第4話:小さな事務所と、インクの匂い
ラインハルトさんと別れた後、私は王都の中心街へと向かって歩き出した。
石畳の道幅はさらに広くなり、通りに並ぶ建物も、木造の平屋から立派な石造りの二階建てや三階建ての商館へと変わっていく。
すれ違う人々の服装も、実用的な麻の服から、細かな刺繍が施された絹や上質な綿の外套へと様変わりしていた。
このリュミエール王国の中枢である王都のメインストリートは、前世で言うところの「オフィス街」や「官庁街」のような場所だ 。
通りを歩いていると、すれ違った恰幅の良い商人たちがヒソヒソと交わす声が耳に飛び込んできた。
「北の未開地では、また魔物の動きが活発になっているらしいな。討伐隊が派遣されるとか」
「南の交易都市からの積荷も、少し遅れるかもしれないねえ……」
北の未開地に潜む魔物。南の都市との大規模な交易 。
そんな単語を耳にするたびに、「あぁ、私は本当にファンタジーの世界にいるんだな」と実感する。
前世のゲームや小説でしか知らなかったような、剣と魔法、そしてモンスターが存在する壮大な世界が、確かにこの空の向こうに広がっているのだ。
「ま、しがない『なんでも屋』の私には、そんな物騒で壮大な話、一生関係ないんだろうな」
ぽつりと呟いて、私はクスッと笑った。
平和で安全な王都の片隅で、誰かの雨戸を直したり、迷子の猫を探したりする毎日。それが今の私には、何よりもしっくりきている。
……とは言っても、少しだけ、ほんの少しだけ。
前世でRPGゲームの勇者に憧れていた頃のように、「私も魔法の杖を振ってみたい」とか「かっこいい剣を構えてみたい」というミーハーな好奇心がないわけではない。
でも、実際に大きな剣を持たされて未開地に放り出されたら、すべてを差し出して泣いて逃げ出す自信があった。
立派な商館や役所が立ち並ぶ大通りを一本路地へ入ったところに、背の高い石造りの建物に挟まれるようにして建つ一戸建ての小さな木造の家がある。
入り口のドアには『アオイなんでも屋』と彫られた、少し不格好な木製の看板が掛かっている。ここが、私の城であり、日常の拠点である「事務所」だ。
(うお、異世界の私。まさかの個人事業主)
少し重たい真鍮の鍵を回して扉を開けると、古い紙とインク。
それに少しの埃が混ざったような、静かで落ち着く匂いがふわりと鼻をくすぐった。
私はまず、部屋の奥にある小窓を開け放つ。
そして、生活魔法の延長として、手元でほんの少しだけ空気をかき混ぜるイメージを浮かべた。前世のサーキュレーターのような魔法だ 。
部屋の中に滞留していた古い空気が、微風に乗って窓の外へと押し出され、代わりに朝の澄んだ冷たい空気が流れ込んでくる 。
「よし、今日もいい空気」
コートを脱いでハンガーに掛け、部屋の隅にある小さな給湯スペースへと向かう。
ここでも活躍するのは、火の魔石だ。
小鍋に水を張り、魔石にぽんと指先で触れる。
ぼうっとオレンジ色の火が灯り、やがて水がコポコポと心地よい音を立てて沸騰し始めた。
用意しておいた乾燥ハーブをカップに入れ、熱いお湯を注ぐ。
立ち昇る湯気とともに、カモミールに似た甘く爽やかな香りが事務所いっぱいに広がった。熱いカップを両手で包み込むと、じんわりとした温もりが手のひらから伝わり、朝の冷気で少し強張っていた肩の力がふっと抜けていくのがわかった 。
温かいハーブティーを机に置き、私は自分のデスクチェアに深く腰を下ろした。
木製の大きな机の上には、リュミエール王国や大陸の精巧な手書きの地図が広げられ、端の方には町の人々から寄せられた「依頼書」や、買い出しの「領収書」といった書類が重ねられている。
書類。インクの文字。数字の羅列。
前世の私にとって、これらは「精神をすり減らす呪い」そのものだった。
少しでも目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。
深夜の薄暗いオフィス。チカチカと点滅する蛍光灯 。
PCのファンの低い駆動音 。
エクセルの無機質なセルの上で、合わない数字を追いかけ続けたあの息苦しさ。
一度間違えれば「またか」と叱責され、確認すれば「遅い」とため息をつかれる。そのループの中で、私は自分自身を削り落とすように死んでいった 。
デスクワークというものに対して、深いトラウマがあるはずだった。
けれど、私は今、机の上に積まれた羊皮紙の束にそっと手を伸ばし、インクの染みを指の腹でゆっくりとなぞった。
ざらりとした紙の質感。手書きならではの、文字の太さの不揃いさ。
そこに書かれているのは、私を追い詰める冷たい数字ではない。
『アオイちゃんへ。裏口の蝶番がまた緩んじゃって、時間がある時に直してくれるかい?』
『なんでも屋殿。倉庫の整理を手伝ってほしい』
それは、この町に生きる人々の、血の通った生活の痕跡だ。
前世で私は、誰のためになっているのかもわからない数字の海で溺れていた。
でも今は違う。
この机で行う事務作業や予定の調整は、すべて「誰かの日常のズレを直すこと」に直結しているのだ 。
「……なんだ。私、ちゃんと机に向かえてるじゃない」
ハーブティーを一口飲む。
喉の奥に広がる温かさと共に、前世のトラウマが、まるでインクが水に溶けて薄れていくように、ゆっくりと解けていくのを感じた。
この世界で、この事務所でなら。
私はもう、失敗を恐れて震えるだけの自分じゃなくていい。
そんな風に、静かな喜びに浸りながら本日の依頼書を整理していた、その時だった。
――カランコロンッ! バタン!!
けたたましいドアベルの音と共に、事務所の扉が勢いよく開け放たれた。
「アオイ! いるか!? 助けてくれ!!」
飛び込んできたのは、髪をボサボサにし、鼻の頭にうっすらと黒い煤をつけた青年だった。
東の魔法研究都市で学んだ過去を持つ、街の魔導具職人。
ローガン・ヴェルディアだ 。
彼は優秀なアイデアマンなのだが、いかんせん致命的なまでに「手癖が悪く不器用」なのだ 。
「ローガンさん? またですか……?」
「ああ! 新作の『自動お湯沸かし魔導具』の魔力回路は完璧に組んだはずなんだ! なのに、組み込みの部品の噛み合わせがどうしてもズレてて……このままだと、あと十分で俺の工房ごと大爆発する!」
「大爆発って……! ちょっと、そんな危ないもの放置してこないでくださいよ!」
せっかくの静かな日常の余韻は、一瞬にして吹き飛んでしまった。
私は慌ててハーブティーを飲み干し、机の横に置いてあった工具袋を引っ掴む。
「ほら、急ぎますよ! 私が物理的なフォローをしますから、ローガンさんは魔力の流れを止める準備をしてください!」
「恩に着るよアオイ! 君のその正確な手癖がないと、俺の発明は完成しないんだ!」
涙目で私の背中を押すローガンさんに呆れつつも、私はふっと口元を緩めた。
剣や魔法で世界を救うような派手な冒険はないけれど。
こういう騒がしくて温かい日常のトラブルを「直す」のも、悪くない。
「さあ、お仕事の時間ね」
私は工具袋の重みを肩に感じながら、朝の活気に満ちた王都の通りへと再び駆け出したのだった。




