第50話:勝負師
冷たい冬の風が吹きすさぶ郊外の空き地から、私たちは建築職人のイリスさんを連れて事務所へと戻ってきた。
扉を開けると、魔導ストーブの柔らかな熱気と、薪のパチパチと爆ぜる音が、私たちの冷え切った体を優しく包み込んでくれる。
「おかえりなさい、アオイさん、リナさん。……えっと、そちらの方は?」
留守番をしてくれていたフィナさんが、見知らぬ長身の女性を見て目をぱちくりとさせた。
「彼女はイリス・ヴァルキュリアさん。建築職人の方です。少し、お話をすることになりまして。フィナさん、温かい紅茶をお願いできますか」
「はいっ、すぐに!」
イリスさんは事務所のソファにドカッと腰を下ろしたが、その表情はまだ硬く、警戒心を解いていないようだった。
ストーブの前の特等席では、小狐の幻獣ギルが「やれやれ、また面倒な客を連れてきたな」とばかりに渋い声で喉を鳴らした。
「さて、イリスさん。先ほどの話の続きを聞かせていただけますか」
私は湯気を立てる紅茶のカップを彼女の前に置き、向かいの席に座った。
イリスさんは少し迷ったようにカップを見つめた後、両手でそれを包み込み、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……私の親父は、腕の良い石工だったんだ。私は親父の背中を見て育って、親父の工房と、職人としての誇りを継いだ。でもな……」
彼女はギュッと唇を噛み締めた。
「王都の大きな仕事は、新築も城の改修も、全部『工匠ギルドの連合』が持っていく。あそこは実績と抱えている職人の数が全ての世界だ。私みたいな、若くて後ろ盾のない『一人親方』は、連合に登録すらさせてもらえない」
それは、前世の言葉で言えば『ゼネコンの壁』だった。大きな組織が大口の公共事業や開発を独占し、小さな個人事業主はそこに入り込む余地がないという、残酷な市場の現実。
「石工だけじゃ仕事は到底奪えない。だからなんでもやって、小さな修繕仕事で食い繋いで、町のお客さんに顔と腕を売って、コツコツと実績を積むしかなかった。……それなのに、あんたたち『なんでも屋』ができたせいで、その小さな仕事すらごっそり持っていかれたんだよ!」
イリスさんはギリッと奥歯を鳴らし、俯いた。
自分の腕には自信と誇りがあるのに、それを発揮する場所がない。
理不尽な環境と自分自身の無力さに対する、行き場のない怒りと悔しさ。
(……ああ。痛いほど、わかります)
私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。私も前世で、どんなに真面目に頑張っても評価されず、組織の歯車としてすり潰されていく悔しさを味わったからだ。
「……アオイ」
隣に座っていたリナさんが、私の袖をそっと引いた。
「私ね、イリスさんのあの顔、わかる気がする。私がお世話になってた冒険者パーティで、剣士として全然役に立てなくて、悔しくて泣いた時の顔に似てる」
リナさんの言葉に、フィナさんも真剣な顔でこくりと頷いた。
「私もです。王立医学校を卒業したばかりの頃、治癒魔法がうまく使えなくて、誰も助けられなかった時の無力感……。アオイさん、なんとかしてあげられないでしょうか……?」
私の可愛い部下たちは、本当に優しい子たちだ。
他人の痛みに共感し、寄り添うことができる。
(ええ。もちろんですとも。私の前世のビジネス知識は、こういう時のためにあるんですから)
私は限界事務員の顔の皮を被り直し、経営者としての冷徹かつ温かいロジックを組み立てた。
「イリスさん。冒険者ギルドへの転職や、他の工房の下働きに入ることは考えなかったのですか?」
「……考えたさ。でも、できなかった。私は、親父から継いだこの『ヴァルキュリア工房』の看板を捨てたくない。いつかこの看板を大きくして、親父みたいに立派な家を建てるのが、私の夢なんだ」
その言葉を聞いて、私は確信した。
彼女は、単なる同情や施しを求めているのではない。
対等なビジネスパートナーとして扱うべき、誇り高き職人なのだ。
「イリスさん。あなたに、一つ提案があります」
私は背筋をピンと伸ばし、まっすぐに彼女の目を見た。
