第44話:仕事一流・生活三流
王都の冬はいよいよ本格的な寒さを迎えていた。
分厚いコートと手袋が手放せない季節。私がいつも暮らしているマルグリットさんの宿屋でも、冬に向けた大掛かりな設備メンテナンスが行われることになった。
「ごめんねえアオイちゃん。今日から明日の朝にかけて、魔導ボイラーの年次点検が入るんだよ。お湯も出ないし暖房も効かないから、今夜はどこか別のところに泊まってもらえるかい?」
アリフィ商会へわざわざ出向いて、申し訳なさそうに手を合わせるマルグリットさんに、私は「問題ありませんよ」と笑顔で頷いた。
すると、横で話を聞いていたフィナさんが、パッと顔を輝かせた。
「アオイさん! それなら今夜、私の家でお泊まり会をしませんか!?」
「えっ、フィナさんのご自宅ですか?」
「はい! ちょうど昨日、実家から美味しい冬野菜とお肉が届いたんです。リナさんとギルちゃんも一緒に、みんなで温かいものを食べて女子会しましょう!」
「おっ、大賛成! 私も行く行くー!」
リナさんが元気に手を挙げ、私の足元ではギルが「やれやれ、小娘たちの夜会に付き合わされるのか」と渋い声で呟きながらも、まんざらではない様子で尻尾を揺らした。
*
仕事終わり。私たちは王都の東区画にある、フィナさんのアパートへとやってきた。
ガチャリ、と扉が開く。
「さあ、どうぞ! 散らかってますけど……」
フィナさんに案内されて足を踏み入れた瞬間、私は衝撃を受けた。
……散らかっている、だと?
床はチリ一つなく磨き上げられ、窓辺には可愛らしいレースのカーテンと手入れの行き届いたハーブの鉢植え。
部屋全体からは、ふんわりと甘いフローラルな香りが漂っている。
どこからどう見ても、生活力の高さと女子力がカンストしている「完璧な女の子の一人暮らし部屋」だった。
(……それに比べて、前世の私の部屋はどうだったでしょうか)
私の脳裏に、前世で住んでいた
『都営浅草線・馬込駅 徒歩十分、築三十年の1Kアパート』の光景が蘇った。
脱ぎ散らかしたストッキング、テーブルを占拠するコンビニ弁当の空き箱とエナジードリンクの缶。休日は一歩も外に出ず、ベッドの上で干物のように丸まっていた限界社畜の巣窟。女性としての尊厳も、男の気配なんて微塵もない部屋。
(あああ……私、果たしてこの子たちの上司でいていいんでしょうか。人間としての生活レベルで完全に敗北しています……!)
私は内心で床に突っ伏して泣きながらも、表面上は「素敵なお部屋ですね」と、完璧なポーカーフェイスを保っていた。
しかし、本音を言えば。
(推しの部屋! フィナさんの私生活空間! スーハースーハーと深呼吸してこの尊い空気を肺いっぱいに取り込みたい衝動に駆られますが……ダメです、そんなことをしたら完全に変態が滲み出てしまいます! 威厳! 私はアリフィ商会の代表!)
私はプルプルと震える頬の筋肉を必死に抑え込み、変態スマイルが漏れ出るのをなんとか防いだ。
*
「さて、それじゃあ今夜は『あったかクリームシチュー』にしましょう!」
フィナさんが可愛らしいエプロンを身につけ、キッチンに野菜を並べた。
「料理の段取りならお任せください! 私はこれでも、商会の代表として数々のプロジェクトを回してきましたからね!」
私は先ほどの生活力の無さを挽回すべく、自信満々で包丁を握りしめた。
しかし、私は重大な事実から目を背けていた。
前世の私はコンビニと外食で命を繋いでいた人間であり、包丁などまともに握ったことがないということを。
「ええと……まずは、このニンジンですね」
私はまな板の上のニンジンを睨みつけた。
(料理もビジネスと同じです。完璧な計算とフロー構築が命。シチューの中でニンジンの熱伝導率を均一にするため、すべて正確に1.5センチの立方体に切り揃えなければ……!)
私は自分の指を定規代わりに当て、ミリ単位で角度を計算しながら、おっかなびっくり包丁をミリミリと入れ始めた。
「ア、アオイさん……? ニンジン一本切るのに、もう十分以上経ってますけど……」
フィナさんが心配そうに覗き込んでくる。
「い、今、完璧なキューブ型を生成するクリティカルパスを模索中でして……っ」
さらに十五分経過。まな板の上には、いびつな多面体になったニンジンの欠片が散乱していた。
(くっ……! 私の手癖がエクセルのセルのように正確に動いてくれません! このままでは納期(夕食の時間)に間に合わない!)
