第29話:休むのは、生きるための仕事です
ギルドの窓口改革を終え、ガストンさんとの過去のわだかまりも解けた数日後。
リュミエール王国の季節は少しずつ移ろい、朝晩の風に微かな冷たさが混じるようになってきていた。
ある朝。
私がマルグリットさんの宿屋の自室で目を覚ますと、視界がぐらりと大きく揺れた。
「……あれ?」
体が鉛のように重く、関節の節々が軋むように痛む。喉の奥がカラカラに乾き、息を吐くたびに熱い空気が唇から漏れ出た。
そっと自分の額に手を当ててみると、明らかに平熱ではない熱を帯びている。
どうやら、季節の変わり目の気温差と、ここ最近の立て込んだ業務の疲れが重なり、風邪を引いてしまったようだ。
(いけませんね。自己管理も仕事のうちだというのに)
私は重い体を鞭打つようにして、ベッドから身を起こした。
今日は、依頼された魔導具の部品回収と、町内会の寄り合い所での簡単な備品整理の仕事が入っている。どちらも私が現場監督として立ち会う予定だ。
(早く着替えて、事務所を開けないと。私が休んだら、依頼人にもリナさんやフィナさんにも迷惑がかかってしまいます……)
前世の、染み付いた「社畜のトラウマ」が私を急き立てる。
どんなに熱があっても、這ってでも会社に行く。休めば自分の居場所がなくなるのではないかという恐怖。誰かに「迷惑な奴だ」と舌打ちされる幻聴。
私はフラフラとした足取りでクローゼットを開け、いつもの白いブラウスに袖を通そうとした。
――その瞬間だった。
ビシィッ!!
私の中に備わったスキル『反復拒否』が、猛烈なサイレンを鳴らして起動した。
「……えっ?」
ブラウスに伸びかけた私の手が、空中でピタリと止まる。
そして、私の意志とは完全に無関係に、体がスッと不自然な動きを始めた。
私はそのまま後ろ向きにベッドへとダイブし、仰向けに倒れ込んだ。両手でふかふかのシーツを掴み、あごのところまでギュッと引き上げる。それでよかったはずだ。
しかし首を少しだけコテンと傾け、片目をぱっちりと開けてウインクし、あざとさ全開の『可愛い寝たふりポーズ』を取らされてしまったのだ。
(なにこれ!? 誰が見ているわけでもない密室で、なんで私一人でウインクしてるの!? 痛い! 虚しい!!)
顔面から火が出るほどの羞恥心で熱がさらに上がりそうになりながら、私はスキルの放つ強烈なメッセージを理解した。
(体調不良なのに、無理をして出勤しようとする。それは、前世で私が死に至った『過労死ルート』という最大の失敗そのものです! だから『無理せずおとなしく寝てろ』って警告ですよね!? わかります、わかりますけど、一人きりの部屋でウインクさせるのはやめてください!!)
コンコンコンッ!
スキルの拘束が解け、私がシーツの中で身悶えしていると、部屋の扉がノックされた。
「アオイさーん? 大丈夫ですかー?」
「アオイ? 起きてるー?」
扉の外から聞こえてきたのは、フィナさんとリナさんの声だった。
ハッとして壁の時計を見ると、とっくに「なんでも屋」の開業時間を過ぎている。
いつもなら私が一番に鍵を開けてお茶を淹れているはずなのに、私が来ないものだから、二人揃って心配して宿屋の部屋まで様子を見に来てくれたのだ。
「開いてますよ……ゲホッ、ゴホッ」
私がかすれた声で返事をすると、二人が慌てて部屋に入ってきた。
「アオイさん! どうしたんですか、顔が真っ赤ですよ!」
フィナさんが血相を変えて駆け寄り、私の額にピタリと手を当てる。
「すごい熱です! ダメですよ、起き上がっちゃ! すぐに横になってください!」
「ご、ごめんなさい。でも、今日の依頼が……」
私がシーツを握りしめて言うと、リナさんが腰に両手を当てて、ビシッと私を指差した。
「ダメ! アオイは今日、絶対にお休み!」
「しかし、部品回収が――」
「今日の依頼は、私とフィナちゃんで全部やってくるから!」
リナさんは私の言葉を遮り、頼もしく胸を張った。
「アオイがいつも作ってくれる『スケジュール表』もあるし、何に気をつければいいかも分かってる。私たちに任せて、今日は一日ゆっくり休んでて!」
「そうです! 私だって治癒と調薬の魔法があります。アオイさんはいつも私たちのために頑張ってくれているんですから、今日くらいは私たちに甘えてください!」
フィナさんも、医療従事者としての有無を言わさぬ迫力で私の肩を押し、無理やりベッドに横たえさせた。
「……すみません。お言葉に甘えます」
二人の真剣で温かい眼差しに、私は抗うことをやめ、深くシーツに沈み込んだ。
*
「行ってきまーす!」と元気よく二人が仕事に出かけていき、部屋には静寂が訪れた。
ベッドの中で目を閉じると、微かな熱っぽさと共に、前世の記憶が蘇ってくる。
前世で就職して一人暮らしを始めてから、私は体調を崩しても、誰かに看病してもらった記憶がなかった。
熱でフラフラになりながら、深夜のコンビニでゼリー飲料と解熱剤を買い、冷たいアパートの部屋で一人、誰からも心配されることなくベッドで丸まる。
スマホに届くのは、上司からの「明日は来れるよね?」という無機質な業務連絡だけ。それが、私の知る「体調不良」だった。
コンコン。
「アオイちゃん、入るよ」
扉が開き、宿屋の女将であるマルグリットおばさんが、大きなお盆を持って部屋に入ってきた。この世界の日常の基盤を作ってくれた、恰幅の良い優しい女性だ。
