第58話:私はここでやり直す。
ふかふかの羽毛布団の中で、私はゆっくりとまぶたを開けた。
窓の隙間から差し込む冬の柔らかな日差しが、シーツの上に淡い金色の四角い模様を描いている。
部屋の空気はひんやりと冷たいが、布団の中は自分の体温でぬくぬくと温かく、最高の心地よさだった。
(……うっほ~~。気持ちいい目覚め。なんて気持ちいい年末~~)
私は布団の中で手足をぐーっと伸ばし、だらしない声で独り言ちた。
時刻は、もうすぐ昼に差し掛かろうかという頃合いだ。
普段ならとっくに起きてアリフィ商会の事務所へ向かっている時間だが、今日から私たちは三日間の『星迎え休日』に入っている。
目覚まし代わりの鳥の鳴き声も、急ぎの書類の締め切りも、明日のタスクを気に病むプレッシャーも何もない。
完全なる、絶対的なお休みだ。
(せっかくの休日ですし……「昼間からお酒」なんか飲んじゃおうかな~~。温かいストーブの前で、ちびちびと果実酒を舐める限界干物女の極み……ふふふ)
想像するだけでニヤニヤが止まらない。私はウキウキとした足取りでベッドから抜け出し、厚手のリブ編みカーディガンを羽織って、宿屋『マルグリット』の1階へと降りていった。
階段を下りていくと、食堂の方からふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
スパイスと肉の脂、そして野菜の甘みが溶け合った、濃厚な煮込み料理の匂いだ。
「おはようございます、マルグリットおばさん。いい匂いですね」
「あら、アオイちゃん。おはよう。よく眠れたかい?」
厨房では、宿屋の女将であるマルグリットおばさんが、大きなエプロンをきゅっと締めて、忙しそうに立ち働いていた。
コンロにはいくつもの大きな鍋が並び、『火の魔石』の柔らかい炎がコトコトとリズミカルな音を立てている。さらに、ホールの天井付近には、今夜の『星迎え』の祭りに向けて、淡く発光する魔法のランタンがいくつも飾り付けられようとしていた。
「おばさん、年末年始の特別料理の仕込みですか?」
「そうさね。今夜は常連のお客さんたちがいっぱい来るから、ごちそうをたくさん用意しておかないとね。ランタンの磨き上げも残ってるし、おばちゃん、目が回りそうだよ」
マルグリットおばさんは笑いながら額の汗を拭った。
それを見た瞬間、昼からお酒を飲んでダラダラしようとしていた私の干物女マインドは、スッとどこかへ引っ込んだ。
「私も手伝いますよ、マルグリットおばさん。いつもお世話になっていますから」
「えっ? いやいや、アオイちゃんはせっかくの休日なんだから、ゆっくり休んでおいでよ」
「いいんです。私がやりたいんです」
私は壁に掛かっていた予備のエプロンを借りて首から下げ、袖をまくり上げた。
まずは、山のように積まれた泥付きのじゃがいもの皮剥きからだ。
包丁を握り、シュルシュルと薄く皮を剥いていく。
手元に集中する単調な作業。
冷たい水で洗われた野菜の土の匂いが、なんとも清々しい。
(……前世の休日なら、休みの日に台所に立つなんて絶対にあり得なかったな)
ふと、そんなことを思った。
前世の限界事務員だった頃の休日は、「仕事で削られたHPと精神力を回復するためだけに、死んだように眠る時間」でしかなかった。食事はコンビニかデリバリーで済ませ、誰のために何かを作ろうという気力など、一ミリも残っていなかったのだ。
けれど今は違う。
こうして誰かのために、自分の意志で自発的に手を動かすことが、不思議なほど心地よい。
それはきっと、私の心が「生活」というものに正しく向き合えるほどに、健やかに回復している証拠なのだ。
じゃがいもの皮剥きを終えると、次は大鍋の野菜のカットを任された。
玉ねぎとニンジンをザクザクと切っていく。その時、ふと私の『限界事務員・効率化センサー』がぴくりと反応した。
(これ、野菜をもっとみじん切りにして、火の魔石の出力を最大まで上げれば、煮込み時間を一気に短縮(時短)できるのでは……? そうすれば、おばさんの作業負担も減るはず!)
