第1話:行ってらっしゃい。後藤葵
【元・限界事務員、【反復拒否】で町の日常トラブルをドタバタ解決!】
数ある作品の中から開いていただきありがとうございます!
第1話は主人公の前世の少し辛い描写がありますが、次回から優しい異世界での日常が始まりますのでご安心ください。
不器用な主人公のやり直し生活、楽しんでいただけたら嬉しいです。
「あの子は、よく耐えたわね」
「ああ。誰に褒められるでもなく、誰に救われるでもなく」
「ただ、同じ過ちを繰り返さないようにって、それだけを支えに」
「自分を削り続けていた」
「……優しい子ほど、そうして自分を罰してしまうのよ」
「間違えたことよりも、“また間違えた自分”を許せなくなる」
「だから、壊れてしまった」
「ねえ」
「あの子に必要なのは、“成功する力”だと思う?」
「いや」
「“もう自分を責めなくていい”と、知ることだ」
「ええ。だから私たちは、少しだけ手を貸すの」
「同じ痛みの場所に、二度と戻らなくていいように」
「同じ涙を、何度も流さなくていいように」
「それでも――」
「選ぶのは、あの子自身よ」
「ああ」
「失敗を避けるだけでは、前には進めない」
「けれど、あの子ならきっと大丈夫」
「今度こそ。《《お互いに》》」
「自分に優しい選択を、選べるはずだから」
*
気がつくと、そこは何もない静かな場所だった。
視界を覆うのは、淡い乳白色の靄。
上も下も、右も左もわからない。
ただ、足元だけはひどく不明瞭で、まるで厚く積もった新雪の上を歩いているような。
あるいは水底の泥を靴越しに踏みしめているような、頼りない感覚だけがあった。
寒くはなかった。
暑くもない。
風の匂いも、埃っぽさもない。
完全な無臭と、耳鳴りすら吸い込まれていくような絶対的な静寂。
(……私、どうしたんだっけ)
後藤葵、二十六歳。
自分の名前と年齢は、すぐに頭に浮かんだ。
けれど、なぜこんな場所にぽつんと立っているのかがどうしても思い出せない。
曖昧な足元を確かめるように一歩踏み出そうとした瞬間。
ふと、キーボードの冷たい感触が指先に蘇った。
『――後藤さん。ここ、また数字が合ってないよ』
脳裏に響いたのは、うんざりしたような上司のため息交じりの声だった。
途端に、堰を切ったように記憶が溢れ出す。
前世――そう呼ぶべきなのだろう。
葵は、都内にある従業員三十名ほどの中小企業で働いていた。
肩書きは総務兼経理だが、実態は「何でもやる事務」だ。
備品の補充から、来客対応、細々とした経費精算、時には営業の資料作りまで。
毎日毎日、同じような作業がとめどなく押し寄せてくる環境だった。
最初は、やりがいを持とうとしていた。
付箋を色分けし、チェックリストを作り、ミスをなくすための工夫を凝らした。
それでも疲労が蓄積するにつれて、少しずつ何かが狂い始めた。
エクセルのセルに打ち込んだ「3」と「8」の取り違え。
何度もダブルチェックしたはずなのに、なぜか印刷すると抜け落ちている項目。
「前回も言ったよね?」という指摘。
(ちゃんとやっているつもりなのに。気をつけているのに)
(なんで、なんでまた同じところで間違えるの……?)
