第45話:誰かの道標
フィナさんの家での、マニュアルのない温かいお泊まり会。
美味しいシチューでお腹を満たし、フカフカの布団に潜り込んだ私は、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
――気がつくと、そこは何もない静かな場所だった。
視界を覆うのは、淡い乳白色の靄。
足元は不明瞭で、新雪の上を歩いているような、ふわりとした感覚だけがある。
寒くも暑くもなく、風の匂いすらしない、あの『狭間』の空間だった。
「ずいぶんと、顔つきが柔らかくなったわね」
「ああ。自分の会社を持ち、間違えることを許せる仲間もできたようだ」
靄の向こうから、男女の穏やかな声が聞こえてきた。
私が前世で過労死した直後、魂をこの異世界へと導き、「反復拒否」というスキルを与えてくれた、あの世界の案内人(神様)たちだ。
「お久しぶりです。ええ、おかげさまで」
私は白い空間に向かって、丁寧にお辞儀をした。
「あなたたちがくれたこのスキルのおかげで、私はもう、同じ失敗で自分を削ることはなくなりました。……ただ、最近は発動しそうになるポーズを自力でねじ伏せるのに、腹筋と背筋を酷使していますが」
私が苦笑いすると、二人の神様もクスクスと笑い声を立てた。
「ふふっ。でも、前に言ったでしょう? その変なポーズは、あなたが前世でずっと抑圧していた『本当のセンス(本心)』だって」
「ですから、私のセンスはあんな胡散臭い料理人や情熱的な闘牛士ではありませんってば!」
私は思わず抗議の声を上げた。以前、夢に現れた時にも言われたこの残酷な真実だけは絶対に認めたくなかった。
「ははは。まあ、そうして笑って言い返せるようになったのが、何よりの成長の証だよ」
男性の神様が、優しく語りかけてくる。
「失敗を恐れて心を閉ざしていた君が、今では自分から誰かのズレを直し、導いている。……そろそろ、君が誰かの『道標』になる番かもしれないね」
「道標、ですか……?」
私が首を傾げた瞬間、乳白色の靄がスッと晴れ、視界がまばゆい朝の光に包まれた。
*
「……んっ」
目を開けると、そこはいつものアリフィ商会の事務所の奥、私の私室だった。
宿屋のボイラー点検が終わったため、今朝早くにフィナさんのアパートから戻ってきていたのだ。
窓の隙間から入り込む冬の冷たい空気に身震いすると、足元で丸くなっていた金色のモフモフ――小狐の幻獣ギルが、のそりと顔を上げた。
「……社長。お前の寝相の悪さのおかげで、俺の毛並みが少し乱れたぜ」
「おはようございます、ギルさん。極上のホッカイロありがとうございました」
私は渋い声で文句を言うギルをわしゃわしゃと撫でてから、身支度を整えて事務所に出た。
今日はリナさんは冒険者ギルドの定期訓練の支援。
フィナさんは王立医学校での研修があり、二人とも出払っている。
事務所にいるのは、私とギルの「一人と一匹」だけだ。
魔導ストーブに火の魔石をくべ、淹れたての紅茶の香りが部屋に広がり始めた、その時だった。
バンッ!