「私たちアリフィ商会の下働き(傘下)に入るのではなく、対等な『業務提携(パートナーシップ契約)』を結びませんか」
「……ぎょうむ、ていけい?」
「はい。現在、我がアリフィ商会には、屋根の修理や石垣の積み直しといった物理的な土木・建築系の依頼が多く舞い込んでいます。しかし、私たちは事務や魔法トラブルの解決には長けていますが、建築のプロではありません。ですから今後、そういった『専門的な建築関係の依頼』は、すべてあなたに外注(発注)します」
イリスさんが、驚いたように目を丸くする。
「ちょっと待て。それじゃあ、アリフィ商会の仕事の旨味が減るだろ?」
「いいえ。適材適所の分業化です。私たちは窓口(元請け)としてお客様から依頼を受け、紹介・管理手数料として『規定の手数料』をいただきます。その代わり、実作業とそこから発生する報酬の大部分は、あなたが受け取ってください」
私はさらに言葉を続けた。
「現場に行く際、あなたは『王城御用達・アリフィ商会の提携職人』という肩書きを使って構いません。私たちの信用を、あなたの仕事の保証として使ってください」
「……っ! あんたたちの、看板を貸すってのか……!?」
「ええ。ただし、これだけではありません。……ここからが、重要な条件です」
私は一度言葉を切り、真剣なトーンで告げた。
「私たちが発注した現場で、あなたが十回。十回、お客様から『素晴らしい仕事だった』と完璧な評価を勝ち取り、確かな実績を積んだとしましょう」
「……ああ。十回なんて、私の腕なら余裕だ」
「その条件を満たした場合――あなたは、そのお客様に対して『次から家の改築など大きな仕事があれば、直接ヴァルキュリア工房をご指名ください』と、直営業をかけることを特別に許可します」
「…………は?」
イリスさんはぽかんと口を開けた。
足元のクッションで煙草を吹かしていたギルが、むせ返るように「ゴホッ、ゲホッ!」とむせた。
「おい、社長! 正気か!?」
ギルが慌てて立ち上がり、渋い声で突っ込んでくる。
「下請けに、元請けの客を直取り(中抜き)させる許可を出すなんて、商売のタブー中のタブーだぞ! そんなことしたら、アリフィ商会から客が離れていくだけじゃねえか!」
ギルの言う通りだ。前世のビジネス界においても、下請け企業が元請けの顧客を直接奪う行為はご法度であり、訴訟問題にすら発展する契約違反である。
イリスさん本人すら、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
「どうして……どうして、そこまでしてくれるんだ? それじゃあ、あんたたちの商会が損をするだけだろ……」
「損などしませんよ」
私はクスッと笑った。
「私たちの本業は『なんでも屋』であって、建築会社ではありません。お客様が大きな家を建てたいと思った時、プロであるあなたに直接依頼できた方が、お客様にとっても絶対に幸せです。私たちの理念は、『日常のズレを直し、人々が心地よく明日を迎えられるようにすること』ですから」
それに、と私は付け加えた。
「それが、あなたの目標である『会社を大きくすること』への最短ルートでしょう? 十回の完璧な仕事を成し遂げた暁には、あなたはもう一人前の親方として独り立ちできるはずです」
私はイリスさんの目を真っ直ぐに見つめ返し、最後に経営者としての絶対の条件を突きつけた。
「その代わり、私からの条件です。どれほど安くて簡単な仕事でも、絶対に手を抜かないこと。そして、必ず完了報告を上げること。あなたの手抜きは、看板を貸す私たちの信用の失墜に直結します。……私は、あなたを信じて現場を託します」
それは、経営者としての「信用リスク」という名のギャンブルだった。
前世の私なら、他人がミスをして自分の責任になることを恐れ、「他人に任せるくらいなら私が全部やる」と、全てを抱え込んで過労死ルートに突入していただろう。
けれど今の私は、彼女の職人としての誇りと、悔し涙の重さを知っている。
(さあ来なさい、スキル! これが「他人に丸投げして責任を負うリスクの高い失敗ルート」だと言うのなら、私に『過保護なオカン』のポーズでも何でも取らせて、止めればいいでしょう!)
