第26話:何でも屋の役割
南国の果実が放つ、濃厚でとろけるような甘い香り。
なんでも屋の事務所は今、この世の至福を詰め込んだような空気に包まれていた。
「んん〜っ! 甘くて冷たくて、最高です!」
「このオレンジ色の果肉、口の中でとろけちゃうよ!」
今日の午前中、南の交易商人ケイさんから報酬としていただいた大量の高級フルーツ。それをふんだんに使って、今日の昼休憩は三人で特大のフルーツパフェを作ったのだ。
冷やしたガラスの器に、濃厚な果汁、サクサクの焼き菓子。
そして近所の酒場から分けてもらった冷たいミルクアイスが層を成している。
スプーンですくって口に運べば、労働の疲れなど一瞬で吹き飛ぶというものだ。
「ええ、本当に美味しいですね。やっぱり『先入れ先出し』の在庫管理を徹底した甲斐がありました」
私はすまし顔でパフェを味わいながらも、内心では(最高! 異世界スイーツ最高! 前世のコンビニスイーツも良かったけど、採れたて果実のパフェには勝てません!)と小躍りしていた。
平和な午後。
このまま午後の業務は「書類整理」という名の適当な雑務で消化し、のんびりとお茶でも飲んで過ごそう。
そう思っていた、矢先のことだった。
カランコロン。
控えめにドアベルが鳴った。
「はーい、いらっしゃいませ!」
リナさんが元気よく立ち上がってドアを開ける。
しかし、そこに人の姿はなかった。
「あれ? 誰もいない……?」
「きゅぅぅ……」
足元から、微かに掠れたような鳴き声が聞こえた。
リナさんが下を向いて「あっ!」と声を上げる。
私とフィナさんも急いでドアの前に駆け寄った。
「こ、これは……」
木製のステップの上に倒れていたのは、両手で抱えられるほどの小さな生き物だった。
キツネのような細い顔立ちだが、被毛は淡い青色をしており、耳の先や尻尾の毛が水滴のように透き通っている。しかし、その美しいはずの毛並みは泥とヘドロのような黒い汚れにまみれ、浅い呼吸を繰り返してぐったりと衰弱していた。
「水精獣です! 綺麗な水辺に棲む幻獣なのに、どうしてこんな泥だらけに……!」
フィナさんが悲鳴のような声を上げ、すぐさま膝をついた。
「リナさん、清潔な濡れタオルを! アオイさんはお水を!」
「はいっ!」
テキパキと指示を出すフィナさんは、まさに医療現場で働くプロの顔だ。
私が急いで汲んできた水を飲ませ、リナさんが泥を拭き取ると、フィナさんが両手をそっと幻獣にかざした。
「――癒えよ」
温かい魔力の光が、小さな体を包み込む。
数秒後。幻獣は「きゅっ」と小さく鳴いて目を開けた。ビー玉のような丸くて黒い瞳が、私たちを不思議そうに見つめる。
「よかった、息を吹き返しました!」
フィナさんがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
元気を取り戻した水精獣は、ちょこんと立ち上がると、私の仕事着である濃紺のスカートの裾をくわえ、ぐいぐいと外へ向かって引っ張り始めたのだ。
「えっ? ちょ、ちょっと、ストップです。どこへ行くつもりですか?」
「きゅぅん! きゅぅん!」
水精獣は私の裾を離さず、必死に何かを訴えかけるように鳴いている。
「……どうやら、私たちに助けてほしい場所があるみたいね」
リナさんが長剣を腰に帯びながら言った。
「行きましょう、アオイさん。この子がこんなに衰弱するなんて、ただ事じゃありません」
フィナさんの真剣な眼差しに、私は短く頷いた。
「ええ。昼休憩は終了です。現場に向かいましょう」
*
水精獣に案内されてやってきたのは、王都の外れにある、鬱蒼とした森の奥だった。
そこには、かつては美しかったであろう古い泉があった。
しかし、目の前に広がる光景は、ファンタジーの神秘とは程遠いものだった。
「うっ……すごい臭い……」
リナさんが思わず鼻をつまむ。
漂ってくるのは、ドブのような、卵の腐ったような強烈な腐敗臭だ。
泉の水は墨汁のように黒く濁り、水面には不気味な泡が浮いている。
周囲の草木は生気を失って茶色く枯れ果てており、鳥の鳴き声すら聞こえない。
魔法が「自然の巡り(呼吸)」であるこの世界において、この泉は明らかに何らかの原因で『魔力の巡りが詰まり、完全に窒息している』状態だった。
「こんななるまで誰も気づかなかったのかしら?」
「まさか、この泉が汚れるなんて考えてなかったんじゃ」
「きゅぅぅ……」
水精獣が、泉の縁で悲しそうに鳴いている。ここが彼らの棲み処なのだろう。
「これはひどいですね。環境エラーも極まっています。……よし、まずは生活魔法の『浄化』で、この濁った水を一気に綺麗にしてしまいましょう」
私は袖をまくり上げ、泉に向かって両手をかざした。
「――清らかなる水よ、」
私が魔法を発動させようとした、まさにその瞬間だった。
――ゾクッ。
私の中に備わったスキル『反復拒否』が発動した。
しかし、今回はいつものような『おふざけの恥ずかしいポーズ』ではなかった。
泉に向けた私の両手が、ピタリと見えない壁に阻まれたように硬直する。同時に、背筋を氷の塊で撫でられたような、強烈な悪寒が走ったのだ。
(……っ!? なに、今の冷たい感覚! いつもの変なポーズじゃない!)