焦った私は、横にあった玉ねぎとキャベツを睨みつけた。
「ええい、時間がもったいないです! ならば、風魔法の真空刃で、これらを一気に千切りにして――」
私が無謀にも、室内で風魔法を極限まで圧縮し、力業の調理(というか破壊)に出ようと両手を構えた、その瞬間だった。
(さあ来なさい、スキル! どうせまた「無茶な魔法調理は大怪我の元」とか言って、私が深夜の胡散臭い料理番組みたいな笑顔で『オリーブオイルを高い位置からかけ回すポーズ』でも取らされるんでしょう!? ほら、ドンと来い!)
私は目をギュッと瞑り、体が勝手に動くのを覚悟した。
…………。
しかし。十秒待っても、二十秒待っても、スキル『反復拒否』は一切発動しなかった。
「……あれ?」
私は目を開け、空中でピタリと止まったままの自分の手を見た。
エラーの警告音も鳴らない。体も勝手に動かない。
(えっ? スキルさん? なぜ止めてくれないんですか?)
私は戸惑った。
これまでなら、私が無理な力業に出ようとすれば、必ず強烈なポーズで制止してくれたはずだ。
そして、ふと気がついた。
料理で野菜の切り方を間違えたり、大きさが不揃いになったりすることは、命に関わる致命的な破滅ではない。
少し味が染み込みにくくなるかもしれない。少し不格好になるかもしれない。
でもそれは、「取り返しのつかない失敗」ではなく
ただの「笑ってやり直せる、日常の試行錯誤」なのだ。
だから、スキルは私を止めなかった。
「間違えてもいいんだよ」と、許容してくれたように。
「ストーップ! アオイ、キッチンで物騒な魔法を使わないの!」
私の手が魔法を放つ直前、背後からリナさんが笑いながら私の両腕をホールドした。
「アオイさん、お料理にそんなミリ単位の完璧な計算は要りませんよ」
フィナさんが、私の手から包丁を優しく受け取った。
「見てて。ニンジンはこうやって、転がしながら適当に切るの。乱切りの方が味が染みて美味しいんだから」
野営で料理慣れしていたリナさんが、トントンッ! と小気味よい音を立てて、ニンジンをあっという間に不揃いな形に切り分けていく。
「お鍋の火加減も、魔力出力何パーセント、なんて数字で測らなくていいんです。お鍋のグツグツいう音を聞いて、味見をして……『あ、美味しいな』って、心で『感じる』ことが一番大事なんですよ」
フィナさんが、木べらで鍋をかき混ぜながら、ふんわりと微笑んだ。
「……感じる、こと」
私はハッとした。
異世界に来てから、私は仕事において「感覚」や「経験」の重要性を説いてきた。でも、私自身の私生活においては、前世のガチガチなマニュアルやビジネスロジックに縛られたままだったのだ。
「さあアオイさん、一緒に混ぜましょう」
「……はい」
私はエクセル的思考をゴミ箱に捨て、フィナさんと一緒に木べらを握った。
鍋から立ち上る、バターと小麦粉、そして野菜が煮える甘くて優しい匂い。
コトコトと鳴る音に合わせて、私は不器用ながらも心を込めて鍋をゆっくりとかき混ぜ続けた。
*
「うわぁ……美味しいです」
完成したクリームシチューは、私が切ったいびつなニンジンや、リナさんの豪快な乱切り野菜がゴロゴロと入っていて、見た目は少し不格好だった。
けれど、一口食べると、野菜の甘みと濃厚なミルクのコクが、冬の冷え切った体にじんわりと染み渡った。
前世で食べていた、レンジで温めるだけのコンビニ弁当とは比べ物にならない、血の通った温かい味がした。
「ふん。やれやれ、仕事は一流だが、生活は三流だな、うちの社長は」
窓辺に置かれた専用のクッションの上で、ギルが『スモルダリング・オーク』を舐めながら、呆れたような渋い声で呟く。
「うっ……返す言葉もありません」
「ふふっ、でも、みんなで作ったご飯って最高だよね!」
「はいっ! アオイさん、次のお休みには、一緒にお菓子作りの練習しましょうね!」
美味しいご飯を食べた後は、温かいお茶を飲みながらの女子会タイムだ。
話題は街の噂話から、最近読んだ恋愛小説のこと、そして「ラインハルト様って、あんなにカッコいいのにどうして独身なんでしょうね?」という恋バナ(?)まで、果てしなく広がっていった。
他愛のないおしゃべりをして、たくさん笑って。
(……スキルに頼らず、間違えながら覚えていくのも、悪くないですね)
私は、自分が少しだけ「限界事務員」の殻を破り、人間らしい女の子としての温かさを取り戻せたような気がしていた。
夜が更け、私たちはフィナさんが用意してくれたフカフカの布団に並んで潜り込んだ。
私の足元では、極上のホッカイロであるギルが丸くなって、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「おやすみなさい、アオイさん、リナさん」
「おやすみー……」
マニュアルのない、不格好だけれど愛おしい日常。
私は二人の穏やかな寝息を聞きながら、これまでにないほどの深い安心感に包まれて、静かに眠りについた。




