第52話:ウィンウィンの関係
冬の朝の空気は、鋭い刃物のように冷たくて、吸い込むたびに肺の奥がツンと鳴る。
王都の石畳にはうっすらと霜が降り、朝日を反射して銀色に輝いていた。
私は宿屋『マルグリット』の自室で、厚手のウールコートのボタンを一番上まで留め、マフラーを二重に巻き直す。
「よし、今日も防寒対策は完璧ですね。それでは、行ってきます」
1階の食堂で忙しく立ち働くマルグリットおばさんに挨拶をしてから、私は冷え込む王都の街へ歩み出した。
自分の足で石畳を踏みしめ、冷たいけれど澄んだ空気を味わいながら歩く、職場までの道のり。前世の「満員電車に押し込まれる地獄の通勤」とは比べ物にならない、人間らしい豊かな時間だ。
十分ほど歩き、すっかり見慣れた看板のかかる建物の前で立ち止まる。
私の大切な職場、『アリフィ商会』だ。
ガチャリとドアを開けると、ストーブの焚かれた室内のふわりと暖かな空気が、冷え切った頬を優しく包み込んだ。
「おはようございます。……おや?」
足元を見ると、暖房係として雇った小狐幻獣のギルが、トコトコと駆け寄ってきて私の足首に自らのふさふさの尻尾を巻きつけた。
小さな焚き火のような温もりが、足元からじんわりと広がっていく。
『おう、アオイ。おはようさん。今日も容赦なく冷えるな。外の風で冷えただろ、俺の毛皮で温まっていくかい?』
――鼓膜を震わせるような、低くて渋い、酸いも甘いも噛み分けたベテラン俳優のような超イケボ。
見た目はあんなにモフモフで愛らしいのに、声は完全に頼れるオジサマである。何度聞いても脳がバグりそうになる。
「らしくないですね~。でも、ありがとうございます、ギルさん。」
そこへ、元気な挨拶とともにリナとフィナが出社してきた。
「おはようアオイ! ギルもおはよう!」
「おはようございます。今日も冷えますね」
「おはようございます、二人とも。今日も一日、無理なくタスクをこなしていきましょう」
三人+一匹で本日のスケジュール確認を終え、私は早々に商会を出発した。
今日の最初の業務は、先日パートナーシップを結んだ建築職人・イリスさんの工房への訪問である。
彼女は私の助言を律儀に守り、まずは「十件の確実な修繕の評判」を作ることに専念した。その結果、彼女の職人気質な仕事ぶりはまたたく間に口コミで広がり、今では『ヴァルキュリア工房』の名は、王都の裏通りで「若手ながら腕は確か」と信頼を集め始めている。
「おはようございます、イリスさん。景気はどうですか?」
工房の重い木の扉を開けると、そこには冬の寒さを吹き飛ばすような、力強い木の香りと鋭いノミの音が満ちていた。
作業台に向かっていたイリスさんが顔を上げ、私に気づくと、パッと表情を明るくした。
「……アオイ! ちょうどいいところに来てくれた」
彼女は額の汗を手の甲で拭いながら、こちらへ歩み寄ってくる。ショートヘアがよく似合う凛とした顔立ちの美人の彼女だが、私を見つめる瞳は驚くほど純粋で、温かい。
「アオイの言った通りだったよ。あれから地道に十件、評判を作り上げたら、そこから冬の隙間風対策や修繕依頼が止まらないんだ。あんたが営業活動を許してくれたから……本当に、感謝してる。あんたがいなかったら、私は今頃まだ路頭に迷ってた」
そう言って、彼女がふわりと微笑んだ。
その瞬間――。
(……っ!?)
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
いつもはクールでツンとしている彼女が見せる、砂糖菓子のように甘く、それでいて凛々しい極上の笑顔。
その破壊力は凄まじく、前世で一度だけ友人に連れられて行った歌劇団のトップスターに、最前列でウィンクを飛ばされた時のような衝撃が私を襲う。
「あ、いえ……私はただ、お互い良くなる…提案をしただけで……(何ですか今の笑顔! 美人のギャップ萌えにも程があります! ありがとうございます、朝から目が大変幸せです!)」
内心でオタクのような激しいツッコミを入れながら、私はなんとか平静を装って咳払いをした。
しかし、彼女の作業台の奥にある「事務机」に目を向けた瞬間、私の「限界事務員センサー」がけたたましい警報を鳴らした。
「……イリスさん。あそこの、書類の山は何ですか?」
そこには、グチャグチャに丸まった領収書、インクが滲んで読めない発注書の控え、そして「もう見たくない」と言わんばかりに裏返された請求書の束が、カオスな地層を形成していた。
「……ああ、それか。いや、図面を引くのはいいんだが、あの数字の羅列だけはどうもダメでな。材料の魔石をいくらで仕入れて、報酬をいくらもらったか、頭の中では分かってるつもりなんだが……」
イリスさんは気まずそうに視線を逸らした。
一人親方、いわゆる個人事業主の宿命。「現場は得意だが、バックオフィス(事務)が地獄」という典型的なパターンだ。
「恩人のあんたにこれ以上迷惑はかけられないと思って、自分でやろうとしたんだが……。正直、建物の図面を引くより、あの紙切れをまとめる方がずっとキツい」
(ああ……前世でも聞いたことありました。腕はいいのに事務作業でパンクして、結局黒字倒産しそうになる職人さん。これは放っておけません。アリフィ商会の代表として、そして元事務職のプライドにかけて……!)
