第47話:温かなスープ
リュミエール王国は平和である。
その平和は、長い歴史の中で数多くの失敗を重ねた末に成り立っている。
かつては他国との領土争いや戦乱が絶えず、多くの命が失われた。
淀んだ生命の瘴気に触れて現れた魔物によって、近隣の村や町は地図から姿を消していった。
王国の騎士は戦争のために存在する。
そのため、民間では魔物から人々を守るべく、ギルドが創設された。
民の税や労働は戦に費やされ、多くの若い男性が武器を手に取り、人と、そして魔物に立ち向かっていった。
リュミエール王国の平和は、多くの失敗の上に成り立っている。
それでも魔物は絶えることは無い。
戦争の危機は消え去ったわけでは無い。
今日も若く勇敢な人間は、国を。大事な人を守るべく。
あるいは、伝承に語られる夢に思いを馳せて、剣を握る。
私はこの国の空気が大好きだ。
些細なトラブルや喧騒は絶えないが、それでも手を取り合って不器用ながらも一生懸命にみんなが生きている。
時には涙を流す時だってあるだろう。
それでも私は温かいご飯と、ゆっくり寝れる場所があれば
人はいつだってまた頑張れると思える。
いくら孤独だって、夜がいつも長くても
小さな光の縁に触れれば、朝はいつだってやってくるように。
目が覚めた時に最初に触れる言葉と光を
私はいつだって温かくありたい。
*
幼いころに、私はただ一度。家出をしたことがある。
理由も覚えていないくらい、ささいな出来事だったと思う。
夜も近づき、寂しさに耐えきれず泣いていたとき、
一人の優しいおばちゃんが手を引いてくれた。
木でできた、温かい空気と色の建物だった。
そのおばちゃんは温かなスープを私にくれた。
家に帰る勇気が無い私は、ここに泊まると言った。
その時に、おばちゃんは
「無理に帰れなんて言わないよ。でもね、帰りたくなった時に帰れる場所があるなら、それは大事にしてほしいんだよ。」
という言葉をくれた。
私はその夜、家に帰った。
お父さんお母さんは泣いていた。
あの時の選択肢は間違えていなかったんだと感じた。
それから私は度々おばちゃんに会いに行っては、いろいろなことを教えてもらった。
初めて教えてもらって作った料理も、あの時のスープだった。
やがて大人になる時に、おばちゃんは空へ還った。
後から知ったのだが、おばちゃんに子供はいなかった。
夫も息子もギルドの戦士だった。
息子は父に憧れていた。
父がある依頼で遠くへ行って、帰ってこなかった。
息子は、きっと悲しみに暮れた母の背中を見ていたのだろう。
そしていつか、自分もギルドに入ると決め、「父さんを探しに行く」と言った。
数年後、彼は父が受けたのと同じ依頼を引き受けた。
けれど、帰ってこなかった。
*
家は静かになった。
笑い声も、喧嘩の声も、扉を開ける音も。
火にかけた鍋の音だけが、やけに大きく響くようになった。
それでも、おばちゃんは火を止めなかった。
帰ってくるかもしれないと、思っていたのかもしれない。
あるいは、帰ってこないと分かっていたからこそ。
ある日、家の前に気配があった。
そこにいたのは、行き場を失った子どもだった。
震える手を引いて、おばちゃんは家に招き入れた。
「お腹、すいてるだろう」
それだけを言って、スープをよそった。
——帰ってこなかった人たちに、してやれなかったことを。
目の前の誰かに、してやりたかったのだ。
*
おばちゃんの家は、宿屋になった。
旅人やギルドの戦士たちが、束の間の休息を取る場所。
笑い声と、疲れた背中と、明日へ向かうための灯りが集まる場所だった。
けれど、帰ってこない客の名前が、少しずつ増えていった。
帳面に残る名前を、おばちゃんは消さなかった。
帰ってくるかもしれないと、信じていたからかもしれない。
あるいは、忘れないためだったのかもしれない。
それでも宿の灯りは消えなかった。
帰る場所を失った誰かが、
せめて一晩だけでも体を休められるように。
温かいものを食べて、少しだけ前を向けるように。
——あの夜、私がそうしてもらったように。
だからおばちゃんは、誰にでも優しかった。
強いからじゃない。
優しくあろうと、決めたからだ。
私は今、その宿を継いでいる。
軋む床も、古びた看板も、
台所に残る鍋も、そのままだ。
あの時と同じように、スープを作る。
迷っている誰かのために。
帰る勇気が出ない誰かのために。
あの日、私がもらった言葉と、灯りを。
今度は、私が手渡す番だと思っている。
私の宿屋の一室には、帰る場所を失った子が一人いる。
理由は聞かなかった。聞く必要もない。
その子は誰もが認める「真面目な頑張り屋さん」だ。
困っている人を放っておけない。
誰かの役に立ちたい。
私にはそれが少し生き辛そうに見える時があった。
まるで何かに追われるように。
失敗を恐れているかのように。
けど、ある日から。
彼女は、《《まるで生まれ変わったかのように》》、笑顔が増えた。
もともと笑顔のかわいい子だったけれど、
今は――心の底から笑っている。
そんな気がした。
とてもうれしかった。
あんなに何かに追われるようだったのに、
今はもう、その影は見えない。
彼女が、いつでも笑顔で帰ってこられるように。
私は今日も、あの夜と同じように、温かなスープを作る。
そう思っていると、ちょうど扉の向こうで足音がした。
「ただいま!マルグリッドさん!」
「おかえり、アオイ。お腹すいたでしょう?」
湯気の向こうで、あの夜と同じ匂いがした。




