が斜めに食い込み、バルブの開閉を妨げているのがわかった。
よし、と息を吐き、工具を差し込もうとした瞬間。
私の中に備わったスキル、『反復拒否』が静かに起動した 。
それは、私が直接犯したミスだけではなく、「目の前にある他人の不器用なミス」に対しても、無意識の警鐘を鳴らす。
(……ダメだ。ここからこの角度で力を入れたら、さっきのローガンさんと同じように歯車の溝を舐めて、完全に詰まる)
体が、指先が、その『失敗のルート』を強烈に拒絶する。
正解が最初からわかっているわけではない。
ただ、「ここを触ればもっと悪化する」という無数のバッドエンドの可能性が、私の手癖を強制的に制限していく 。
私は一度工具を引き抜き、やかんの裏側から手を回した。
熱気に顔をしかめながら、手探りで別のバルブの根元に工具を当て、手首の角度を微調整する。
前世の事務仕事で、絡まったコードを解いたり、詰まったコピー機の紙を破らずに引き抜いたりする時に培った「指先の感覚の精度」が、不思議とこの異世界の金属部品にも適応していく 。
「……ローガンさん、あと少しだけ魔力を緩めてください。私が、道を作ります!」
「わ、わかった……!」
ローガンさんの手に込められていた力がふっと緩んだ、その一瞬の隙。
私は拒絶されなかった『唯一の無難なルート』に沿って、工具をぐっと押し込み、手首を返した。
――カチッ。
硬く、けれどとても心地よい音が響いた。
斜めに食い込んでいた歯車が正しい位置に収まり、バルブがスムーズに回転を始める。
直後、やかんの上部の注ぎ口から「プシューーーッ!」と勢いよく白い蒸気が噴き出した。
内部で暴走しかけていた魔力と熱が、正しい道を見つけて一気に解放されたのだ。
「……ふぅ。直り、ましたよ」
「おおおお! 完璧だアオイ! まるで元からそこにあったみたいに、ピタッと収まったじゃないか!」
ローガンさんが作業台にへたり込みながら、顔をすすだらけにして歓喜の声を上げた。
私は革手袋を外し、汗ばんだ額を腕で拭いながら、大きく息を吐き出した。
まだ午前中なのに、こんなに汗をかいてしまった。
早くお風呂に入りたい。
*
「いやあ、本当に助かった。君がいなかったら、今頃この工房ごと吹き飛んでたよ」
十分後。窓を開け放って煙と熱気を逃がした工房で、ローガンさんが手挽きのミルで豆をゴリゴリと挽きながら笑った。
暴走の危険が去った『自動お湯沸かし魔導具』は、今は嘘のように静かに、シューシューと規則正しい音を立てて適温のお湯を沸かし続けている。
「もう、本当に気をつけてくださいよ。私、爆弾処理班じゃないんですから」
私が呆れ半分で言うと、ローガンさんは「面目ない」と肩をすくめ、挽きたての豆にお湯を注ぎ始めた。
ぽたぽたと落ちる黒い液体とともに、芳醇で少し焦げたような、香ばしい匂いが工房の空気を塗り替えていく 。
渡された木製のマグカップを両手で包み込み、そっと口をつける。
「……美味しい」
思わず、そんな声がこぼれた。
前世の深夜のオフィスで飲んでいた、胃を荒らす眠気覚ましだけの泥水のようなコーヒーとは全く違う 。
豆の本来の甘みと深みがあり、一口飲むごとに体の奥からじんわりと温かさが広がっていく。
この世界のコーヒーは、もっと落ち着く味がする。
「それにしても、ローガンさんって魔力の回路を組むのは天才的なのに、どうしてこう、最後の組み立てでズレちゃうんですか?」
「うーん、俺は魔法の『流れ』を見るのは得意なんだけど、それを物理的な形に落とし込むのがどうも苦手でね」
ローガンさんは自分のカップに口をつけながら、真面目な顔で語り始めた。
「いいかい、アオイ。この世界で『魔法』っていうのは、何か特別なエネルギーの塊や、明確な数値として存在するわけじゃないんだ」
「数値じゃない……」
「そう。例えるなら、風の通り道とか、川のせせらぎ、あるいは人間の『呼吸』や『血流』のような自然の巡りそのものなんだよ 。俺たち魔導具職人は、魔石という心臓を起点にして、その巡りを金属や管という『器』に流し込んでいるだけだ」
ローガンさんが、やかんの側面をそっと撫でる。
「だから、器の形や部品の噛み合わせがほんの少しでもズレていると、呼吸が詰まったり血流が滞ったりする。今回暴走しかけたのは、俺が不器用なせいで、魔法の通り道を捻じ曲げてしまったからだ」
「魔法の呼吸、ですか……」
私はカップの温もりを感じながら、その言葉を反芻した。
レベルやMPという概念がないこの世界では、魔法はもっと生々しく日常の延長線上にある自然現象なのだ 。
「アオイの手癖は、その捻じ曲がった器をあるべき正しい形に整えてくれる。君のその慎重で正確な『経験と感覚』が、魔法の通り道を綺麗にしてくれているんだよ 」
「私の、事務作業みたいな手癖が……魔法を整えてる」
前世では「誰の役にも立っていない」と自分をすり減らしていた私の不器用な丁寧さが、この異世界では、魔法の巡りを助け、誰かの日常を直すことに繋がっている 。
そう思うと、なんだか照れくさくて。
私はもう一口、落ち着く味のコーヒーを喉の奥へ流し込んだ。
*
「それじゃあ、これ修理代と、お礼のコーヒー豆。また頼むよ!」
「また頼まれるような危険な失敗はしないでくださいね!」
ローガンさんと笑い合いながら工房を後にし、私は自分の事務所へと戻ってきた。
紙袋に入ったコーヒー豆の香ばしい匂いが、歩くたびに鼻をくすぐる。
時刻はお昼を少し回ったところだろうか。太陽の光が高くなり、通りの石畳が白っぽく輝いている。
事務所の前に着き、少し重たい真鍮の鍵を回して扉を開けた。
「さて、あとは机に残ってる帳簿付けと、午後の依頼の整理を――」
「あ! 帰ってきた!」
事務所の空気を入れ替えようとした私の声は、室内に響いた明るい声に遮られた。
ビクッとして顔を上げると、見慣れた私のデスクの前の来客用ソファに、見慣れない少女が座っていた。
私と同年代……いや、少しだけ年下だろうか。
彼女の服装は、王都の文官や商人が着るような仕立ての良い服ではなく、動きやすさを重視した活動的な軽鎧だった。腰には飾り気のない実用的な長剣を帯びており、何より、その腕や脚には前世の私のような不健康な細さとは無縁の、しなやかで健康的な筋肉がついている 。
彼女はソファから勢いよく立ち上がると、目をキラキラと輝かせて私を見た。
「あなたが『失敗の修正者(なんでも屋)』のアオイ? やっと見つけた!」
全く予想していなかった来客の、元気すぎる第一声。
私は手に持っていたコーヒー豆の袋を落とさないようにギュッと抱きしめ直し、瞬きを繰り返した。
「えっと……はい、私がアオイですが。あの、どちら様ですか?」
「私? 私はリナ・ヴェルナ! ちょっとアオイに、直してほしい『大きな失敗』があって来たの!」
活動的な剣士の少女は、屈託のない笑顔でそう言い放った。
どうやら、私の「なんでも屋」としての平穏な日常は、まだまだ新しい風を呼び込もうとしているらしかった。