「た、頼む……! 助けて、くれ……っ!」
悲痛な叫び声と共に、勢いよく事務所の扉が開いた。
「いらっしゃいませ。どうされ――」
私が振り返ると、そこには見覚えのある青年が、文字通りボロボロの状態で立っていた。
王都の巡回警備を担当する、若手見習い騎士のオスカー・レイヴァンだ。
以前、迷子の男の子を助けた際に、マニュアルにない事態にパニック(フリーズ)を起こし、私の指示でなんとか動けるようになった、あの生真面目な青年である。
「オスカーさん!? どうしたんですか、その顔!」
彼の目の下には、前世の月末の私を彷彿とさせるような、どす黒く強烈なクマが刻まれていた。銀色の甲冑はくすんでおり、何よりその両手には、抱えきれないほどの「大量の羊皮紙の束」が握りしめられている。
「アオイ殿……僕、もう、どうしていいか……っ」
オスカーさんはフラフラと事務所に入ってくると、そのままソファに崩れ落ちた。
彼の手から零れ落ちた羊皮紙には、びっしりと細かい文字が書き込まれている。
「落ち着いてください。温かい紅茶をどうぞ。ギルさん、少し彼を温めてあげて」
「やれやれ。俺はストーブじゃねえんだがな」
ギルが渋々といった様子でオスカーさんの膝に乗り、額のルビーから柔らかな熱を放つ。
オスカーさんはガタガタと震える手でティーカップを受け取り、泣きそうな声で事情を話し始めた。
「実は僕、持ち前の真面目さを買われて、第一騎士団の『冬期パトロールのシフト作成』と『防寒具の在庫管理』の責任者に抜擢されたんです」
「素晴らしいことじゃないですか。昇進のチャンスですね」
「ですが……完全に、パンクしました……っ」
オスカーさんは頭を抱えた。
「誰がいつ非番で、どの区画を何人で回るのか。誰の防寒マントが修理中で、予備がいくつあるのか……。全部この羊皮紙に書き出しているんですが、紙が多すぎて、自分が何を書いたのかわからなくなって……!」
「なるほど」
「昨日も、パトロールの班を重複させてしまって、先輩たちにものすごく迷惑を……っ。僕なんて、やっぱり駄目なんです。マニュアル通りにしか動けない無能で、同じミスばかり繰り返して……っ」
一人で仕事を抱え込み、責任感に押し潰されて激しい自己嫌悪に陥るオスカーさん。
(……っ!)
私は、彼のその姿に息を呑んだ。
目の前にいるのは、かつての私だ。
完璧にやらなければと全てを背負い込み、文字だらけの書類に埋もれ、ミスを重ねて精神をすり減らしていった、前世の『限界社畜・後藤葵』の姿そのものだった。
(かわいそうに! あんな古い羊皮紙の羅列で複雑なスケジュール管理なんて、できるわけがありません! ええい、そんなずさんな労働環境、私が全部巻き取って徹夜で片付けてあげます! その書類を全部こちらへ!)
私はかつての自分を救うかのように、前世の限界社畜ソウル(過剰なお節介)を大爆発させ、オスカーさんの抱える書類の山に強引に手を伸ばそうとした。
――その瞬間だった。
ビシィッ!!
私の中に備わったスキル『反復拒否』が、猛烈な勢いでエラーのサイレンを鳴らした。
「……んぐっ!?」
私の体は勝手に動き出し、オスカーさんの前に立って大きく足を開いた。
そして、空中に散らばる無数の書類をすべてその身で受け止め包み込もうとするかのように、両腕をありえない速度で残像が見えるほど激しく上下に動かし始めたのだ。
それはまるで、すべてを救済しようとする『千手観音』か、あるいは過保護すぎるオカンが子どもの荷物を全部横取りするような、神々しくも圧倒的に恥ずかしいポーズだった。
(ひえええええっ!? なんですかこの、後光が差しそうな宗教的ポーズは!!)
私は業火のような羞恥心で顔面を沸騰させながら、スキルの放つ強烈なメッセージを理解した。
(……はっ! つまり、私が可哀想だからと彼の仕事を『代わりにやってあげる』のは、彼自身の成長機会を完全に奪う行為! しかも、私自身も他人の仕事まで背負い込んで過労死ルートに戻るという、最悪の『共倒れエラー』だという警告ですね!?)
「あーみだーっ!!」と謎の詠唱を叫びそうになる自分の口を、私は左手でガシィッ! と塞いだ。
そして、千手観音のように暴れ狂おうとする右腕を、己の腹筋と背筋を極限まで酷使して、プルプルと震えながら強引にねじ伏せた。
「……んぐぐぐぐ……っ!」
「ア、アオイ殿……? なぜ一人で激しく腕を震わせているのですか……?」
オスカーさんが涙目で不思議そうに見上げてくる。
ふと視線を下に向けると、オスカーさんの膝の上で丸くなっているギルが、私の千手観音ポーズ(未遂)を見て、心底呆れたような、そして哀れむような冷ややかな視線を送っていた。
(あああっ……! 狐(幻獣)にまで、あんな「可哀想な生き物を見る目」を向けられるなんて……っ!)
