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魔女のバインダー  作者: 水色蛍
限界事務員、異世界プロジェクトマネジメント編
51/62

第51話:確かな成長の手ごたえ

 アリフィ商会の小さなキッチンに、柔らかな春の朝日が差し込んでいる。

 先日のイリスさんとの業務提携の際のお礼で、気になっていた窓枠の立て付けは完璧に修理されていた。隙間風が入り込むこともなく、室内は快適な温度に保たれている。


 私は分厚い鉄鍋でコトコトと煮える野菜スープの音を聞きながら、淹れたてのハーブティーの香りを深く吸い込んだ。朝の清々しい空気と、お湯が沸けるかすかな音、そして足元で「きゅぅ」と寝息を立てる小狐幻獣・ギルの温もり。


(……ああ、なんて平穏な朝なのでしょう。これが人間らしい生活。これが定時退社と完璧な分業がもたらす心のゆとり……!)


 前世で限界事務員として過労死した私にとって、朝という時間は絶望の始まりでしかなかった。けれど今、この異世界での朝は、心を満たす豊かな余白に満ちている。


「おはよう、アオイ! 今日もいい匂いがするねー!」

「おはようございます、アオイさん。スープの準備、手伝いますね」


 珍しく寝癖をピンと立てた剣士のリナと、エプロンをきっちり結んだ治癒士のフィナが出社してきた。私の優秀で可愛い社員たちだ。


「おはようございます、二人とも。今日も一日、無理なく効率的にタスクをこなしていきましょう」


 三人+一匹で和やかに今日の予定の確認を終え、私たちは本日の業務に向けて出発した。今日の目的地は、王国軍騎士団の詰め所である。


「アオイ殿、よく来てくれた。実は少々、頭の痛い問題が起きていてな」


 詰め所の応接室で私たちを出迎えたのは、王国軍騎士団長であるラインハルト・クローヴィッツだった。相変わらず、涼しげな目元と整った顔立ちが際立つ美男子だが、今日は少しだけ眉間に皺が寄っている。


「おはようございます、ラインハルト様。備品の納入と環境チェックで伺いましたが……何かトラブルですか?」


「ああ。最近、詰め所の『生活魔法用の魔石』の消費ペースが異常なのだ。予算を大きく圧迫している上に、肝心な時に必要な魔石が足りないという事態が頻発していて……」


 この世界における魔法とは、「自然の巡り」のようなものである。戦闘用の強力な魔法もあるが、騎士団の詰め所のような日常空間では、火の魔石で暖をとり、水の魔石で汚れを落とし、風の魔石で空気を循環させるといった「生活魔法」が頻繁に使われている。


 私たちは早速、備品庫へと案内してもらった。


 重厚な木の扉を開けると、そこにはひんやりとした冷気と、うっすらと埃の匂いが漂っていた。


 そして、備品棚を一目見て、私は前世の「総務・経理」としてのセンサーが激しく反応するのを感じた。


(……これは、ひどいですね)


 棚の上には、様々な属性の魔石が乱雑に詰め込まれた木箱が置かれているのだが、その中身の偏りが異常だった。


 お湯を沸かしたり武器の手入れに使ったりする「火の魔石」の箱はすっからかんなのに、使い道の少ない「光の魔石」や「土の魔石」は山のように溢れ返り、薄っすらと埃を被っている。


 そこへ、ちょうど訓練終わりの若い騎士がやってきて、火の魔石の箱を覗き込んだ。


「あー、また火の魔石ねぇや。団長、適当に業者に頼んで補充しといてくださいよッス」


 悪びれもせずにそう言うと、彼は去っていった。

 ラインハルトが深くため息をつく。


「……あのように、誰がいつどれだけ使ったのか全く把握できていないのだ。これでは発注の予測も立てられん」


(なるほど、完全なる在庫管理の崩壊ですね。必要なものが欠品し、不要なものが過剰在庫となっている。典型的な『無駄の温床』です)


 前世で、会社の備品庫が同じような惨状になっていたのを思い出す。

 あの時は私が毎日遅くまで残業して棚卸しをし、帳簿を合わせる羽目になったのだ。

 私は持っていた革鞄を開け、自信満々に分厚い紙の束を取り出した。


「お任せください、ラインハルト様。原因は明白です。使用状況の可視化ができていないからです。今日からこの『完璧な備品持出管理台帳』を導入しましょう!」


 私が作成した、エクセルも真っ青の美しい罫線が引かれたフォーマットである。


「この台帳を棚の横に置き、使用した騎士に必ず『日時・氏名・魔石の種類・個数』を記入させます。そして毎週末に棚卸しを行い、残数と突合するのです。これで予算管理は完璧に機能します!」


 さあ、これを受け取ってください、と私がドヤ顔で台帳をラインハルトに差し出そうとした、その瞬間だった。


(……えっ?)


 ピクリ、と。

 私の右腕が、不自然に跳ねた。

 背筋に冷たい悪寒が走るわけではない。


 ただ、私の中に宿るスキル『反復拒否リフューザル』が、「その行動は、過去の失敗と同じルートである」と判定し、強制的に別の選択肢を取らせようと起動したのだ。


(ま、まさか、スキル発動!? どうして!? この台帳システムは完璧なはずなのに――!)


