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第2話:新しい日常

温かな光の中へ足を踏み入れた瞬間、ふわりと体が浮き上がるような感覚に包まれた。

 

落ちているのか、昇っているのかもわからない。

ただ、心地よい微睡みのような浮遊感の中で

私の内側に「何か」がじんわりと染み込んでくるのを感じていた。


それは、文字化された情報や、脳内に直接響くような無機質なシステムメッセージではない。


もっと生々しくて、温度を持った「感覚」だった。


手のひらに収まる、火の魔石のじんわりとした温かさ。

長く歩くと足の裏に響く、街の石畳の硬さと凹凸。

パン屋の軒先から漂う、少し酸味のある酵母の香り。


そして、『アオイ・フォルスター』という響き。


(ああ、私……これからは、そう名乗るんだ)


後藤葵という前世の記憶は確かにある。


けれど、アオイ・フォルスターという名前もまた、まるでずっと前から着慣れていた上着のように不思議なほど自然に私の中に定着していた。


『あなたは、リュミエール王国の片隅で、アオイ・フォルスターとして目を覚まします』


遠ざかる意識の端で、あの狭間で聞いた案内人の柔らかな声が、風のそよぎのように耳を撫でた。


『街の「なんでも屋」。それが、この新しい世界でのあなたの居場所です。さあ、行ってらっしゃい』


その言葉を最後に、光は限界まで白く膨れ上がり――パチンと、弾けた。



ふと、鼻腔をくすぐる匂いで意識が浮上した。

 

麦が少しだけ焦げたような、香ばしくて素朴な匂い。

そして、野菜をじっくりと煮込んでいる甘い香り。


ゆっくりと重い瞼を開ける。

 

最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの真っ白な天井でも、実家のアパートの壁紙でもなく、太い木の梁が剥き出しになった少し低めの天井だった。

 

窓の隙間から、朝の冷たい空気がすうっと流れ込んできて、頬を撫でる。

 

窓枠は少し立て付けが悪いらしく、カタ、カタ、と微かな音を立てていた。

そこから差し込む朝陽が、部屋の空気に混じる細かな埃をきらきらと照らし出している。


「……本当に、違う世界に来たんだ」


掠れた声が、喉からこぼれ落ちた。


情報のインストールというか、事前の知識のようなものは感覚として備わっているはずなのに、いざこうして『視界』として現実を突きつけられると、やはりひどく戸惑う。


ゆっくりと身を起こす。

ベッドのシーツは少し粗いリネンのような手触りでゴワゴワとしているが、それがかえって「ここにいる」という現実味を手のひらに伝えてきた。


遠くから、カパカパという規則的な馬の蹄の音と、車輪が石畳を転がる重たい音が聞こえる。

前世で毎朝聞いていた、無機質なスマートフォンのアラーム音や、せわしなく行き交う車のエンジン音はどこにもない。


私はベッドの端に腰掛け、ふう、と長く息を吐いた。


なんだか喉が渇いている。


視線を巡らせると、簡素な木製のサイドテーブルの上に陶器の水差しと木彫りのコップが置かれているのが見えた。


手を伸ばし、水差しの取っ手を握る。ひんやりとした陶器の感触。

コップに水を注ごうと傾けかけた瞬間、ふと、前世の記憶がフラッシュバックした。


(寝起きのぼんやりした頭で水を注いで、よくテーブルにこぼしていたっけ……)


こぼした水を慌ててティッシュで拭き取りながら、「ああ、朝からまたやっちゃった」と自己嫌悪に陥るのが、前世での私の日常的な「小さな失敗」の一つだった。


今日もまた、こぼしてしまうかもしれない。

そんな不安が頭を過った、その時だった。


――ピタッ。


私の手首が、ごく自然な軌道を描いて、ある一定の角度で静止した。

まるで、見えない糸で最適な位置に導かれたような、あるいは「そこから先へ傾けたら絶対に失敗する」という境界線を、体が本能的に察知したような感覚。


ちょろちょろと、澄んだ水が木彫りのコップの中へと滑り落ちていく。

一滴もこぼれることなく、コップの八分目あたりで、私の手は自然に水差しを引き戻していた。


「あ……」


これが、あの神様のような案内人が言っていた力。

スキル『反復拒否リフューザル』。


私の体は、「寝ぼけて水をこぼす」という過去の失敗の記憶を無意識に参照し、それを引き起こすような手の傾きや力加減を『拒否』したのだ。

 

決して、華麗な手つきでプロのバーテンダーのように注げるようになったわけではない。ただ、「失敗に繋がる動きを避けた結果、無難に注げた」という感覚だ。

 

少し不自由な気もするけれど、テーブルを濡らすことも、朝から自分を責めることもない。


「……うん。悪くない、かも」


木のコップを両手で包み込み、ゆっくりと水を飲む。

少しだけ土の匂いがする冷たい水が、乾いた喉を潤し胸の奥へと落ちていく。

その冷たさが、なぜだか泣きたくなるほど美味しく感じられた。


身支度を整え、少し軋む木の階段を下りて一階へ向かう。

私が目を覚ましたこの場所は、リュミエール王国のとある町にある小さな宿屋だった。頭の中にある「アオイ・フォルスター」の記憶が、ここが私の住処であることを教えてくれている。