私は内心で血の涙を流しながら、ポーズを完全にキャンセルし、咳払いをして「冷静な大人」の顔の皮を被り直した。
「……コホン。失礼。あまりのずさんな管理手法に、前世の……いえ、私の経理魂が荒ぶってしまいました」
*
「いいですか、オスカーさん。私はあなたの仕事を『代わりにやる』ことはしません」
私は荒い息を整え、彼をまっすぐに見据えた。
「代わりに、あなたが絶対にミスをしないための『システム』を作ってあげます」
私は風魔法を指先に込め、テーブルに散らばった文字だらけの羊皮紙をサッと一箇所にまとめた。
「人間の脳は、文字の羅列から直感的にスケジュールを把握するようにはできていません。必要なのは『視覚化』です!」
私は事務所の奥から、大きな一枚の『木の板』と、小さな『木札』を大量に持ち出してきた。
「まず、この大きな板の縦軸に『騎士の名前』を書きます。そして横軸に『日付』の線を引きます」
私はチョークで、前世のスケジュール管理の王道である『ガントチャート(工程表)』の枠組みを一瞬で書き上げた。
「次に、この小さな木札の裏に、何度も貼って剥がせる微弱な『吸着の魔法』を付与します。木札には『日勤』『夜勤』『非番』と書いて、色を分けます。これをマグネットのように、板の該当するマスにペタペタと貼っていくんです!」
「おおっ……!?」
オスカーさんの目に、少しずつ光が戻ってきた。
「防寒具の在庫も同じです。別の板に『マント』『手袋』の絵を描き、現在倉庫にある数だけ、木札を貼るんです! 誰かが借りたら、その人の名前の横にマントの木札を移動させる! 修理に出したら『修理中』の枠に動かす!」
前世のアルバイト先やオフィスで当たり前のように使われていた『シフトボード』と『ガントチャート』。
しかし、紙の台帳と気合と根性に頼り切っていたファンタジー世界の脳筋騎士たちにとっては、それはまさに革命的な概念だった。
それにせっかくの魔法があるのだ。うまく使ってあげないともったいない。
「これなら……! 誰がいつ休んでいて、装備がどこにいくつあるのか、一目で直感的にわかります……!」
「その通りです。頭の中で情報を抱え込むからパンクするんです。情報はすべて、脳の外に出して可視化してください。そして、このボードを騎士団の詰め所の壁にドーン! と貼り出しなさい」
「壁に、ですか?」
「はい。そうすれば、あなた一人で管理しなくても、『おいオスカー、俺の非番の日が間違ってるぞ』って、先輩たちが勝手にボードを見て指摘してくれます。他人の目をシステムに組み込むんです」
一人で抱え込まず、仕組みに頼り、他人に頼る。
それが、失敗を繰り返さないための最適なアプローチなのだ。
「アオイ殿……っ!」
オスカーさんはガバッと立ち上がり、私の手を取ってブンブンと上下に振った。
「ありがとうございます! この魔法の板があれば、もう僕はパニックになりません! アオイ殿、あなたは僕の恩人です!」
「ふふっ。マニュアルがないなら、自分でマニュアルの土台を作ってしまえばいいんですよ。さあ、詰め所に戻って、さっそく木札を並べてきなさい!」
「はいっ!!」
オスカーさんは憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔になり、大きな木の板を抱えて、嵐のように事務所を飛び出していった。
*
「……やれやれ。うちの社長は、お節介焼きのコンサルタントだな」
窓辺のクッションに戻ったギルが、呆れたようにけれど少しだけ優しい響きのある渋声で呟く。
「なんでも屋ですから。日常のズレを直すのが、私の仕事です」
私は新しく温かい紅茶を淹れ直し、ストーブの前の椅子に深く腰掛けた。
ティーカップから立ち上る湯気を見つめながら、私は今朝の夢の中で聞いた神様の言葉を思い出していた。
『そろそろ、君が誰かの道標になる番かもしれないね』
前世で失敗ばかり繰り返し、過労で静かに壊れてしまった私。
この世界に来てからも、最初はスキルに頼りきりで、変なポーズを取らされては赤面してばかりだった。
でも今は、それ以上にこうして過去の自分と同じように苦しんでいる誰かに、具体的な解決策を提示し、背中を押してあげることができる。
(……少しは、私自身も成長できているんでしょうか)
私はギルの温かい金色の毛並みをそっと撫でながら、誰にも見えないように、小さく、穏やかに微笑んだ。
限界事務員の異世界生活は、失敗を修正するだけでなく。
誰かの明日を導く道標となって、今日も静かに、そして確かに前へと進んでいくのだった。




