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第3話:ありがとうの言葉

宿屋の少し立て付けの悪い木の扉を開けると、朝のひんやりとした空気が私の頬を撫でた 。

 

目の前に広がるのは、石畳が敷き詰められたリュミエール王国の街並みだ 。

前世のゲームにあったようなレベルやステータス画面といった数値化された便利な概念は、この世界には一切存在しない 。

スマートフォンの地図アプリも、もちろんない。

 

でも、不思議と迷う気はしなかった。

 

右手の通りからは、焼きたてのパンの甘い酵母の匂いがする 。

左手の奥からは、カンカンという鍛冶屋のハンマーの規則正しい音が響いている。そして足元近く、通りに沿って流れる小さな水路からは、冷たくて清浄な水の気配がした 。これは生活の延長線上にある魔法によって常にろ過され、水質が清潔に保たれている証拠だ 。

 

こうした「匂い」や「音」「空気の温度」といった日常の解像度の高い五感が、私の中に染み込んでいる『アオイ・フォルスター』の感覚と結びついて、自然と見えない地図を作り上げていく 。


ふと、水路の澄んだ水面に自分の顔が映り込んでいるのに気がついた。

足を止め、しゃがみ込んで覗き込む。

水鏡に揺れていたのは、間違いなく私――後藤葵の顔だった 。

でも、何かが決定的に違う。


「……私だ。けど、目の下にクマがない」

 

前世の私は、何でもやる事務として慢性的な疲労を抱え、目の下には常に濃い影が張り付いていた 。けれど、今の水面に映る『私』は、頬に健康的な赤みが差し、憑き物が落ちたように穏やかな表情をしている。

 

あぁ、本当に私は、あの息苦しい毎日から抜け出せたんだ。

そんな些細な事実に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は町の「なんでも屋」としての今日の仕事場――中央広場へと歩き出した 。



広場に続く大通りは、朝の活気に満ちていた。

けれど、ある十字路の角に差し掛かった時、私は妙な違和感を覚えた。


「おっと! 悪い、ぶつかるところだった!」

「気をつけろよ! ……ったく、今日だけで三度目だぞ、ここで躓くのは」

「この道、なんか変じゃないか? 毎回、同じ場所で荷馬車の車輪がガタつくし……」

 

行き交う人々や荷馬車の主たちが、なぜか『毎回同じ角の同じ場所』で、軽く肩をぶつけそうになったり、足元を滑らせたりしているのだ 。

 

誰も怪我をするほどの事故にはなっていない。

ただ、ヒヤッとして舌打ちをする。

そんな「小さな日常のズレ」が、連鎖するように何度も起きている 。

 

前世で「同じミスの繰り返し」にすり減らされてきた私の感覚が、チリチリと警鐘を鳴らす 。

あそこには、人が無意識に失敗してしまう明確な『原因』がある。


その角のすぐそばで、腕を組んで眉間におそろしく深いシワを寄せている人物がいた。

 

背が高く、銀糸のようなさらりとした髪を結んだ、ハッとするほど整った顔立ちの青年だ。上等な仕立ての細身の外套を着こなす彼は、周囲の喧騒から少し浮いているクールな美男子だった 。


「おかしい。人々の歩行速度と道幅の計算上、ここで動線が乱れるはずはない。なぜ皆、判で押したように同じ場所で躓くんだ……?」

 

彼はブツブツと、ひたすら論理的な推論を呟いている。

どうやら彼もこの「ズレ」に気づいているものの、原因がわからずに苛立っているらしい。私は、肩から下げた革の工具袋を軽く叩いて、彼に声をかけた。


「あの、どうかしましたか?」

 

青年はハッと顔を上げ、私を見た。

切れ長の青い瞳が、私を少しだけ驚いたように見つめる。


「……君は?」

「通りすがりの、しがない『なんでも屋』です。アオイといいます」

「なんでも屋。……私はラインハルトだ。王国軍の騎士団長を拝命している」

「騎士団長様…」


ラインハルトと名乗った騎士団長の彼は、ため息混じりに角を指さした 。


「ここ数日、この交差点での接触トラブルが多くてね。私が設計を見直しているのだが、道幅にも傾斜にも問題はない。魔法的な罠の反応もない。なのに、人が同じ場所で躓く」


「なるほど……少し、見させてもらってもいいですか?」


私は交差点の角に立ち、人々の流れを観察した。

ここで、私の内にあるスキル『反復拒否リフューザル』が静かに作用し始める 。

 

