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魔女のバインダー  作者: 水色蛍
限界事務員、異世界プロジェクトマネジメント編
55/62

第55話:福利厚生とは眼福

 王都の寒さがピークに達した、ある冬の日の午後。

 アリフィ商会の事務所では、今日も暖房係のギルさんがストーブの前で丸くなり、そのふさふさの尻尾で室内の空気をぽかぽかに温めてくれていた。


「あの、アオイさん、リナさん……。ちょっと、いいですか?」


 ティータイムの片付けをしていたフィナさんが、エプロンの裾をぎゅっと握り少し頬を染めてもじもじしながら話しかけてきた。


「どうしました、フィナさん?」


「実は……王都の東区に、新しく『天然魔導温泉』という大きな公衆浴場ができたらしいんです。もしよければ、皆さんで慰安会に行きませんか?」


 フィナさんがそっと差し出したのは、筆書きで大きく「極楽の湯」と書かれた瓦版チラシだった。


 温泉。慰安旅行。


 その言葉の響きだけで、前世の限界事務員だった私の血が騒いだ。

 前世の「社員旅行」といえば、上司の機嫌を取り、宴会で酒を注いで回り、休日に一銭の金にもならない気疲れを強要される地獄のイベントだった。


 だが、この気心の知れた大好きな社員たちと行く温泉なら、それはもう完全なる「最高のご褒美」ではないか!


「賛成です! 今月の売上も絶好調ですし、経費で福利厚生として行きましょう!」

「やったー! 温泉! 広いお風呂で背中伸ばしたかったんだよね!」


 リナさんも両手を挙げて大賛成した、その時だった。


「……邪魔するよ。先月の経理の書類、まとめといたから持ってきた」


 重い木の扉を開けて入ってきたのは、提携パートナーである建築職人のイリスさんだった。


 彼女は雪を払いながら、私が用意した三つの箱の一つ「領収書の箱」をカウンターに置いた。私が月に一度回収に行くという契約だったのに、わざわざ自分で持ってくるあたり、彼女の真面目な職人気質がよく表れている。


「イリスさん、ありがとうございます。そうだ、ちょうど良かった。今から商会の慰安会で温泉に行くのですが、イリスさんも一緒に行きませんか?」

「えっ? いや、私はいいよ。提携してるだけだし、まだ今週分の図面も引かなきゃならないから……」


 遠慮して引き下がろうとするイリスさん。しかし、知らない間に「小悪魔のおねだり」を覚えたばかりの二人が、それを逃すはずがなかった。


「えーっ、イリスさん一緒に行きたいなァ……ダメですか?(うるうる)」

「そうだよイリス! 毎日ノミ握って肩凝ってるでしょ? 一緒に背中流しっこしようよぉ」


 フィナさんとリナさんが、左右からイリスさんの腕にギュッと抱き着き、とろけるような甘い声を出した。


「なっ……!? お、お前ら、急に距離が……っ」


 宝塚の男役のように凛々しいイリスさんの顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤になる。


(ふふふ……イリスさん、その二人の『小悪魔コンボ』から逃れるのは不可能ですよ)


 私は内心でほくそ笑みながら、ギルさんに「お留守番をお願いできますか?」と視線を向けた。


「ああ、俺は一応オスだからな。女だらけの風呂にノコノコついて行く趣味はねえよ。ストーブ番は任せとけ」


「ありがとうございます。さすが、大人の男は違いますね」


 私たちはギルさんに留守を頼み、真っ赤な顔をしたイリスさんを引っ張って、王都の東区へと向かった。


 *


 到着した『天然魔導温泉』は、巨大な木造建築で、湯気がモクモクと立ち上る素晴らしい外観だった。

 しかし、中に入って番台でお金を払い、「女湯」の暖簾をくぐった瞬間――私は目を疑った。


「なっ……なんですか、このカオスな空間は!」


 脱衣所が、地獄だった。

 客が多すぎるわけではない。「導線(UI/UX)」が最悪なのだ。


 入り口と浴室への扉が一つしかなく、しかもそれが狭い。

 これから服を脱ぐ客と、濡れた体で風呂から上がってきた客が正面衝突し、「ちょっと通してよ!」「水滴飛ばさないでよ!」と小競り合いが起きている。


 さらに脱衣カゴの置き場所が壁際にしかなく、床は水はけが悪くてビチャビチャの水浸しだった。


「こりゃあひどいな……。建物の外側ばかり立派にして、客がどう動くかを全く計算してない。完全なる設計ミスだ」


 職人であるイリスさんが、呆れたように呟く。


 私の「限界総務センサー」が、激しく警報を鳴らした。


(このままでは、癒やされるどころか客同士のトラブルが絶えない! これは時間管理の問題です!)


「皆さん、下がっていてください。私が店主に言って、前世のスーパー銭湯のように『完全入れ替え制・入浴は一人四十五分まで』という厳密なタイムスケジュールを導入してきます! そうすれば混雑は――」


 そう言って踵を返そうとした、その瞬間だった。


 ――ピクリ、と。

 私の右腕が不自然に跳ね、スキル『反復拒否』が発動した。


(あっ!? また!?)


 私の意思に反して、体が勝手に脱衣所のど真ん中へ進み出たかと思うと、両腕を激しく交差させながら、交通整理の警備員のように「ハイ進んで! 立ち止まらないで! ほらそこ、四十五分経ったから早く出て!!」と、架空の笛を吹き鳴らすような激しいポーズを取り始めたのだ。


「アオイ、今日はそういうの無し!! せっかくの温泉なんだから、仕事の顔はやめて楽しもうよ!」


 リナさんが私の両腕を後ろからガシッとホールドし、呆れ顔で突っ込んだ。


(わかってる! わかってるんです! リラックスする場所に、分刻みのスケジュール(制限時間)を押し付けるなんて、前世の『全然休まらない社員旅行の宴会』と同じ本末転倒な失敗ルートだって!)