「マルグリットおばさん! この野菜、もっと細かく刻んで強火で一気に――」
前世の時短レシピの知識を披露しようと口を開きかけた、その時だった。
「アオイちゃん、そのお鍋の火の魔石は、一番弱い出力のままにしておいてね」
マルグリットおばさんが、私の言葉を遮るように優しく微笑んだ。
「今日はね、ゆっくり時間をかけて煮込む日だから。焦らず、急がず、アクをすくいながらじっくり火を通すのさ。そうやって手間暇をかけた分だけ、スープは丸く、優しく美味しくなるんだからね」
おばさんのその言葉に、私はハッとした。
(そうだ……。料理は、手間暇をかけていいんだった)
効率化や時短、PDCAサイクル。
仕事の場ではそれが正義かもしれない。
けれど、ここは休日の宿屋の台所だ。
分単位のスケジュールを気にして急ぐ必要なんて、どこにもないのだ。
私の体の中で、ピクリと発動の準備をしかけていたスキル『反復拒否』が、まるでおばさんの包容力に浄化されるように、スッと静かに眠りについた。
ポンコツなポーズを取らされることもなく、完全な平穏が保たれたまま、私は「はい」と微笑んで弱火の鍋を見つめた。
コトコトと煮える音と、甘い匂い。
完璧な効率よりもずっと尊い「余白の温かさ」が、そこにはあった。
*
そして、星迎えの夜。
外は深々と雪が降り積もり、王都の街並みは真っ白に染まっていた。
しかし、宿屋『マルグリット』の食堂の中は、常連客たちの笑い声と熱気でむせ返るほどに賑わっていた。
天井から吊るされた無数の魔法のランタンが、星屑のようにキラキラと温かい光を放ち、テーブルの上には昼間からじっくりと煮込んだ絶品のシチューや、こんがりと焼き上げられたローストポークが所狭しと並べられている。
「はむっ、むぐ……。悪くねェな、この肉」
私の足元では、事務所から遊びに来た小狐幻獣のギルさんが、特別にもらった特大の骨付き肉に齧り付いていた。
見た目は可愛いモフモフなのに、その口から漏れる感想は相変わらずハードボイルドなイケボである。
「アオイちゃん、お客さんから預かり物だよ。冒険者ギルドの配達便で届いたみたい」
マルグリットおばさんが、二通の封筒を私に手渡してくれた。
封を切ると、それはそれぞれ一人暮らしをしているリナさんとフィナさんからの手紙だった。
『アオイへ! パパとママとお肉食べてるよ! すっごく美味しい! アオイのおかげで、今年は最高の星迎えになったよ。来年もよろしくね!――リナ』
『アオイさんへ。家族でのんびりと過ごしています。アオイさんからいただいたボーナスで、弟と妹にも新しい冬着を買ってあげられました。本当にありがとうございます。風邪を引かないように、暖かくして休んでくださいね。――フィナ』
少し癖のある元気なリナさんの字と、几帳面で丁寧なフィナさんの字。
二人の楽しそうな顔が目に浮かび、私の胸の奥に、ぽっと温かい灯りがともった。
(良かった。二人とも、ご家族と素敵な時間を過ごせているんですね。
……来年も、この子たちの笑顔を守りたいな)
自分の仕事が、仲間たちの笑顔と幸福に繋がっている。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
*
夜も更け、宴も落ち着いて常連客たちがそれぞれの部屋へと戻っていった頃。
静かになった食堂で、私はマルグリットおばさんとカウンターに並んで座っていた。
「ほら、アオイちゃん。お疲れ様。スパイスと林檎を入れたホットワインだよ。これを飲んで、よく温まりな」
おばさんが、湯気を立てるマグカップを差し出してくれた。
両手で包み込むと、ジンと心地よい熱が手のひらに伝わってくる。
一口飲むと、果実の甘みとスパイスの香りが鼻腔を抜け、アルコールのほのかな熱が全身を巡っていった。