私が直接行動するわけではないが「一度“失敗”と認識した行動を無意識に回避する」という能力が、他人の動きを観察する際にも『悪いルートの排除』として働くのだ 。


私の目は「絶対に無難なルート」をなぞり、逆説的に「失敗を誘発している原因」を浮き彫りにした。


「……ラインハルト様、道幅でも計算でもありません。あそこです」

 

私は、角の建物の二階部分――最近新しく掛けられたらしい、真鍮製の立派な看板を指差した。


「あの看板、少しだけ下向きに角度がズレてますよね? 朝のこの時間帯、あそこに反射した日光が、ちょうど歩行者の目線を一瞬だけ奪うんです」


「光の反射……?」

「はい。そして、光に気を取られてほんの少し足元への意識が逸れた瞬間――」

 

私は角の石畳の継ぎ目を靴のつま先でトントンと叩いた。


「ここ。二つの石の間に、小指の先ほどの微妙な段差があります。普段なら絶対につまずかないような小さな段差ですが、目線を奪われた状態だと、面白いように引っかかるんです」

「……! まさか、そんな物理的かつ些細な要因が重なって……」

 

驚愕して目を見開くラインハルト様をよそに、私は工具袋から小型の木槌と、調整用の砂が入った小袋を取り出した。


ここからが不思議な感覚だった。


前世の『後藤葵』は、DIYなんて一度もやったことがない、ペンとキーボードしか持たない事務員だ 。

 

けれど、木槌を握った瞬間、私の手は自分の意思とは別に無駄のない自然な軌道を描いた。石畳の隙間に砂を均等に流し込み、木槌でトントン、と小気味よいリズムで叩き込んでいく。


力任せではない。

石の硬さ、砂の沈み込み具合を『感覚』として手が理解している 。

数値化された技術などないけれど、私の中の『アオイ・フォルスターとしての経験と手癖』が、完璧に作業をこなしていくのだ 。

 

段差を滑らかに埋め終わると、私は宿屋のマルグリットさんがやっていた見よう見まねで、生活魔法の延長として空気を循環させるように風の魔法をそっと使い、看板の留め具の角度を微調整した 。


「よし、これで大丈夫です」


工具を袋に戻して立ち上がると、ラインハルト様が呆然とした顔で私を見ていた 。

数分後。交差点を通り過ぎる人々は、誰一人として看板に目を奪われることも足元を滑らせることもなく、スムーズに歩き去っていく。


「……見事だ」

 

ラインハルト様が、ポツリとこぼした 。

そのクールな顔には、先ほどの苛立ちの代わりに、純粋な感心の念が浮かんでいる。


「なんでも屋、と言ったね。アオイ。君のその変化を見逃さない『観察眼』と『確かな手仕事』に感謝する。これは、私個人からの依頼料だ」

 

彼はそう言って、銀貨を一枚、私の手に握らせた。


「また何かあれば、君に頼ませてもらうかもしれない。……同じミスを、私は見過ごせない性分でね」

「ふふっ、ありがとうございます。私も、同じ失敗を繰り返すのは嫌いなんです」

 

ラインハルト様と別れ、私は手の中の銀貨を見つめた。

前世では、同じミスのループに苦しみ、すり減っていくだけの毎日だった 。

でも、この世界では。

誰かの繰り返す失敗つまずきを、私の感覚と手癖でそっと直してあげる。

それが誰かの日常を少しだけ滑らかにして、こうして確かな対価と「ありがとう」に変わる。

 

失敗の修正者としての役割が、こんなにも心地のいいものだなんて 。

ひんやりとした朝の風が、少しだけ前を向いた私の背中を、優しく押してくれた気がした 。





「あの子は、うまくやれているみたいね」

「ああ。だが、ここからが本番だ」


「失敗を失った世界は、決して楽ではないもの」


「それでも――」

「ええ。それでも、あの子はきっと選ぶわ」


「今度こそ、自分を責めない道を」

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