「まったく、あんたはいつも頑張りすぎるんだよ。若いんだから、もっと肩の力抜きなさいな」
マルグリットさんは小言を言いながらも、私のベッドの傍に椅子を引き、お盆を置いた。お盆の上には、湯気を立てる木製のボウルと、薬草の匂いがする小さなカップが乗っている。
「フィナちゃんが調合してくれた風邪薬と、私特製の『すりおろし果実と蜂蜜の温スープ』だよ。喉が痛くても、これならスルスル入るからね。さあ、起き上がれるかい?」
「……ありがとうございます、マルグリットさん」
私はゆっくりと体を起こし、マルグリットさんから木製のスプーンを受け取った。
温かいスープを一口含むと、異世界の果実の優しい甘みと、生姜のようなピリッとした香辛料の風味が、喉から胃へとじんわり広がっていく。
冷え切っていた体の芯から、ポカポカと温かさが満ちてくるような、信じられないほど美味しいスープだった。
何より、誰かが私のために作ってくれた、その温もりが一番の特効薬だった。
「美味しいです……すごく」
ポロリと、私の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「おや、どうしたんだい。熱でつらいのかい?」
「いえ……誰かに看病してもらうのなんて、本当に久しぶりで。なんだか、申し訳なくて」
私はスープを飲み込みながら、ぽつりとこぼした。
「私が休んだら、リナさんやフィナさん、それに依頼人の皆さんに迷惑をかけてしまう。私が止まったら、ダメなんじゃないかって……そんな気がして」
それは、私の魂の根本にこびりついた、呪いのような感情だった。
マルグリットさんは、そんな私の頭を、大きな温かい手で優しく撫でた。
「アオイちゃん。あんたは賢くて、何でもできる子だけど……少しだけ、間違えてるね」
「間違えてる……?」
「休むのは、弱い人の権利じゃないわ。必要なときに止まれる人の強さだよ」
マルグリットさんは、穏やかな、けれど力強い瞳で私を見つめた。
「あんたが倒れたら、リナちゃんやフィナちゃんはどうなるんだい? 彼女たちは、あんたに守られるだけのお荷物かい?」
「違います! 二人は、とても優秀な私の誇りです!」
「だろう? だったら、その優秀な子たちを信じて頼りなさいな」
マルグリットさんは、私の手から空になったボウルを受け取った。
「いいかい、アオイちゃん。私たちは、仕事のために生きてるんじゃない。休むのは、生きるための仕事だよ。自分を削ってまで続ける仕事なんて、どこにもないんだ」
休むのは、生きるための仕事。
その言葉が、熱で霞む頭に、雷のように響いた。
そうだ。私は過労で死に、この世界に転生した。
もう二度と同じ失敗をしないために。
休むことを恐れ、自分をすり減らすことこそが、私が最も避けるべき『失敗』だったのだ。
「……はい。そうですね」
私は深く深呼吸をして、憑き物が落ちたように柔らかく微笑んだ。
「今日は、二人に甘えて……ゆっくり休ませてもらいます」
*
夕方。
窓の外がオレンジ色に染まる頃、バタバタという足音と共に、自室の扉が勢いよく開いた。
「ただいまー! アオイ、熱はどう!?」
「アオイさん、お加減いかがですか!」
そこには、少しだけ顔に泥をつけながらも、満面の笑みを浮かべたリナさんとフィナさんが立っていた。
「おかえりなさい、お二人とも。マルグリットさんとフィナさんのお薬のおかげで、熱はすっかり下がりましたよ」
私がベッドの上で微笑むと、二人はホッと安堵の息を吐いた。
「依頼は、どうでしたか?」
「ふふん! 完璧だよ!」
リナさんが誇らしげに胸を張る。
「ローガンさんのところの部品回収も、魔導具の取り扱いリスト通りに傷つけずに運べたし! 町内会のお悩みも、アオイの用意してくれたマニュアル『現状分析』を使って、ちゃんと根本から解決してきたんだから!」
「私、アオイさんがいなくても、リナさんとちゃんと『ホーレンソウ』をして、怪我なく依頼を終わらせることができました!」
フィナさんも、目をキラキラさせて報告してくれた。
「私たち、アオイさんがお休みでも、やれるってところを証明したかったんです。だから、これからも安心して私たちに頼ってくださいね!」
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
私がいないと回らない、そんなちっぽけな組織ではなかったのだ。
私が教えたシステムや論理は、しっかりと二人の血肉となり、彼女たち自身の力として花開いている。
私の作った会社は、もう私一人が全てを抱え込む必要のない、強い組織に成長していた。
「……お二人は、本当に最高の社員です」
私は目元を拭い、心からの感謝を伝えた。
「ありがとうございます。これからは、もっとたくさんお二人に頼らせてもらいますね」
「うんっ! 任せて!」
「はいっ!」
前世では決して味わうことのできなかった、安心できる休息と看病の温かさ。
自分の帰る場所があり、代わりを務めてくれる仲間がいることの心強さ。
温かい夕陽に照らされた部屋で、二人の可愛い笑顔を見つめながら、私は本当の意味での「有給休暇」の素晴らしさを、異世界で初めて深く噛み締めていた。