私は鞄から、『完璧な複式簿記による財務管理台帳(異世界版)』を取り出そうとした。
これさえあれば、仕訳も資産管理も完璧。
毎日きちんと記入すれば、イリスさんの工房の経営状態を秒単位で可視化できる。さあ、この書き方を徹底的に叩き込んで――
――その時。
私の右肩が、ビクンと不自然な鋭さで跳ねた。
スキル『反復拒否』の強制起動だ。
(えっ!? 待って、なぜここで!? 経理の可視化は経営の基本ですよ!?)
私の意思に反して、右腕が鞄の中に伸ばした手を強引に引き抜き、空中でキザな指パッチンを決めようとする。
さらに、上半身は無駄に反り上がり、片手で前髪をかき上げるような――いわゆる「仕事のデキる嫌味なエリート風の、ひどく鼻につくキメポーズ」に移行しようとしていた。
(ちょっ、止まって! このポーズで「私が管理してあげますよ」なんて言ったら、ただのマウントを取る傲慢な女じゃないですか! 恩着せがましく事務を押し付けるなんて、イリスさんの職人としての尊厳に触れるわ!)
「ぐ……っ、ぬぬぬ……!!」
私は全力で、反り上がる背筋を元に戻そうと腹筋に力を込めた。右手の指パッチンを左手で強引に握り潰し、髪をかき上げようとする腕を自分の脇に挟んで固定する。
イリスさんの前で、私は小刻みに震えながら「ぐぬぬ」と奇妙な唸り声を上げる不審者と化した。
(……そうだ。気づけ、私! 騎士団の備品庫で何を学んだ!?)
イリスさんは「作る」人だ。彼女に複式簿記なんていう高度な事務作業を強要するのは、現場の騎士に台帳記入を押し付けるのと同義。
彼女の貴重な「職人の時間」を、不得意な事務で奪うこと自体が、この世界における「失敗」なのだ。相手の特性を無視したルールの押し付けは、絶対に破綻する。
真の原因を理解した瞬間、体を縛っていた見えない拘束が、ふっと解けた。
私は一気に息を吐き出し、乱れた襟元を整える。
「……アオイ? 大丈夫か? なんだか、すごい顔で自分と戦ってたけど……」
「……失礼しました。少々、前世の――いえ、古い手癖が出そうになりまして」
私は鞄から複雑な台帳を出すのをやめ、代わりに工房の隅にあった手頃な「空の木箱」を三つ、作業台の上に並べた。
「イリスさん。事務作業は、全部私が引き受けます」
「えっ!? いや、でも、あんただって自分の商会の仕事で忙しいだろ? 悪いよ」
「いいえ、これは『アウトソーシング』という立派な業務提携です。イリスさんは、この三つの箱に、紙を放り込むだけでいいんです」
私は三つの箱に、それぞれ色のついた布切れを画鋲で留めた。
「赤の箱には『材料を買った時の領収書』を。青の箱には『お客さんから受け取った報酬の控え』を。そして白の箱には『これから払わなきゃいけない請求書』を入れてください。日付順に揃えなくていいし、計算もしなくていい。ただ、それぞれの箱に放り込む。それだけです」
「……それだけでいいのか?」
「はい。月に一度、私がこの箱を回収して、計算と帳簿付けをアリフィ商会で代行します。その代わり、イリスさんの工房の売上から数パーセントを『事務委託手数料』としていただきます。これで、お互いにウィンウィンの関係です」
イリスさんは目を丸くした後、肩の荷が下りたような、心底ホッとした顔をした。
「……いいのか? 私はただ、箱に紙を捨てるみたいに入れるだけで……。それで、あの地獄から解放されるのか?」
「ええ。イリスさんは、その事務作業から解放された時間で、もっと素晴らしい家具や道具を作ってください。それが私たちにとっても、一番の利益になりますから」
イリスさんはしばらく黙っていたが、やがて力強く頷いた。
「……分かった。乗ったよ、その契約。あんたは本当に……私の欲しいものを、一番いい形で持ってきてくれるんだな」
彼女は照れ隠しのように私の頭を軽く撫でた。
その大きな、ノミのタコができた職人の手のひらが、冬の寒さの中で驚くほど温かかった。
(さあどう来る??正解か??)
何十秒待っても、エラーのサイレンは鳴らなかった。
私の体は自然な姿勢のまま、イリスさんの不器用で優しい温もりを感じている。
前世の私は、何でも一人で抱え込み、他人の分まで苦しんで自滅した。
けれど今の私は、「事務」という自分の得意を武器にして、他人の「得意」を守るための契約を結んだ。
これは、単なる肩代わりや自己犠牲ではない。互いの価値を最大化するための、大人の選択だ。
「よし、契約成立ですね! では、早速この『地層』を回収させていただきます」
「ああ、頼むよ、相棒!」
私はイリスさんの晴れやかな笑顔に見送られ、カオスな書類が詰まった箱を抱えて工房を後にした。
外の空気は相変わらず冷たかったけれど、胸の奥には、炊きたてのスープのような温かい充実感が広がっていた。
冬の王都。
私はまた一つ、スキルにポーズを取らされることなく、自らの意思で「正しい日常」の整え方を見つけたのだった。