誰かを傷つけるような大きな事件を起こしたわけではない。
けれど、日常業務の中の「小さなミス」は、確実に周囲の時間を奪い信用を削り取っていった。
「またか」という視線。
「自分はダメだ」という自己嫌悪。
抜け出せないループの中で、葵の精神は薄紙を剥がすように少しずつ摩耗していった。
思い出した。
最後の記憶だ。
決算期の月末。
深夜十一時を回った、薄暗いオフィス。
チカチカと点滅する蛍光灯の下で、冷めきった泥水のようなコーヒーを喉に流し込みながら、ぼやける視界でモニターの数字を追っていた。
急に息が苦しくなった。
胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような圧迫感。
助けを呼ぼうと立ち上がったはずが、膝から崩れ落ち、そのままオフィスの冷たいタイル床に頬を打ち付けた。
PCのファンの低い駆動音だけが、やけに鮮明に耳に届いていたのを覚えている。
大きな事故でも、劇的な病でもない。
ただの過労と精神的疲弊。
静かに、人生が壊れて終わった瞬間だった。
「あぁ……そっか。私、死んだんだ」
自分の口からこぼれた声は、思いのほか平坦だった。
悲しみよりも、底知れない疲労感と
「もうあの席に座らなくていいんだ」という微かな安堵が胸の奥で渦巻いている。
「ええ、その通りです。あなたは死にました」
「お疲れ様。本当に、よく頑張ったね」
不意に、静寂を破る声が降ってきた。
一つは、深く落ち着いた男性の声。
もう一つは、包み込むように柔らかな女性の声だ。
キョロキョロと周囲を見渡しても、姿はない。
ただ、その声は不思議なほどに心地よく、葵のささくれた心を撫でるような人間味を帯びていた。
「誰、ですか?」
「世界の案内人、とでも名乗っておきましょうか」
と男性の声が答える。
「あなたの魂は今、狭間にあります。これからどうするか、それを決めるための場所にね」
女性の声が優しく引き継ぐ。
「後藤葵さん。あなたは前の人生で、同じ失敗を何度も繰り返してしまいました」
その言葉に、葵はビクッと肩を震わせた。
責められているわけではないとわかっていても、心の傷を的確に突かれた気がした。
俯く葵に、男性の声が淡々と、しかし真摯に告げる。
「同じ間違いを繰り返すこと。それは、これからあなたが行く新しい世界でも、大きな問題になります」
「新しい……世界?」
「ええ。あなたはもう一度、別の場所で生き直す権利を得ました。ですが、その優しい心根と生真面目さゆえに、また自分を責め、壊れてしまっては《《意味がない》》」
ぽわん、と。
葵の目の前の靄が晴れ、遠くに小さな、けれど温かなオレンジ色の『光』が灯った。
ストーブの火のような、パンが焼ける匂いを連想させるような
ひどく懐かしい光だった。
「だから、与えましょう」
「あなたがもう二度と、自分を削り落とさなくて済むように」
「“同じ失敗だけは二度とできない力”を」
二つの声が重なり、葵の胸の奥底にポトンと熱い雫のようなものが落ちた感覚があった。
「それは、スキル『反復拒否』」
「一度“失敗”と認識した行動は、無意識に回避し、二度と同じ形では実行できなくなる力です」
男性の声が、静かにその性質を説明する。
「勘違いしないでくださいね。これは常に『大成功』を約束する魔法ではありません。ただ、あなたが『これはダメだった』と心底理解した選択肢を、強制的に排除するだけのもの」
「同じ無難な道ばかり選ぶようになるかもしれないし、常に新しいやり方を考えなきゃいけなくなるかもしれないわね」と、女性の声が少しだけ心配そうに付け加えた。
(同じ失敗を、繰り返せない……)
それは、便利というよりは、少し不自由な力に思えた。
けれど、葵にとっては、何よりも欲しかったものだった。
確認漏れ。数字の打ち間違い。
あの、胃が捩れるような「またやってしまった」という絶望感。
あれを二度と味わわずに済むのなら。
「さて、選択の時です」
案内人が告げる。
「振り返れば、あなたの魂はここで完全に眠りにつき、終わります。何も苦しむことはありません。また別のどこかの何かに、生まれ直せるかもしれません。」
「でも、もしその光へ進むのなら。あなたは新しい世界で、もう一度『選ぶ』ことになります」
葵は、ゆっくりと息を吐いた。
後ろを振り向けば、この心地よい無音の中で、眠ることができる。
現実世界で、きっと新しい人生が待っているのかもしれない。
それはひどく甘美な誘惑だった。
けれど。
(同じ間違いをしないなら)
(次は、もう少しだけ、誰かの役に立てるように生きられるかもしれない)
大きく息を吸い込み、葵は不明瞭な足元をしっかりと踏みしめた。
そして、前を向く。
遠くで瞬く、あの温かな光へ向かって、一歩、また一歩と歩き出した。
「……行ってらっしゃい、葵。新しい日常へ」
案内人たちの優しい声が背中を押す。
光が視界を白く染め上げ、同時に。
鼻腔をくすぐるような焦げたパンの匂いと、朝の冷たい空気の気配が、新しい世界の始まりを告げていた。
(今度こそ、ちゃんとできる……たぶん)
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第1話は葵の辛い前世の描写から始まりました。
「何度確認してもミスをしてしまう」
「頑張っているのに空回りしてしまう」
……そんな葵の痛みに、毎日を懸命に生きるご自身の姿を重ねて、
少し苦しくなってしまった方もいらっしゃるかもしれません。
でも、どうかご安心ください。
ここから先は、葵が温かい世界でゆっくりと深呼吸をし、
自分を許しながら生きていく、とことん優しく笑える物語になります。
これからの物語、以下の3つのポイントをお楽しみください。
1. 「絶対に同じミスをしない」スキルの斜め上のドタバタ感!
2. 現代の「お仕事疲れ」に効く、ヒーリングファンタジー
3. 「元・事務員」の気配りスキルが異世界で輝く
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