一階は、こぢんまりとした食堂になっていた。

朝の光が差し込む中、かまどの前に立つ少しふくよかな後ろ姿が見える。

宿の女将、マルグリットさんだ。

五十代くらいの彼女は、鼻歌を歌いながら大きな鍋を木べらでかき混ぜていた。


「おはようございます、マルグリットさん」

「おや、おはようアオイ。今日は随分と早起きだねえ」


マルグリットさんが振り返り、目尻に深いシワを寄せて笑った。

その笑顔を見た瞬間、私の中にあった微かな緊張が春の雪のようにふっと溶けていくのを感じた。


「昨日はよく眠れたかい? なんだか、少し顔色がすっきりしてるみたいだけど」

「はい。すごく……ぐっすり眠れました。なんだか、憑き物が落ちたみたいに」

「そりゃあ良かった。若いんだから、しっかり食べて、しっかり眠るのが一番だよ」


そう言って、マルグリットさんは再びかまどに向き直る。

その時、私は彼女の手元を見て、思わず目を丸くした。


マルグリットさんは、かまどの下に置かれた赤黒い石

――火の魔石に、ぽんぽんと指先で触れた。

すると、彼女の指先から小さなオレンジ色の光がこぼれ落ち、魔石に吸い込まれていく。

直後、かまどの火が「ぼうっ」と勢いを増し、鍋の底を均等に包み込むように安定した。


(魔法……だ)


前世のファンタジー小説で読んだような、杖を振り回して炎の矢を放つような派手なものではない。

火を安定させ、温度を保ち、料理を美味しく作るための、ごく当たり前の「生活の技術」。


マルグリットさんの動きには、長年の経験からくる「手癖」のような滑らかさがあり、魔法がこの世界の人々の日常にどれほど深く根付いているかを物語っていた。


「さあ、出来たよ。適当なところに座っておくれ」


促されるままに、私は窓際の木製テーブルに腰を下ろした。

コトン、と目の前に置かれたのは、湯気を立てる野菜たっぷりのスープと、手のひらよりも大きな黒パン。

 

パンをちぎろうとすると、表面はかなり硬く、少しだけ力が必要だった。


けれど、中の生地はもっちりとしていて、ちぎった瞬間に湯気とともに小麦の甘い香りがふわりと立ち昇る。


「いただきます」


パンをスープに少しだけ浸して、口に運ぶ。

野菜の旨味が溶け込んだ優しい塩味のスープが、硬いパンをほどよく柔らかくしてくれ、噛み締めるほどにじんわりとした美味しさが広がった。


「今日も、『なんでも屋』の仕事かい?」

 

自分の分の麦茶が入ったカップを手に、マルグリットさんが向かいの席に腰を下ろしながら尋ねてきた。


「はい。……あの、私、《《なんでも屋》》として、ちゃんとやれてますか?」


ふと、不安になって聞いてしまった。


前世で、私は何をやっても中途半端で、結局は自分の首を絞めてばかりだった。


この世界での記憶がインストールされているとはいえ、今の「私」の意識が表に出たことで、何かズレが生じていないだろうか。


マルグリットさんは、不思議そうな顔をして小首を傾げた。


「何を当たり前のことを聞いてるんだい。アオイの仕事は丁寧だって、近所の連中もみんな言ってるじゃないか。この間だって、裏のトーマスじいさんの家の雨戸、綺麗に直してくれただろう?」


「あ……」


「あんたは少し慎重すぎるところがあるけど、その分、絶対に手抜きをしない。そういう『真面目さ』は、誰もが持ってるもんじゃないんだよ」


マルグリットさんの言葉は、前世でいつも「遅い」「また確認してるの?」と言われていた私の傷跡に、温かい軟膏を塗ってくれるようだった。

 

この世界では、私のその「慎重さ」が、誰かの役に立っている。

 

失敗を恐れて縮こまっていた私の性質が、『反復拒否』というスキルと、この「なんでも屋」という役割を通じて、新しい意味を持ち始めている。


「……ありがとうございます、マルグリットさん。今日も、頑張れそうです」


「ふふっ、無理はしない程度にね。何かあったら、いつでも戻ってきて温かいスープをおあがり」


スープを飲み干し、私は席を立った。

窓の隙間から入り込む風は、相変わらず少し冷たい。

けれど、前世で感じていたような、背中を急かされるような焦燥感はもうどこにもなかった。


私は、自分の足で歩き出す。

レベルも、ステータス画面もない。

あるのは、自分が積み重ねていく経験と感覚、そして「同じ失敗は繰り返さない」という静かな誓いだけ。


少し立て付けの悪い宿屋の扉を開けると、朝の喧騒が私を迎え入れてくれた。


新しい日常が、ここから始まる。

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