「美味しい……。ありがとうございます、おばさん」
「いいのさ。今日はいっぱい手伝ってくれたからね」
おばさんは、慈しむような、どこか懐かしむような優しい目で私を見つめた。
「あんた、うちの宿に来たばかりの頃は、いつ壊れてもおかしくないくらい、ギリギリに張り詰めた顔をしてたのにねぇ。……今は、本当にいい顔になったよ」
その言葉に、私はマグカップを見つめたまま、小さく息を吸い込んだ。
(……私自身が記憶を持って転生してくる前の、この『アオイ・フォルスター』という女の子も、前世の私と同じようにギリギリまで張り詰めて生きていたのかな)
私がこの世界で目を覚ました時、私はすでに『アオイ・フォルスター』という一人の人間だった。転生する前の彼女がどんな生活をして、どんな苦しみを抱えていたのか、私には分からない。
けれど、おばさんの言葉を聞く限り、彼女もまた「失敗を恐れ、自分を削って生きる」張り詰めた日々を送っていたに違いない。
だからこそ、私の魂と彼女の器はこうして見事に引き合い、同じ痛みを共有して一つになれたのだろう。
「……おばさん」
ふと、私の脳裏に、もう二度と会えない人たちの顔が浮かんだ。
遠く離れた秋田の実家に住む、前世の両親の顔だ。
(お父さん、お母さん。今頃、どうしているだろう)
私は、忙しさを理由に何年も実家に帰っていなかった。
それでも両親は、季節の変わり目になると決まって、段ボールいっぱいのりんごや新米を送ってきてくれた。「無理しちゃだめだよ」という、不器用なメールと一緒に。
あの時、私は「ごめん、仕事が忙しくて」としか返せなかった。
せめて、死ぬ前にもう一度だけ顔を見て、美味しいご飯を一緒に食べたかった。
(もしかして今頃、私のために戦ってくれているのだろうか)
娘が過労で突然死したのだ。不器用で優しいあの両親のことだ。
ブラック企業を相手に、労災認定のために慣れない裁判などで必死に戦ってくれているかもしれない。悲しませてしまった。苦労をかけてしまっている。
その後悔が、胸の奥をチクリと刺した。
「……どうしたんだい? アオイちゃん、泣いてるのかい?」
マルグリットおばさんが、心配そうに私の頬を撫でた。
気づけば、私の目から一筋の涙がこぼれ落ちていた。
「あっ……いえ、ホットワインが、少し目に染みただけです」
私は慌てて袖で涙を拭い、笑ってみせた。
あの世界には、もう戻れない。
私が前世で転生者であるなんてことは、誰も知らないし、話すつもりもない。
だから、《《私はここでやり直すのだ。》》
(ごめんなさい、お父さん、お母さん。そっちにはもう帰れないし、親孝行もできなかったけれど……私は今、この世界で、最高に優しい人たちに囲まれて生きています)
前世で自分を削って死んでしまった分、今度こそ、私は自分を大切にして生きる。
仲間を大切にして、人間らしい温かい生活を送る。
それが、もう二度と会えない両親に対する私なりのせめてもの「謝罪」と「恩返し」だと思った。
「……私ね。この街に来て、おばさんや、商会のみんなに出会えて……本当に良かったです。私、今すごく幸せです」
私が鼻をすすりながら心から笑ってそう言うと、おばさんは少しだけ目尻を赤くして、「そうかい、そりゃあ良かった」と優しく抱きしめてくれた。
窓の外では、星迎えのランタンの光が、雪明かりに反射してキラキラと輝いている。
前世の私は、居場所なんてどこにもないと思っていた。
けれど今は、この温かい宿屋があり、帰るべき事務所があり、守りたい仲間たちがいる。
(今年も、お疲れ様でした。来年もまた……良い年になりますように)
スパイスの香るホットワインをゆっくりと飲み干しながら、私は新しい年へと向かう静かで穏やかな平穏を、ただ静かに噛み締めていた。