 私は赤面しながらポーズの拘束から自力で抜け出し、コホンと咳払いをした。


「……そ、そうですね。時間ではなく、物理的な導線を変えましょう。イリスさん、少しお力をお借りしても?」


「おう、任せな」


 私たちはササッと服を脱ぐと、バスタオルを巻いた姿で、一時的に脱衣所の環境改善(5S)に着手した。

 まず、脱衣カゴを二つの色(赤と青)に分け、使用中と空きを一目でわかるようにする。


 そして、浴室への扉の隣にあった「使われていない掃除用具入れの扉」をイリスさんが外し、そこに「出口専用」の木の札を掛けた。


「よし。これで入り口と出口が分かれる『ワンウェイ(一方通行)』になりました。逆流による衝突はもう起きません!」


「ついでに、店の裏にあった廃材の木を少し拝借して、床に『すのこ』を組んでおいた。これで足元が水浸しになることもないだろ」


「か、勝手に??ていうかいつの間にそんな都合よく…本当二人とも真面目なんだから」


 ものの数分で、カオスだった脱衣所はスムーズに客が流れる機能的な空間へと生まれ変わった。


 周りの客たちも「あら、なんだか急に広くなったわね」「歩きやすいわ」と喜んでいる。


「さすがアオイさんとイリスさんです! さあ、冷えちゃう前に早くお湯に入りましょう!」


 フィナさんに手を引かれ、私たちはようやく浴室へと足を踏み入れた。


 *


「はぁぁぁぁぁ〜〜〜…………極楽ですぅ〜〜」


 広い岩風呂に肩まで浸かった瞬間、私の口から限界事務員特有の深い、深い魂の吐息が漏れた。

 少し熱めのお湯が、冬の寒さで強張っていた筋肉を芯から溶かしていく。


「あー、最高! 剣の素振りで張ってた肩がほぐれる〜!」

「本当にいいお湯ですね。アオイさん、背中流しましょうか?」


 和やかに笑うリナさんとフィナさん。

 そして、少し離れた岩に背中を預けているイリスさんを見て、私は思わずゴクリと喉を鳴らした。


(ひ、ひえぇ……)


 普段は動きやすい作業着で隠れているが、リナさんもイリスさんも、見事なまでのプロポーションだった。


(しかしこの世界は、女性もですが、男性もまるで絵に描いたような顔つきや身体の方が多いですね。平均値が高すぎる、というか。やっぱり食事が違うのかな。魔法とかも関係アリ??)


 リナさんは日々の鍛錬で無駄な脂肪が削ぎ落とされた、美しく引き締まった筋肉と豊かな胸。

 イリスさんもまた、重い木材を運ぶことで鍛えられたしなやかな腹筋と、普段の職人姿からは想像もつかないほど豊満な女性らしいカーブを描いている。

 そしてフィナさんも、小柄ながらも柔らかな曲線を持っており、完全に「大人の女性」の雰囲気を漂わせていた。


(おお。こ、これが……《《うちの商会の……福利厚生》》……。ありがとうございます、眼福です……)


 湯気越しに、完全にスケベ親父のようなねっとりとした視線と妄想を繰り広げていると、イリスさんが呆れたように私の頭にコツンと手桶をぶつけた。


「おいアオイ。さっきから変な顔してどこ見てんだよ。のぼせるぞ」


「い、いえ! 会社の慰安会が、こんなに幸せな気持ちで過ごせるなんて……感動していたんです」


 私が鼻血を出しそうな顔で笑うと、三人は顔を見合わせてクスクスと笑った。


「また来月も来ましょうね。もちろん、イリスさんも一緒ですよ!」

「……ああ。悪くないな、こういうのも」


 イリスさんが、濡れた前髪をかき上げながらふわりと笑う。その無防備な色気に、私は再び「ひえぇ」と限界オタクのような声を漏らしながら、極楽のお湯に深く沈んでいった。


 *


 その頃。

 アリフィ商会の裏路地にある、ひっそりとした喫煙所らしきスペースでは。


「……ふぅ」

『……』


 モフモフの小狐幻獣であるギルが、短い前足で器用に葉巻(のようなハーブの煙)をふかしながら、渋い煙を吐き出していた。

 その隣には、彼と同じように二本足で立ち、片目に傷のある『渋いオッサン顔の巨大なウサギ幻獣』が、無言で壁に背中を預けている。


「……よォ。お前んとこの嬢ちゃんたちも、温泉か?」


 ウサギの幻獣が、地鳴りのような低音ボイスでポツリと呟いた。


「ああ。うちの社長は、真面目すぎるきらいがあるからな。たまにはあァして、羽を伸ばさせてやるのが俺たち大人の役目ってもんさ」


 ギルが目を細め、夜空に舞う雪を見上げながらハードボイルドに返す。


「違げェねえ。……火、貸してくれや」

「ほらよ」


 キュッ、とギルが尻尾の先で小さな火花を起こし、ウサギの葉巻に火を点ける。

 可愛らしい幻獣たちの外見とは裏腹に、そこには完全に「酸いも甘いも噛み分けた、歴戦の男たち」だけが醸し出せる、重厚でノワールな空気が漂っていた。


「ぷはぁーっ! お風呂上がりのフルーツ牛乳、最高です!!」


 一時間後。

 すっかり茹で上がった私たちが、番台の前で腰に手を当ててフルーツ牛乳を一気飲みし、最高の福利厚生を満喫していた。

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