私は内心でギュッと身構え、スキルの発動を待った。
…………。
しかし。
十秒経っても、二十秒経っても、スキル『反復拒否』は一切発動しなかった。
(……止まりませんね)
私の体は自然な姿勢を保ったままだ。
エラーのサイレンは鳴らない。
それはつまり、このビジネスにおいて、他人のプライドを信じ尊厳を守りながら任せるという選択が、決して間違っていないという証明だった。
私は自分の中で、前世のトラウマから完全に脱却し、確かな成長を遂げたことを実感して、深く安堵の息を吐き出した。
「……ただし、このシステムは、申し訳ありませんが他の職人さんには『他言無用』でお願いします」
私はウィンクをして見せた。
「たくさんの職人さんに回せるほどの土方仕事は、今の私たちにはありませんからね。これは、イリスさんだけの特別契約です」
私の言葉を聞き終えたイリスさんはしばらくの間、じっと俯いていた。
やがて、彼女の肩が小さく震え始め、目元を乱暴に袖で拭う。
「……あんた」
イリスさんは顔を上げ、少し赤くなった目で私を睨みつけた。けれど、その口元には、不敵で頼もしい笑みが浮かんでいた。
「見た目は優しそうでホワホワしてるくせに、中身はとんでもない勝負師だな。……いいだろう。その条件、乗ってやるよ!」
彼女はバンッ! と膝を叩いて立ち上がった。
「絶対に手は抜かない。簡単な仕事でも完璧に仕上げて、十回の実績なんてあっという間に積んでみせる! 任せな、社長。ウチの腕で、アリフィの看板をもっとピカピカに磨き上げてやるよ!」
「はい。期待していますよ、イリスさん」
私が微笑んで立ち上がり、契約成立の握手をしようと右手を差し出した。
その時だった。
「ありがとな、アオイ!!」
「……んぐぉっ!?」
ガシィッ!!
イリスさんは私の右手を無視して、そのまま両腕で私を力いっぱい、それこそ骨が軋むほどの勢いでギュッと抱きしめてきたのだ。
「ちょっ、イリスさん!? 苦しいです! 肋骨が! 肋骨が砕けます!!」
「本当に、本当にありがとう……っ! 私、絶対に立派な親方になってみせるからな!」
長身でスタイルの良いイリスさんに強く抱きしめられ、私の顔は彼女の豊かな胸の渓谷(?)に完全に埋もれてしまっていた。
(うほっ! なんですかこの圧倒的な包容力と柔らかさは!! 男勝りな職人なのに、感情が高ぶると女の子全開で抱きついてくるなんて、ギャップ萌えの破壊力が高すぎます!! しかし息が……っ!)
「あははっ! イリスさん、アオイが潰れちゃうよ!」
「イリスさん、アオイさんの顔が真っ青ですー!」
リナさんとフィナさんが慌てて私たちを引き剥がそうとするが、イリスさんの職人仕込みの筋力には敵わない。
ギルが呆れ顔で煙草の煙を吐き出しながら、その様子を眺めている。
冬の寒さを吹き飛ばすような、賑やかで温かい事務所。
息ができなくて意識が遠のきそうになりながらも、私の心の中は新しい頼もしいパートナーとの出会いに対する、最高の充実感で満たされていた。