 私の意志とは裏腹に、体が勝手に動き始める。

 差し出そうとした台帳をギュッと胸に抱きしめ、首をコテンと横に傾け、上目遣いでラインハルトを見つめながら、片目でパチリとウインクをしようと――


(あっ! まずい、体が勝手に!? このポーズは……っ、あざとすぎる! 王国軍トップの騎士団長の前でやるには社会的ダメージがデカすぎる!)


「んんんんっ……!!」


 私は咄嗟に、自分の左手で右腕をガシッと押さえ込んだ。歯を食いしばり、首の筋肉に全力を込めて傾きを阻止する。

 台帳を抱きしめたまま、謎の空気イスのような中腰姿勢で小刻みに震える私を見て、ラインハルトが目を丸くした。


「……アオイ殿? なぜ台帳を抱きしめて、顔を真っ赤にして震えているのだ?」

「……アオイのやつ、また体がバグってるね」

「今日はちょっとアクロバティックですね」


 背後でリナとフィナが生温かい会話をしているのが聞こえるが、今はそれどころではない。


 私は必死に体と格闘しながら、急速に頭を回転させた。


(なぜ失敗ルートと判定された? この台帳のどこがダメだというの? ……あっ!)


 私は震える視界の端で、泥にまみれた剣を腰に下げ、汗だくで廊下を歩いていく騎士たちの姿を捉えた。


(……そうだ。彼らは『騎士』だ。日々体を張り、命を懸けている体力勝負の男たち。そんな彼らに、細かい文字をちまちま書くような事務作業を強要して、長続きするはずがない!)


 前世の会社で、現場の職人たちに新しい入力システムを導入しようとして、「そんな面倒なことやってられるか!」と総スカンを食らい、結局誰も入力せずにシステムが形骸化した、あの最悪の失敗パターンと同じだ。


(相手の環境と性格――その『余白』を無視した一方的なルールの押し付けは、絶対に失敗する!)


 原因に気づき、心の底から理解した瞬間。

 強制的な体の動きが、スッと霧が晴れるように引いていくのを感じた。


「ふぅ……あ、危ないところでした」


 私はギリギリのところでウインクポーズの完成を回避し(途中キャンセル成功だ!)、乱れた前髪を整えて何事もなかったかのように咳払いをした。


「……ラインハルト様。今の台帳の件は忘れてください。現場の騎士の方々に、事務作業を強いるのは得策ではありません。もっと直感的で、絶対に負担にならない方法を提案します」


「お、おう。アオイ殿がそう言うのなら構わないが……」


 私は備品庫を見渡し、前世の「ダブルビン(ツービン)方式」を応用したアナログな仕組みを構築することにした。


「それぞれの魔石を入れる箱を、二つずつ用意します。片方の箱から魔石を使い、完全に空になったら、その『空箱』を棚の下に置くこちらの『回収カゴ』に入れてください。そして、奥にあるもう一つの満杯の箱を手前に引き出して使い始めます」


「……箱をカゴに入れる? それだけか?」


「はい。文字を書く必要も、数を数える必要も一切ありません。『空になったらカゴに入れる』。それだけです。私たちアリフィ商会、あるいは騎士団で契約されている魔道具業者の方などが定期的にここへ来て、カゴに入っている空箱だけを回収し、満タンにして次回の納品で持ってくる。それ自体が発注のサインになります」


 ラインハルトはまじまじと魔石の箱を見つめ、やがてハッと息を呑んだ。


「なるほど……! 視覚的に在庫が半分になったことがわかり、なおかつ発注の手間がない。文字を書くのが苦手な粗忽者どもでも、これなら絶対に間違えようがないな!」


「ええ。さらに、魔石の属性ごとに箱の色を明確に塗り分けましょう。赤は火、青は水、緑は風。これで、パッと見ただけで『今、何の魔石が足りていないか』が直感的に把握できます」


 私の提案を聞いて、ラインハルトは感嘆の表情を浮かべた。


「見事だ、アオイ殿。このような日常の細やかな問題まで解決してしまうとは。さすがは私が信頼を置く『なんでも屋』だ、失礼。今は『アリフィ商会』という名だったな」


(さあ来なさい、スキル。これが失敗ルートだと言うのなら、止めてみせなさい)


 私は内心で身構えたが――十秒経っても、二十秒経っても、スキルは一切発動しなかった。

 自然な姿勢のまま、私は静かに安堵の息を吐き出す。


 前世のやり方をそのまま押し付けるのではなく、この世界の人々の生活に寄り添い、自らの頭で「より良い選択」を導き出すことができた。


 スキルに頼らず、スキルにポーズを取らされなかったという事実が、私自身の確かな成長を証明してくれているようで、少しだけ胸が誇らしかった。


 *


 帰り道。

 王都の石畳を歩きながら、私は腕の中でスヤスヤと眠るギルの柔らかな背中を撫でていた。


「今日の依頼もサクッと終わったねー! アオイのバグりポーズも途中で止まったし!」


「ふふっ、アオイさん、台帳を抱きしめている姿も可愛かったですよ」


 無邪気に笑うリナとフィナに、私は少しだけ頬を赤くしながら咳払いをした。


「からかわないでください。あれは……その、一時的な魔力の乱れのようなものです。それより、今日の依頼料もしっかりといただきましたから、晩ごはんは市場で新鮮な魚でも買って、ご馳走を作りましょうか」


「やったー!」


「私、お魚捌くの得意です!」


 間違えそうになっても、立ち止まって考え、仲間の助けを借りて、正しい道を選ぶことができる。

 この温かく優しい異世界での生活は、今日もまた一つ、正しい形に整えられていくのだった。

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