私は冷や汗を流しながら、スキルの発する『シリアスな警告』の意図を瞬時に読み解いた。
(まるで、システムエラーの根本原因を特定せずに、その場しのぎでサーバーを強制再起動して、顧客のデータが全部飛んでしまったあの日のような……致命的なエラーの予感……っ!)
原因を取り除かずに、上辺だけの浄化(上書き)を行う。
それは、詰まりきった血管に無理やり血液を流し込むようなもので、泉の命脈そのものを完全に破壊してしまう最悪の選択なのだ。
「アオイ? どうしたの、顔色が悪いよ?」
リナさんが心配そうに覗き込んでくる。
「……いえ。浄化はストップです。対症療法ではダメだ。根本的な原因を探りましょう」
私は両手を下ろし、深く息を吐き出した。
「お二人とも、泉の周辺をよく観察してください。何かが『巡り』を塞いでいるはずです」
私の指示に、二人は真剣な顔で泉を覗き込んだ。
「アオイ、あそこ……水面の下、流れが変だよ」
リナさんが、泉の底の一点を指差した。
剣士としての研ぎ澄まされた観察眼が、わずかな水流の不自然な乱れを捉えたのだ。
「魔力の脈が……あの一点だけ、極端に詰まっています!」
フィナさんも、治癒魔法の感覚を応用して、目に見えない魔力の淀みを見つけ出した。
見れば、水精獣も前足でその一点を指し示すようにして鳴いている。
私は工具袋から、長い火箸(ゴミ拾い用のトングのようなもの)を取り出した。
「いきますよ」
私は濁った水の中に火箸を突っ込み、リナさんとフィナさんが指し示した泉の底の岩の隙間を探った。
泥の中に、カチン、と硬い感触がある。
「……これだ」
私は慎重に火箸を操り、それに力を込めて引き抜いた。
水面から現れたのは、錆びついて黒く変色した、古い魔導具の欠片(歯車のような部品)だった。おそらく、心無い誰かが森に不法投棄したゴミが、雨風で流されて泉の底に沈み、魔力の湧き出し口を塞いでしまっていたのだ。
「こんな小さなゴミ一つで、泉全体が死にかけていたんですね……」
私がその欠片を引き抜いた、次の瞬間だった。
――カチッ。
まるで、世界に巨大な歯車が正しく噛み合ったような、澄んだ音が響いた。
直後、泉の底からコポコポと湧き上がってきたのは、ただの水ではない。
「わぁ……っ!」
フィナさんが感嘆の声を漏らす。
泉の底から、淡いブルーの清らかな水と共に星屑のようにキラキラと輝く純度の高い魔力の光がブワァッと溢れ出したのだ。
濁っていた水は瞬く間に透明になり、底の美しい白い砂利が見えるようになる。
鼻を突いていた腐敗臭は消え去り、森の空気が一気に清涼で甘いものに変わった。
そして信じられないことに、枯れかけていた泉の周囲の草木が、目に見えるスピードで青々とした生気を取り戻し小さな白い花を一斉に咲かせたのだ。
すごい……綺麗……!」
リナさんが、空中に舞い上がる星屑のような光に手を伸ばす。
魔法の本来の姿。
「自然の巡り」が正常な形を取り戻した瞬間が、これほどまでに幻想的で美しいものだとは知らなかった。
「きゅぅん! きゅんっ!」
大喜びで飛び回っていた水精獣が、私の足元に駆け寄り、ピョンと跳ねて私の頬をペロリと舐めた。
「ふにゃあっ……」
冷たくて柔らかい感触。そして、圧倒的なモフモフの暴力。
前世から大の動物好き(しかしペット禁止のアパート住まいで我慢していた)だった私の防波堤は、一瞬にして決壊した。
「か、可愛い……! なんて可愛い生き物なんでしょう……! お持ち帰りしたい……だめですか、もふもふ……」
私は頬を押さえ、へにゃへにゃとだらしない顔でしゃがみ込んでしまった。
限界事務員のメッキが完全に剥がれ落ちている。
「ふふっ、アオイさん、動物好きなんですね」
フィナさんが微笑ましく笑いながら、教えてくれた。
「この国には、あの子みたいに自然の魔力を保って人と共存する優しい幻獣がたくさんいるんです。でも逆に、淀んだ魔力にあてられて、凶暴な魔物になってしまう子もいて……だからこそ、こういう自然の『調律』が大切なんですよ」
「調律、ですか」
私は、泉の周りで仲間たちとじゃれ合いながら森の奥へと帰っていく水精獣の姿を見送った。
エクセルを使った効率化や、マニュアル化によるシステムの改善。それも私の武器だが、それだけでは解決できない「世界の息遣い」がここにはある。
わずかなズレを見逃さず、丁寧に原因を取り除き、本来の美しい巡りを取り戻すこと。
それもまた、「なんでも屋(失敗の修正者)」としての私の大切な役割なのだ。
「さあ、帰りましょうか。美味しいパフェの残りが待っていますよ」
私が立ち上がり、ブラウスの汚れを払いながら言うと、リナさんとフィナさんが元気よく「はい!」と頷いた。
清らかな風が吹き抜ける森の中で、私は深く深呼吸をした。
胸の奥まで透き通るような空気に、異世界に来てよかったと、心から思える一日だった。




